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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第12章 兵站と瓦解

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第175話 旗折れと敗走

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

夜が明け、薄青い霧が平地に立ち込めていた。

夜が明けても、アルベール軍の陣地は立て直せていなかった。


「全軍で押し潰す」という総大将の号令だけは下っていた。だが、兵も馬も荷車も、その号令についていける状態ではなかった。


飼葉が届かず空腹のまま夜を明かした馬たちは、御者が手綱を引いても苛立たしげに首を振って動こうとしなかった。

弓兵たちは足元に泥よけの板を敷きながら、手元の矢束を数えて露骨に顔をしかめている。


「これで総攻撃だとよ。矢が昨日の半分もねえぞ」


「魔術師の連中も駄目だ。泥で杖も外套も汚れて、まともに配置につけてねえ」


そのうえ、夜のうちに消えた者たちもいた。


「おい、あの天幕の連中がいねえぞ」


「あいつら、夜のうちに消えたのか」


兵の一人が、空になった天幕と焚き火の跡を見て呟く。


「金が出ないなら、残る理由もないだろ。傭兵なんてそんなもんだ」


消えたのは金で雇われていた傭兵たちの一部だ。しかも、彼らが運んでいたはずの食糧や荷のいくつかが、一緒に姿を消していた。



「アルベール様。総攻撃は不可能です」


本陣の天幕の中で、ガレスはもう一度だけ進言した。


「馬が動きません。弓兵の矢も足りず、魔術師も配置につけません。何より、昨日の破城槌と荷車がまだ道を塞いだままです」


だが、アルベールは甲冑の留め具を直させながら、見向きもせずに言い放った。


「足りないものばかり数えるな。動ける兵を前へ出せ」


「兵だけを出しても、軍にはなりません」


ガレスは一歩踏み出して訴えた。

補給と装備、そして指揮系統があって初めて軍は動く。


アルベールはそこで初めて動きを止め、苛立ちを込めた目でガレスを睨みつけた。


「前へ出せ。今日で終わらせる」


その押し殺したような声に、ガレスは一瞬だけ口を閉ざした。


もう止められない。この大将には、限界というものがまったく見えていなかった。



ウルム村、防壁の上。


冷たい朝の空気の中、俺たちはすでに大型バリスタの確認を終え、西の平地を見下ろしていた。


敵陣から鈍い角笛の音が響き、不格好な土煙が上がり始める。


「来ます」


望遠鏡を覗いていたロイルが言った。


「……ただ、昨日より列が乱れています」


「馬も少ないです。あと、傭兵の列が昨日より薄い気がしますね」


ハンスが隣で目を細めて補足する。


「矢束を積んだ荷車も前に出ていませんね。歩兵だけが無理やり押し出されてきているようです」


カインが、手元の魔力盤の反応を見ながら言った。


俺は防壁に寄りかかり、ひどく間延びした敵の行軍を眺めた。


「じゃあ、無理に動かされてるだけだな。あれは総攻撃じゃない。崩れかけた荷物が、もう一度後ろから押されてるだけだ」


俺はロイルとカインを振り返り、短く指示を出した。


「門前まで来させるな。門で止めると、こっちの処理や怪我人が増える」


「門より手前ですか」


ロイルが確認する。


「手前の道で詰まらせる。そこから先は、向こうが勝手に疲れるさ」



前へ出ろと尻を叩かれたアルベール軍の前衛が、泥濘に足を取られながらもじりじりと進んでくる。


「撃て」


俺の合図で、カインが調整したバリスタが重い音を立てて放たれた。

だが、その太い矢が狙うのは、密集した兵士の群れではない。


一発目は、昨日傾いたまま放置されていた破城槌を、泥から引き上げようとしていた支え木を粉砕した。


「うわっ!」


支えを失った破城槌が再び泥の中へ深く沈み込み、道をこじ開けようとしていた兵たちが慌てて飛び退く。


二発目は、道の中央へ無理やり戻ろうとしていた荷車の車輪止めを弾き飛ばし、三発目は牽引用の連結金具をひしゃげさせた。


カインが眼鏡を押し上げる。


「あれだけで十分ですね」


「十分だ。人を倒す必要はない。前に出ようとしてる車だけ撃って、戻れなくすればいい」


数発で十分だった。前衛は、また道の途中で詰まった。


荷車が動かなければ、その後ろに続く何千の兵も前へは進めない。



道が完全に詰まり、兵たちが泥の中で立ち往生しているのを見て、アルベールはついに自ら馬を進めた。

その後ろには、豪奢な装飾が施された本陣旗が続いている。


「道を空けろ! この旗が見えぬか!」


取り巻きの副官が怒鳴りながら、無理やり兵の間を割って進もうとする。

だが、そこはもう人と荷車で埋まっていた。


本陣旗を掲げた旗持ちの兵が、ぬかるみを避けるように少し斜面へ寄ったその時だった。


前方の破城槌から退いてきた歩兵の列と、横滑りした荷車の車体に、旗持ちの足元が押された。


「あっ――」


泥に滑った旗持ちの足が崩れ、巨大で重い本陣旗の旗竿がぐらりと傾く。


慌てて周囲の兵が支えようと手を伸ばすが、そこへ背後から、飼葉を求めていなないた逃げ馬がぶつかってきた。


バキィッ!


鈍い木の割れる音が平地に響き渡った。

装飾の重みに耐えきれなくなった旗竿の中程が折れ、巨大な布が泥水の中へ叩きつけられた。


「貴様ら! 旗を起こせ! 倒すな!」


アルベールが馬上で顔を真っ赤にして激怒する。

だが、兵たちはそれどころではなかった。


前は塞がり、後ろは詰まり、馬が暴れ、足元は泥だ。


兵たちは、泥にまみれた折れた旗を見た。


それから、誰かが無言で一歩、後ろへ下がった。もう、それを止める声は上がらなかった。



「付き合いきれねえ」


後方にいた傭兵の誰かが、誰に言うともなく吐き捨て、踵を返した。


「おい、どこへ行く!」


制止しようとした下級将校の声を無視し、傭兵は冷たく言い放つ。


「金を払う奴のところへ行くんだよ。この折れた旗の下にいても、飯も金も出ねえだろ」


そこから先は早かった。


荷車の御者は積荷を諦め、牽引の馬だけを切り離して手綱を引いていく。

矢の尽きかけた弓兵が重い矢筒を泥に投げ捨て、足場を失った魔術師たちが詠唱を止めて後ずさる。


「戻れ! 隊列を崩すな!」


指揮官たちが剣を抜いて怒鳴るが、その声はもう誰の足も止められなかった。


本陣の少し後ろでその光景を見ていたガレスは、ゆっくりと剣から手を離した。

ガレスの前で、部隊の列がひとつ、またひとつと消えていく。

彼にできることは、もう何もなかった。



「馬車を出せ! 一時撤退だ!」


アルベールが叫ぶ。


彼はまだ、自分が逃げているとは思っていなかった。後方へ下がり、隊を整え直す。それだけのことだと考えていた。

だが、豪華な馬車に取り付いた従者が、泣きそうな顔で首を振る。


「アルベール様、馬車は進めません! 前も後ろも、乗り捨てられた荷車が詰まっています!」


「ええい、役立たずどもめ!」


アルベールは馬車を諦め、自分の乗る馬の腹を蹴った。

数名の護衛と従者がそれに続く。だが、逃げる途中でその数はみるみる減っていった。


「アルベール様、負傷兵の群れで道が――」


護衛の一人が泥に足を取られた兵の群れに飲み込まれ、はぐれる。

別の従者は「先に道を開けます」と言って前へ出たきり、二度と戻ってこなかった。


重い荷物を捨て、装飾品を捨て、アルベールはただ、予備の金貨が詰まった革袋だけを鞍に括り付けて馬を走らせた。


「これは撤退ではない。立て直しだ。……森を抜ける。追っ手を避け、北の小屋へ向かうぞ」


そう呟くアルベールの背後には、もう数えるほどの人数しか残っていなかった。



「……追撃しますか」


防壁の上で、ロイルが剣の柄に手をかけたまま静かに聞いた。


「しない」


俺は即答した。


「逃げられますが」


「追うとこっちに怪我人が出るし、万が一捕まえたら、あいつらに食わせる飯もいる」


横で聞いていたカインが、呆れたように眼鏡を押し上げた。


「理由が、そこですか」


「そこだ」


俺は大きく伸びをした。


敵将の首を取る名誉など、明日からの穏やかな生活に比べれば何の価値もない。


ロイルは少しの間だけ遠くの街道を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜き、現場の責任者としての顔に戻った。


「……分かりました。では、村の周囲の負傷者と、残された荷車の確認に回します」


「それでいい。触る前に必ず札を付けろ。所有者不明の荷は、一旦窓口に回して管理する」


ウルム村は、最後まで門を開けなかった。


誰も、歓声を上げて敵を追おうとはしなかった。

街道には、折れた旗竿と、泥に沈んだ荷車、そして行き場を失った者たちがただ残された。


その向こうの遠く離れた場所で、アルベールの乗る馬だけが乱れた列から外れ、北の暗い森の方へ向かって消えていく。


彼はまだ、それを敗走だとは思っていなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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