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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第12章 兵站と瓦解

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幕間12-1 黒鴉と紙片

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

旧街道から少し外れた森の奥。今は使われていない古い狩猟小屋が、黒鴉(シュヴァルツ・クレエ)の臨時拠点になっていた。


隙間風の入り込む小屋の中央には、大きな地図が広げられている。地図の上には、街道や宿場町、旧橋、そしてウルム村の位置を繋ぐように赤い糸が張られ、軍勢の動きを示す駒が配置されていた。


黒ずくめの伝令が、次々と小屋に駆け込み、短い報告を残していく。


「アルベール軍、街道上で瓦解」


伝令の一人が、息を整えながら告げた。


「部隊ごとの逃亡が相次ぎ、軍としての体裁を失っています」


木箱の上に腰掛けたまま、ベアトリクス・フォン・アイゼンは手元の観測記録から目を離さずに応じた。


「ウルム側は追いましたか」


「追撃は確認されず。防壁周辺の負傷者保護と、放置された荷車の確認に移っている模様です」


「……でしょうね」


ベアトリクスは、羽ペンをインク壺に浸しながら静かに呟いた。


「総大将であるアルベール・ド・リヒテンブールは、護衛数名と共に北の森へ逃走。本人は、これを一時撤退と称している模様です」


「敗走と書いときなさい」


ベアトリクスはすぐさま指示を出す。


「はっ」


伝令が短く首肯し、手元の報告書に修正を加える。


ベアトリクスは、修正された一行を確認し、次の報告へ目を移した。



「好機ではないのですか?」


傍らに立っていた部下が、地図上のウルム村を示す木札を見下ろしながら尋ねた。


「指揮系統が崩壊し、敵将も逃走しました。今なら我々が動いて、混乱に乗じてあの村の防壁を……」


「違うわ」


ベアトリクスは、部下の言葉を静かに遮った。


「あの村は、敵将の首より、明日の朝の片付けを選んだのよ。そういう相手を、軽く見ないことね」


部下は押し黙った。


「勝ったからといって、深追いせずに淡々と日常の維持に戻れる。彼らは、相手が崩れる場所を先に作っていただけ。……そんな手堅い相手、下手に手を出せば、今度は私たちが泥に沈む番になるわ」


ベアトリクスは地図から視線を外し、机の端に積まれた街道雑報と観測記録へ目を向けた。


「王都側の動きはどうなっていますか」


「王国中央の貴族たちは、アルベール軍の連絡途絶を受け、責任の押し付け合いに奔走しております。派閥間での書状のやり取りが急増していますが、実効性のある動きは何も」


部下が報告書をめくりながら答える。


「王都側で、まだ避難民台帳を調べている者は?」


「一名だけ。オリビエ卿です」


部下が即答した。


「派閥の会合にも顔を出さず、執務室に籠もりきりで、行方不明者のリストと各地の救援記録を照合し続けているようです」


「まだやっているのね」


ベアトリクスの口元に、ほんのわずかな弧が浮かんだ。


大半の人間が自分の保身と次期権力争いに目を向けている中で、ただ一人、過去の記録と向き合い続けている男。


「なら、彼でいいわ」


ベアトリクスは、ペンを置いて部下を見た。


「その者に届く報告書を見繕いなさい」



部下たちが、集められた街道雑報や観測記録の中から、数枚を抜き出して机の上に並べていく。


それは、黒鴉(シュヴァルツ・クレエ)の密偵たちが各地で集めた、一見すると何の繋がりもない日常の記録だった。


ベアトリクスは、まずウルム村の管理窓口から写された入村記録を引き寄せた。

そこには、武器を預け、滞在許可を得た数名の名が記されている。

その中に『クラウス』と『ロッテ』の文字がある。


次に、街道筋の宿場で拾われた聞き書きへ目を移す。

ウルム村で、避難民や子供たちの世話をしている少女がいるという行商人の噂話。

周囲からは『ロッテ』と呼ばれ、近くには老執事風の男がいる、と記されていた。


ベアトリクスの指が、王都動乱後の行方不明者一覧の抜粋で止まった。

王女シャルロッテの項目そのものは伏せられているが、王女付きの侍従、護衛騎士、そして初老の執事の行方が現在も途絶しているという事実が記されている。


さらに、街道の救援記録から、王都を逃れた身元不明の少女と老男に関する記述を抜き出す。


そして、最後に、黒鴉(シュヴァルツ・クレエ)によるウルム村の観測記録を一枚加えた。

村は、その『ロッテ』という少女を特別な扱いをしているわけではない。ただ、周囲の大人たちが、彼女の近くにさりげなく人を置いている。


「所在まで示しますか」


並べられた記録を見下ろしながら、部下が確認を求めた。


「それはしなくていいわ」


ベアトリクスは、次の記録へ視線を移した。


「『シャルロッテ王女はウルム村に生存している』という答えを渡せば、相手はただその答えに縋るだけ。こちらが渡すのは材料だけで十分よ。気づくかどうかは、その者の仕事よ」


「もし、オリビエ卿が気づけなかったら?」


「気づけないなら、王国に残す価値はないわ」


ベアトリクスは、並べた抜粋にもう一度目を落とした。この程度の違和感を拾えないなら、そこまでの人間というだけだ。



「では、こちらの順で束ねて王都へ送ります」


部下が並べられた抜粋を束ねようとした時、ベアトリクスが横から手を出してそれを制した。


「順番が違います」


「はっ?」


部下が戸惑ったように顔を上げる。


「最初に『ロッテ』の名を置かないで。それでは、ただの怪しい噂話に見えてしまうわ」


ベアトリクスは、手際よく抜粋の順番を入れ替えていく。


「先に『クラウス』という老執事の入村記録を置きなさい。次に、王都の行方不明者の抜粋。そしてウルムの観測記録を挟んで、最後に『ロッテ』の聞き書き。……読む者に、自分で順番の意味に気づかせるのです」


「はっ、申し訳ありません」


「それと」


ベアトリクスは、一枚の報告書を指先で弾いた。


「この地名の綴りが間違っているわ。これが原因で報告書そのものの信頼性が疑われるかもしれないのよ。訂正しなさい」


「申し訳ありません!」


部下が慌てて頭を下げる。


「謝罪より訂正を」


ベアトリクスは短く告げると、冷めた紅茶の入ったカップを手に取った。


黒鴉(シュヴァルツ・クレエ)は、ないものを作らない。

ある記録を選び、順番を整え、届く先を選ぶ。

ただ、それだけだ。


あとは、王都でそれを受け取る男に懸かっている。



それから数日後。

夜の帳がすっかり下りた魔術院の執務室で、オリビエはひどい疲労とともに目をこすっていた。


執務机の上には、各派閥から届いた「アルベール軍瓦解」に関する書状が山のように積まれている。


北部の責任を追及するもの、自分たちの保身を図るもの、新たな軍を編成すべきと声高に叫ぶもの。

どの書状も、責任の所在と次の発言権を巡るものばかりだった。


オリビエはそれらの書状を机の端へ押しやり、分厚い『避難民台帳』と『行方不明者名簿』を広げた。


動乱の夜に消えた者たちの名を、一つ一つ各地の保護記録と照合していく。終わりの見えない作業だった。それでも、派閥の書状に返事を書くよりは、よほど意味がある。


コンコン、と控えめなノックの音がして、年老いた従者が部屋に入ってきた。

手には、いくつかの書類の束が乗った盆を持っている。


「オリビエ様。各街道筋の関所や宿場から集められた、雑報の束でございます。北部の混乱を受け、ウルム方面からの情報もいくつか混じっております」


「ご苦労。街道雑報か……そこへ置いてくれ」


オリビエは台帳から目を離さず、空いたスペースを顎でしゃくった。


従者が下がり、部屋に再び静寂が戻る。


オリビエは台帳の区切りがついたところで、目を休めるように雑報の束を手に取った。


それは、関所の通過記録、行商人が宿屋に持ち込んだ噂話、荷車の移動数といった、取るに足らない断片的な記録の寄せ集めだ。


多くの貴族なら、目を通す前に脇へ追いやる類のものだ。

だが、オリビエはそれを丁寧にめくっていった。


『旧橋手前にて、荷車の残骸多数』


『北部からの避難民、東へ流れる』


『ウルム村管理窓口、滞在札の新規発行を継続』


流し読みをしていたオリビエの指が、ある抜粋の上でぴたりと止まった。


それは、ウルム村の入村記録の写しの抜粋だった。


そこに記された、ひとつの名。


『クラウス』

同行者数名。武器預かり済み。


「……クラウス?」


オリビエは、その文字をじっと見つめ、もう一枚の抜粋を引き寄せた。

宿場で拾われた聞き書きだった。


『ウルム村にて、子供たちの世話をする少女あり。周囲より「ロッテ」と呼ばれている』


「……ロッテ?」


オリビエの低く呟いた声は、静寂に包まれた執務室の空気に吸い込まれて消えた。


ロッテ。その名を、オリビエは知っている。

そして、クラウス。あの夜から行方の分からない老執事の名だ。


彼は積まれた派閥の書状には目もくれず、手にした雑報の束を、もう一度、最初の行から読み直し始めた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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