第177話 敗走と狩猟小屋
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街道から深く入った森の奥。
かつて貴族の遊興に使われ、今は半ば見捨てられている古い狩猟小屋の壁板を、冷たい夜風がすり抜けていく。
炉には火が入っていた。だが薪が少なく、部屋は少しも暖まらない。
湿った藁の散らばる床に、泥にまみれた高級な革ブーツが投げ出されている。
片方だけ残った豪奢な手袋。そして、上質な生地が煤と泥で汚れたリヒテンブール公爵家の紋章入り外套。
机の上に置かれた、不釣り合いに重そうな金貨の革袋だけが、この小屋で唯一価値のあるものだった。
「火を絶やすな。寒いではないか」
外套にくるまりながら、アルベールは震える声で命じた。
アルベールは奥歯をかたかたと鳴らしていた。それは、寒さからだけではない。
なぜ自分が、こんな小屋で夜を越さねばならないのか。
その一点だけが、彼の腹の底で煮え続けていた。
「……申し訳ありません。周囲で拾える薪が、ほとんどなくて……」
かじかんだ手で火搔き棒を握りながら、従者が力なく答えた。
「森だぞ。薪くらいいくらでもあるだろうが」
「外へ様子を見に出た護衛の方々が……まだ、戻っておりません。暗闇でやみくもに外へ出るのは危険です」
「臆病者どもめ……」
アルベールは忌々しげに吐き捨てた。
兵が勝手に泥に足を取られた。副官が騒ぎ、護衛が臆した。
そうでなければ、あのような結果になるはずがない。
アルベールの中では、まだそういうことになっていた。
(あの忌々しいアシュランさえいなければ……!)
あの追放者と流民の村が、自分にふさわしい武功を邪魔したのだ。
「夜が明けたら、すぐに王都へ戻る」
アルベールは机の上の金貨袋を引き寄せながら言った。
「街道は、敗残兵と見捨てられた荷車で完全に塞がっているかと……」
従者が不安げに口を挟む。
「ならば避けて進めばいい。金ならある」
アルベールは金貨の詰まった袋を叩いた。
「王都へ戻れば、すべて立て直せる。父上に言えば、北部の連中などすぐに黙るし、新たな軍を編成することもたやすい」
「ですが、その金貨袋を持ったままでは、敗残兵の目にとまり、かえって目立ちます」
「金がなければ誰が動く! 馬も、食料も、新たな護衛も、すべてこの金で買えばいいのだ」
アルベールは従者を鋭く睨みつけた。
「私はまだ負けていない。少し退いただけだ」
従者は、もはや何も言い返さなかった。
ただ、冷え切った目で床の藁を見つめるだけだった。
◇
「腹が減った。もう食べ物はないのか?」
アルベールが、従者の手元を見て不満げに言った。
「残っている食料は、この干し肉が二切れだけです」
従者が、小さな包みから硬い肉片を取り出した。
「馬鹿な。あの大軍の補給はどこへ行ったのだ」
従者は、アルベールの言葉には返答しなかった。
「ええい、寄越せ」
アルベールは当然のように手を出し、二切れの干し肉を両方とも奪い取った。
「閣下、外で見張りをしている護衛の分も――」
「そんなもの、戻ってから考えればいいだろう」
アルベールは、硬い肉を奥歯で無理やり噛みちぎりながら言った。
「……承知しました」
従者は、自分の取り分を要求しなかった。
ただ、空になった革袋を丁寧に畳み、自分の膝の上へ置いた。
彼はゆっくりと目を伏せ、そのまま黙って俯いた。
その時、小屋の外で乾いた枝が折れる音がした。
小屋の入り口に残っていた護衛の一人が、剣の柄に手をかける。
だが、寒さと疲労でその手はひどく震えていた。
「……誰かいます」
護衛が、かすれた声で警告する。
「我が家の迎えか?」
アルベールが顔を上げる。
「早すぎます」
従者が短く答えた。
「声を出さないでください。数が……分かりません」
護衛が扉から少しだけ身を引いた、次の瞬間。
コン、コン。
軽く、まるで客人を訪ねるようなノックの音が扉を叩いた。
小屋の中で、炉の火がはぜる音だけがやけに大きく聞こえた。
「何を怯えている。こちらにはリヒテンブール公爵家の――」
アルベールが立ち上がろうとした時、軋む音とともに、古びた扉がゆっくりと外から開かれた。
◇
隙間風とともに小屋へ入ってきたのは、三人の男たちだった。
三人とも泥まみれで、まともな鎧も着ていない。
だが、目だけは妙に冴えていた。腹を空かせた人間の目だった。
「よう。こんな所にいたのか、坊ちゃん」
先頭に立った顎髭の男が、室内の光景を見回しながら低く笑った。
「誰だ、貴様らは」
アルベールが一歩下がりながら声を荒げた。
「誰ってことはねえだろ。昨日まで、あんたの軍に雇われてた者だよ」
アルベールは、男たちの泥だらけの鎧と、揃いの悪い武器を見た。
正規の兵ではない。傭兵か、徴集兵か。
いずれにせよ、金でどうにでもなる連中だ。
彼は、そう決めつけた。
「ならばちょうどいい。私を王都まで護衛しろ。無事に送り届ければ、褒美は取らせよう」
「その褒美とやらは、期待してもいいんですかね」
一人が尋ねる。
アルベールは尊大に顎を上げた。
「当然だ。私を誰だと思っている。リヒテンブール公爵家の嫡男――」
「知ってるよ」
顎髭の男が、アルベールの言葉を遮った。
その手には、刃こぼれした剣が握られている。
「知ってるよ。だから探してたんだ」
「なに?」
「閣下! お下がりください!」
護衛の男が手を伸ばす。
「褒美は、勝ってから払うんじゃなかったのか?」
男の低い声に、アルベールは一瞬、言葉に詰まった。
「それはだな……、そうだ。王都まで護衛しろ。そうすれば――」
「俺たちは前金だけで、あの泥沼に突っ込まされたんだぞ」
後ろにいた別の男が、アルベールの言葉を遮った。
「あんたらは、勝ったら払うと言った。でもな。負けると分かったら金を持って真っ先に逃げやがった」
顎髭の男が一歩、小屋の中へ踏み込む。
「何を言う!敗北などではない! 態勢を立て直すための一時撤退だ!」
アルベールが声を荒らげる。
「金なら払おう! だから私を――」
「腹が減ってる時に、言い方の違いなんざどうでもいいんだよ」
男の視線が、アルベールの顔から、机の上の革袋へ移った。
「それか」
アルベールは咄嗟に、机の上の金貨袋を抱え込んだ。
顎髭の男が、薄く笑った。
◇
「動くな!」
入り口近くにいた護衛が、剣を抜く。
だが、男たちは少しも慌てなかった。無言で左右に広がり、扉と窓の前を塞いだ。
「おのれ!」
護衛が踏み込もうとした。
だが、まともに眠れていない体は重く、床には湿った藁が散っていた。
踏み込んだ靴が、湿った藁でずるりと滑り、護衛の体は勢いよく机の角に肩から激突した。
ガタンッ!
激しい音を立てて机と椅子が倒れ、炉の火が大きく揺らぐ。
傭兵の一人が、倒れ込んだ護衛の背中を無言で蹴り飛ばした。
護衛は呻いたきり、起き上がれなかった。
その隙に、部屋の隅にいた従者は開いた扉へ走った。
足音はすぐに森の闇へ消えた。
「や、やめろ! 私に近づくな!」
アルベールが、倒れた机の裏に這いずりながら叫ぶ。
「金ならある! 欲しいだけ持っていけ!」
男たちは無言で距離を詰める。
「父上が黙っていないぞ! この私を誰だと――」
「うるせえよ」
ジャラッ、と音がした。
金貨袋の口紐が乱暴に引きちぎられ、中身が床にぶちまけられた。
黄金色の硬貨が、湿った床の藁の上に散らばっていく。
「やめろ、私は、王国の――」
その先の言葉は、炉の中で薪が小さく爆ぜる音と、鈍い衝撃音にかき消された。
床に散った金貨を、男たちが拾っていく。誰も、紋章入りの外套には目もくれなかった。
◇
翌朝。
朝霧が晴れ始めた頃、見回りをしていた木こりが、開け放たれたままの狩猟小屋に気づいた。
中には誰もいなかった。
冷え切った炉の灰。床に散らばった湿った藁。
部屋の隅に、泥にまみれた高級な外套が一枚、うち捨てられていた。
胸元には、リヒテンブール公爵家の紋章が残っている。
それだけが、かろうじて持ち主を示していた。
◇
同じ頃、狩猟小屋から遠く離れた街道筋。
折れた槍を杖代わりにし、片腕を布で強く押さえた敗残兵が一人、ふらつく足取りで歩いていた。
泥と血で顔は判別できない。それでも、男は足を止めなかった。
朝の光の向こうに、ウルム村の防壁が見えていた。
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