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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第12章 兵站と瓦解

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第173話 威光と車輪

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

アルベール軍の本陣は、ひどく淀んだ空気に包まれていた。


前方の平地では荷車が泥に足を取られて身動きが取れず、後方からは飼葉も予備の矢束も一向に届かない。


報告に走ってくる伝令たちは、どれも泥にまみれ、焦りを浮かべていた。同じ命令を二度伝える者もいれば、途中で別の部隊に呼び止められ、行き先を見失う者もいる。

だが、豪奢な床几に腰を下ろしたアルベールだけは、その現実を直視しようとはしなかった。


「本陣旗を、少し前へ移せ」

アルベールは、忌々しげに鼻を鳴らして命じた。


「前衛の兵どもに、この私が見ていると知らせてやれ。公爵家の旗が背後にあると分かれば、泥道であろうと進むはずだ」


「……兵の目印にはなります」

副官ガレスが、重い口を開いた。


「ですが、アルベール様。威光を示したところで、泥に沈んで詰まった荷車が勝手に動くわけではありません。今、一度――」


「貴様はいつから、そのような下らぬ進言をするようになったのだ」

アルベールが冷たく睨みつける。


「威光がなければ軍は動かん。軍が動かねば戦には勝てん。さっさと前衛に前進の号令をかけろ!」


取り巻きの副官が慌てて本陣旗の持ち手に指示を出し、旗持ちたちがぬかるみを避けながら前へ出ていく。

同時に、前衛の弓兵隊と、巨大な破城槌を押す工兵隊に対して前進命令が下された。


命令を受けた前線の兵たちは、泥まみれになった足元と、前を塞ぐ傾いた荷車を見ながら、渋々と重い足を動かし始めた。


文句を言う兵はいなかった。ただ、誰もが足元の泥を見てから、隣の兵の顔をちらりと見た。それでも命令が下れば、前へ出るしかない。



「来ます。敵の前衛が動きました。破城槌も出してきています」


ウルム村の防壁の上。

望遠鏡を下ろしたロイルが、短く報告した。


敵の前衛の奥で、本陣旗が少し前へ移されている。

まだ、あれで兵が動くと思っているらしい。


「人は狙うな。荷車の車軸を狙え」


俺は、防壁に設置された大型バリスタの横で調整を行っていたカインたちに指示を出した。


「人ではなく、車軸ですか?」

ロイルが意外そうに聞き返す。


「人を倒すと、後で怪我人の治療や後始末が増える。荷車を止めて道を塞げば、勝手に後ろも止まるんだ」


「……相変わらず、少ない手数で相手が嫌がることをしますね」

カインが、バリスタの照準器を微調整しながら薄く笑った。


「それでいい」


俺は防壁の縁に寄りかかり、荷車と兵の流れが詰まっている場所を探した。


「破城槌の前輪を止める。次は、あの荷車の連結金具だ」


カインが照準器を覗いたまま、短く確認する。


「指揮旗は?」


「折る必要はない。根元の留め具を外せば十分だ」



「横へ広がれ! 射線を取れ!」


泥濘む平地で、前衛の弓兵隊を率いる指揮官が声を張り上げていた。


だが、兵たちはまともに列を作ることができない。

前へ出ようとしても、道の中央にはすでに動けなくなった荷車が動けなくなっている。


仕方なく横の草地へ広がろうとすれば、見た目以上に柔らかい泥に足を取られ、長靴が深く沈み込む。前に出た者が泥にもたつき、そこへ後ろから押し出された者がぶつかり、隊列はあっという間に団子状に潰れていった。


「……弓兵を前に出して展開させる場所がありません」

後方からその惨状を見ていたガレスが、呻くように言った。


「数をさらに出せば、その圧力で押し込めるでしょう」

取り巻きの副官が根拠のない楽観論を口にする。


ガレスは彼を無視した。言い返したところで、もはやこの男たちには戦場の道理が通じない。


魔術師たちも前へ出されたが、こちらも身動きが取れなかった。足元はぬかるみ、味方の歩兵がすぐ横で押し合っている。杖を構える隙間すらない。


「駄目だ! 味方が近すぎる。これでは撃てん!」

魔術師の一人が杖を下ろして叫ぶ。


別の魔術師が、どうにか足元の乾いた土を探して陣を刻もうとするが、ぬかるんだ泥がすぐに流れ込み、描いた線を無惨に崩してしまった。


「あの状態で広域魔法を撃てば、自軍の背中を焼きますね」

防壁から敵陣を観察していたカインが、冷静に分析する。


「撃たないのならこっちは助かる」


俺は短く返し、カインへ顎で合図を送った。



「放て」


俺の合図とともに、魔力補助機構を備えた大型バリスタから、身の丈ほどもある太い矢が打ち出された。


空気を裂く重い風切り音が響く。


矢は、密集する敵兵の頭上を越え、道を押し進んでこようとしていた破城槌の右前輪、その車軸に突き刺さった。


バキィッ! という硬質な破壊音が響き渡る。


車軸をへし折られた前輪が砕け飛び、バランスを崩した破城槌が、大きく右へ傾いて激しく地面に突っ込んだ。


「うわぁっ!」


周囲で破城槌を押していた工兵たちが悲鳴を上げて散らばる。巨大な丸太と装甲板の塊が、斜めになったまま道の中央に居座った。


死者は出ていない。だが、破城槌はもう門を叩けない。道の真ん中で、ただ重いだけの丸太になった。


二発目の矢が放たれる。


今度は、破城槌の横を無理やりすり抜けようとしていた大型荷車の連結金具だ。


金具を砕かれた荷車は、牽引していた馬だけが前へ走り抜け、取り残された荷台が惰性で斜めに横滑りし、後続の車列の前に割り込んだ。


さらに三発目。


前衛部隊が辛うじて目印にして集まろうとしていた指揮旗。

その太い旗竿の中程にある留め具を、バリスタの矢が掠め飛んだ。


バツン、という音とともに留め具が弾け飛び、長い旗竿が大きく斜めに傾く。


「旗を倒すな! 支えろ!」


旗持ちの兵が慌てて傾いた竿にしがみつく。支えようと周りの兵が寄り、ただでさえ狭い場所がさらに詰まった。


「ええい、何を立ち止まっている! 指揮旗を倒すな! 前へ出せ!」


後方の本陣から、アルベールが苛立たしげに叫んでいるのが見える。


だが、現場の兵たちにとって、今は旗の威光などどうでもよかった。


前には傾いた破城槌。足元には泥。後ろからは次の荷車。兵たちは、進むことも退くこともできず、その場で足を取られていた。


「……門の外へスマートゴーレムを出せば、混乱に乗じてさらに陣形を押し返すこともできますが」

カインが、次の矢を装填しながら提案してきた。


「出さなくていい。泥の中で無理に動かして関節に砂でも噛んだら、後で掃除と修理が面倒だ」


「……理由が、そこですか」


「そこだ」

俺はきっぱりと断言した。


ゴーレムは門の内側で、予備の矢や怪我人用の水桶を運ばせればいい。



防壁の端でその一連の光景を見ていたロイルが、信じられないものを見るような顔で呟いた。


「人を倒さずに、軍の動きを止める……」


「人を倒すのは、一番最後でいいんだよ」


俺は、眼下の泥沼で身動きが取れなくなっている数千の兵を見下ろして言った。


「先に動けなくしてしまえば、相手は何もできない」


「だから、人ではなく車軸を狙ったんですね」


「そうだ。荷車が止まれば、伝令も補給も止まる。命令もそこで詰まる」


俺の後ろで、板札に木炭で記録をつけていたキドが、ふと顔を上げて戦場を指差した。


「……あの荷車、もう行く場所がないな」


「行く場所?」

ロイルが、キドの指差す先を見る。


「前は壊れた破城槌で詰まってる。横に避けようにも泥だらけだ。後ろからは別の荷車が押してきてる。だから、あそこでもう止まるしかないんだ」


キドは、自分の手元にある村の荷札の記録と、眼下の戦場を重ね合わせるようにして言った。


「戦場も、村の荷捌き場と同じなんだな。道が詰まったら、荷物は動かない」


「……その通りだな」

俺は、キドを少しだけ振り返って短く言った。


ちゃんと道を見ている。

剣の振り方より、そっちを覚えた方が役に立つ。



アルベール軍の前衛は、もはや一歩も前へ進めなくなっていた。


「アルベール様。本日の攻撃は、ここで止めるべきです」


本陣で、ガレスが泥のついた手袋を握りしめたまま進言した。


「黙れ」


アルベールは前方を睨みつけたまま、不機嫌に言い放った。


「破城槌は車軸を失い、弓兵は泥で前に出られず、魔術師も詠唱位置を取れません! これ以上押せば、兵の疲労と混乱を増すだけです!」


「夜のうちに隊を組み直せばいい」


アルベールは、ガレスの言葉を完全に遮った。


「ただの泥と、まぐれ当たりの矢で少しもたついただけだ。明日、隊列を整え直し、全軍でもう一度押し潰す。我らの威光の前に、あの村がいつまでも持ち堪えられるはずがない」


ガレスは、もはや返事をしなかった。

アルベールの視線は、泥に沈んだ車輪ではなく、まだ前へ出した軍旗の方に向いている。


前方では、兵たちが泥に沈んだ破城槌の車輪を引き上げようとしている。

弓兵たちは湿気を吸って重くなった弦を拭き、魔術師たちは泥に崩れた詠唱陣を苛立たしげに踏み消していた。


遠く、夕闇に沈みゆくウルム村の防壁の上では、誰一人として勝ち鬨を上げる者はいない。

彼らはただ、次の朝の作業に備えて、バリスタの弦を緩め、車輪止めの位置を静かに確かめているだけだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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