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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第12章 兵站と瓦解

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第174話 夜営と火種

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

日がすっかり落ちると、ウルム村の手前の平地には、身を刺すような冷たい風が吹き始めた。


アルベール軍の夜営地は暗かった。昼間あれほど響いていた怒号も、今は焚き火のはぜる音に紛れている。


昼間の泥沼の行軍と、前衛の無理な押し込みの爪痕は、夜になってもそのまま放置されている。斜めに傾いた破城槌や、車輪が沈み込んだままの荷車を引き上げようと泥まみれになった兵たちは、疲労困憊で冷たい地面にへたり込んでいた。


暗いのは、焚き火の数が足りていないからだ。


後方から薪を積んだ荷車が届いていないため、兵たちは森の中から薪を拾い、足りない分は折れた槍の柄や、壊れた荷車の木材を細々と燃やして暖を取るしかなかった。


「……明日も、またあれを押せってよ」


火の勢いの弱い焚き火を囲みながら、泥だらけの雑兵が忌々しげに吐き捨てた。


「どこを通すんだよ。破城槌が道塞いでるじゃねえか」


「おい、声を落とせ。聞かれたら、前に出されるぞ」


配給所に並ぶ列も、殺気立っていた。


大鍋で煮られているのは、水のように薄い粥だ。並んだ兵が差し出した木の器に、底が見えるほどわずかな量が注がれる。


「おい、これだけか」


兵が怒鳴ると、疲れ果てた顔の補給担当の書記官が首を振った。


「後続の食料車が来ていないんだ。文句なら本陣へ言ってくれ」


「本陣の天幕からは、さっきから焼いた肉の匂いが漂ってきてるけどな」


兵が冷たい目で奥の大きな天幕を睨みつけたが、書記官は何も答えなかった。

彼もまた、上からの無茶な指示と現場の怒りの板挟みになって困り果てているのだ。


金で雇われた傭兵たちは、兵士たちよりも冷めた目で現場を見ていた。

彼らは王国に忠誠を誓った兵ではない。金で雇われ、金の分だけ危険を引き受ける者たちだった。


「おい。約束の追加報酬はどうなってんだ」


本陣の天幕の外で、傭兵をまとめている顎髭の男が、北部の使いに向かって低く凄んだ。


たまたま居合わせたガレスが、北部の使いへ耳打ちする。


「……傭兵への支払いだけは、止めない方がいい。あれは逃げるだけならまだしも、腹を立てれば味方の荷を襲います」


だが、北部の使いは鼻で笑った。


「金なら、明日あの村に勝ってから払えばいいだろう」


顎髭の男はそれ以上何も言わず、無言で背を向けた。だが、その背中を見たガレスは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

彼らは引き下がったのではない。回収先をどこにするか、値踏みを始めたのだ。


夜営地の片隅では、昼間の強行軍と混乱で負傷した兵たちが、薄い布を巻かれただけで地面に転がされていた。

回復魔法を使える魔術師たちは昼間の泥濘での詠唱失敗ですでにひどく消耗しており、貴族や指揮官の周りにしか配置されていない。下級兵や傭兵の治療は、後へ後へと回されていた。


「水……」


負傷した兵が呻く。見かねた若い兵が、水桶から水を汲んで持っていこうとしたが、近くを通りかかった上官に肩を掴まれた。


「その水は馬と明日の配給に回せ。勝手に配るな」


若い兵は唇を噛み締め、桶を下ろした。


そのやり取りを、暗がりで火に当たっていた傭兵たちも冷ややかな目で見ていた。

誰も声を上げなかった。ただ、焚き火のそばにいた傭兵たちの目が、少しだけ冷たくなった。



アルベール軍の陣地から数キロ離れた、ウルム村の礼拝堂。


礼拝堂の中には、温かな灯りがともっていた。湯気の立つ汁物の匂いが、静かに広がっている。


「眠れない時は、無理に眠ろうとしなくて大丈夫ですわ。まずは、温かいものを少し飲みましょう」


エプロン姿のエレノアが、不安げに毛布にくるまる避難民の老婆に、湯気の立つ汁物の入った椀を手渡していた。椀を配りながら、一人ひとりの顔色を見て回っていた。熱はないか。息は浅くないか。震えている者はいないか。


少し離れた場所では、キドが子供たちの首から下げられた板札の色を確認し、手元の記録板に素早く印をつけていた。


「青札が十三、白札が八。……うん、小さい子は全員ちゃんと中にいるな」


キドが顔を上げて報告すると、隣で世話をしていたロッテがほっと息をついた。


「ありがとう、キド。とても助かります」


「戦場で馬の数を数えるより、こっちの方がずっと数えやすいな」


キドが笑うと、周りにいた子供たちもつられて小さく笑った。


だが、小さな子供の中には、まだ外の様子を気にして落ち着かない子もいる。


「外の人たち……まだ、いるの?」


青い札を下げた女の子が、ロッテの服の裾を弱々しく引いた。


ロッテは女の子の隣にそっと座り、目線を合わせた。


「います。けれど、ここには入ってきません。村の大人たちが、ちゃんと外で見ていてくれますから」


「ロッテお姉ちゃんは、怖くないの?」


ロッテは少しだけ目を伏せ、それから正直に答えた。


「怖くないと言えば、嘘になります」


ロッテはすぐには答えなかった。

女の子の手を包み、少しだけ目を伏せた。



「……あちらにも、眠れない人がいるのでしょうか」


礼拝堂の入り口付近で見回りに来たロイルに、ロッテは思わずそうこぼしてしまった。


「いるだろうな」


ロイルは、村の外周へと続く暗い道を一瞥して言った。


「寒くて、腹を空かせて、明日の命令に怯えて眠れない連中が、あそこにはたくさんいるはずだ。……けど、それはロッテが全部背負う話じゃない」


「分かっています。……分かっては、いるのです」


ロッテは自分のエプロンをぎゅっと握りしめた。


ここには温かい椀がある。向こうには、冷えた地面に座り込む兵たちがいる。その二つを、同じ夜が包んでいる。


ロイルはそんな彼女の様子をしばらく見ていたが、やがて優しく、だがはっきりとした声で言った。


「今夜ロッテが見るのは、この中の子供たちだ。それで十分だ」


慰めでも励ましでもない。だが、その言葉に、ロッテの肩の力が少し抜けた。


「……はい」


ロッテが頷くのを確認すると、ロイルは短く頭を下げ、再び夜の巡回へと戻っていった。


ロッテは遠ざかるその足音を少しだけ聞き送ると、小さく息を吸い込んだ。

そして、毛布の中で眠れずにいる子供たちの方へ戻っていった。



「寝たい。今すぐ寝たい」


迎賓館の作業部屋で、俺は椅子の背もたれに深く寄りかかりながら天井を仰いだ。


「でしたら、ここらでお休みになられては」


カインが、計器の数値を記録しながら言う。


「そうしたいんだが、明日の朝になって車輪が変なところで動いて、結果的に俺の睡眠時間がもっと減るのは嫌だ」


俺は重い腰を上げ、防壁へ向かうための上着を手に取った。


「結局、見回るのですね」


「面倒を減らすための面倒は、仕方ない」


防壁の上に立つと、冷たい風が頬を叩いた。


望遠鏡を使わずとも、遥か西の平原に点在する敵陣の灯りが見える。


「……火が少ないな」


俺の横に立ったロイルが、不思議そうに呟いた。


「薪不足でしょうか」


「薪も食料も、後ろで詰まってるんだろ」


俺は、風に乗って微かに届く泥と獣の匂いを嗅ぎながら言った。


「寒い夜は、人の不満を増やす。腹が減っていればなおさらだ。……明日の朝には、勝手に揉めてるだろうな」



アルベール軍の夜営地の端。


壊れて道端に乗り上げたままの荷車の陰で、顎髭の男を含む数人の傭兵たちが、消えかけた焚き火を囲んでいた。


「勝ってから払う、だとよ」


一人が、手元の木の枝を火にくべながら鼻で笑った。


「その勝ちが見えねえから言ってんだ」


別の男が、泥だらけの自分の長靴を忌々しげに見つめる。


「前金だけで、あんな泥沼で命まで売った覚えはねえぞ」


「明日もまた一番前に出されるなら、どうなるか分かったもんじゃねえ」


しばらく、誰も口を開かなかった。


冷たい風が吹き抜け、馬の嘶きと負傷兵の呻き声だけが遠くから聞こえてくる。


やがて、顎髭の男が火を突きながら、低く言った。


「勝てねえなら、どこかで取り返すしかねえな」


パチッ、と焚き火の火が小さく爆ぜた。


壊れた荷車の陰で、誰もその言葉を咎める者はいなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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