第172話 荷駄と黒影
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前方から血相を変えた伝令が駆け戻ってきた時、旧橋の手前では、荷車と馬と御者が詰まり、身動きが取れなくなっていた。
「前が詰まっている! 飼葉と予備の矢束を積んだ車を、至急前へ出せ!」
伝令が馬の上から怒鳴る。
だが、後方の荷駄列はピクリとも動かない。飼葉を山と積んだ荷車の前で、馬を降りた御者の男が、運送契約書の写しを丸めて突き出していた。
「だから、行けねえって言ってんだろ! 俺たちが結んだ運送契約は、この旧橋までだ。ここから先、戦場の近くまで行くなら、追加の危険手当と保証がいる」
「軍令が出ているんだぞ! 前線まで運べ!」
補給担当の書記官が、額の汗を拭いながら声を荒らげる。
「軍令はてめえら兵隊に出すもんだろ。俺は金で雇われたただの御者だ。契約書に書いてねえ場所までは、一歩も動かせねえ」
御者は頑として譲らない。
彼の後ろでも、別の御者たちが契約書を手に、馬車の横で腕を組んでいた。
少し離れた場所では、別の荷車を巡って諍いが起きていた。
「この借用証、うちの親方の名前じゃねえぞ」
「ランデル伯爵家の印はあるだろうが! 通行と徴用の証だ!」
「印があっても、宛名が違えば俺の独断では動かせねえよ。後で荷が消えた時に、誰が責任取るんだ」
さらに悪いことに、予備の矢を積んだ荷車が、まったく別の部隊の補給台帳と紐付けられていた。
「この矢束は第三荷駄列の分だ」
「違う! こっちの台帳では、前衛の弓兵隊に回す分になっている。いいから荷札を書き換えろ!」
契約書の確認、借用証の名義違い、台帳と荷札の食い違い。
どれも、一つだけなら小さな揉め事で済む。
だが、それが後方のあちこちで一斉に起きれば、荷駄の列は動かなくなる。
伝令が通るはずだった細い脇道まで、止まった荷車で塞がっていた。
◇
「……これは、ただの遅れではない」
前方で泥詰まりの対処に追われていたガレスは、後方から次々と上がってくる報告を聞き、ひどく冷たい汗が背中を流れるのを感じた。
「では、何だと?」
泥まみれになった兵が、息を切らしながら聞き返す。
「止められている」
ガレスは、旧橋の方角を睨みつけた。
「前では車輪を、後ろでは飼葉と御者を止められている。……偶然じゃない」
ガレスには、それがただの混乱には見えなかった。
前では車輪が沈み、後ろでは飼葉と御者が止まっている。
誰かが、前と後ろを同時に押さえている。
だが、分かったところで彼には決定権がない。
軍を止めることも、下げることも許されていないのだ。
◇
旧橋から少し離れた、鬱蒼とした林の中。
打ち捨てられた古い狩猟小屋に、黒鴉の臨時観測所が設けられていた。
隙間風の入る小屋の中で、ベアトリクスは小さな机に広げた地図と、次々と持ち込まれる報告書の束に静かに目を通していた。
「第三荷駄列、旧橋の手前で動けず」
黒ずくめの部下が、抑揚のない声で短く報告する。
「飼葉の受領印をめぐって現場が混乱中。また、御者数名が運送契約の支払い条件を理由に前進を拒否。予備の矢束は、前衛弓兵隊の台帳と不一致が判明し、積み替えが止まっています」
「伝令路は?」
「予定通り、故障を装った荷車二台で塞いであります。馬一頭が辛うじて通れるかどうかかと」
「上出来よ」
ベアトリクスは、報告書の端を指先で綺麗に揃えながら淡々と返した。
「こちらから兵に触る必要はないわ。飼葉の受領印、御者への支払い条件、荷車の借用証。その三つを確認させなさい。橋を落とす必要も、荷車を壊す必要もない。向こうがもともと抱えていた雑な段取りを突くだけで、あの軍勢は勝手に止まるわ」
やっていることは、どれも地味だった。
だが、その地味な確認が重なるだけで、アルベール軍の後方は動かなくなっていた。
「それと」
ベアトリクスは、部下から上がってきた別の報告書に目を留めた。
「王都側で、まだ避難民台帳と救援記録を追っている者がいるようね。オリビエ卿……」
「はい。派閥争いにかまける者が多い中、彼だけが妙に実直に過去の記録を掘り返しているようです」
「その者に届く報告書を用意しなさい」
ベアトリクスは、ペンで特定の単語を丸で囲んだ。
「ロッテ、クラウス、そして、ウルム村。その三つが、同じ記録の中に並んでいればいいわ。」
「はっ」
「……それから」
立ち去ろうとした部下の背中に、ベアトリクスは小さく声をかけた。
「急ぎの報告書でも、数字は読めるように書いてちょうだい。荷車の数が変われば、指示も変わります」
「も、申し訳ありません!」
部下が慌てて頭を下げ、足早に小屋を出て行く。
ベアトリクスは小さくため息をつき、再び地図へと視線を落とした。
◇
ウルム村の迎賓館、インフラ管理室。
前方の平地で敵の荷車が泥に沈み、隊列が詰まり始めているのは、俺の読み通りだった。
だが、街道側の反応を見ていたカインが、眼鏡の奥の目を細めた。
「マスター。……敵の後方が崩れるのが早すぎます」
「早すぎる、ですか?」
ロイルが怪訝な顔をする。
「ええ。前方の荷車が泥に足を取られて詰まるのは、我々の仕掛けた地形と水路の通りです」
カインは、送られてきた街道の観測データを示す。
「ですが、それと同時に、後方の飼葉の車列や予備の矢束までがピタリと止まるのは、いくらなんでも出来すぎています」
「……後ろの方で、妙に人の気配が乱れていますわ」
少し離れた場所で目を閉じていたエレノアが、不安そうに眉を寄せた。
「戦っている気配ではありませんけれど……大勢の人が、同じ場所で揉めているような感じがしますわ」
「揉めて勝手に止まってくれるなら、それでいいさ」
俺は、計器のバルブから手を離して言った。
「御者の契約確認や借用証の照合が、あのタイミングで偶然一斉に重なるものでしょうか」
カインが、探るような視線を向けてくる。
「世の中には、こちらが頼まなくても、裏で勝手に動いてくれる妙に親切な奴もいるんだろうさ」
俺は肩をすくめた。
「親切、なんですか?」
ロイルが目を白黒させる。
「少なくとも、今のところはな」
誰が後ろで糸を引いているのか、おおよその見当はついている。
だが、それがウルム村に直接害を及ぼさない限り、こちらから動くつもりはない。
こっちに飛んでこない火の粉まで、わざわざ気にする必要はないのだから。
◇
平原の前線。
前方は泥で立ち往生し、後方では飼葉の車列と御者たちが止まっていた。
ガレスは馬を走らせ、アルベールの本陣へと駆け込んだ。
「アルベール様! 一度、隊を大きく下げるべきです!」
ガレスは必死に進言した。
「前方の泥詰まりに加え、後方の荷駄列も止まっています! ここで無理に前を押せば、隊列がさらに詰まります。一度下がって荷駄を整え、飼葉と矢束を前に出してからでなければ――」
「下がるだと?」
アルベールは、馬上で不快そうに鼻を鳴らした。
「この私が、あの薄汚い村を前にして、一歩でも退くというのか」
「退くのではありません! 隊列を整えるのです!」
「言い方を変えても同じことだ」
アルベールは、ガレスの忠言を弱気としか受け取らなかった。
「兵が足踏みをしているなら、前へ出して動かせばいいだけのこと。補給が遅れているなら、さっさとあの村を落として中の物を奪えば済む」
「御意にございます」
取り巻きの副官が、媚びへつらうように同調した。
「ここで退いては、アルベール様の威光に傷がつきます。旗を前へ出し、王国の力を見せつければ、あの村の平民どもも恐れおののき、自ら門を開けましょう」
ガレスは何かを言いかけ、結局、手綱を握りしめただけだった。
旗をどれだけ前へ出そうが、道が泥で塞がっている事実は変わらない。前に出れば、兵も荷車もさらに狭い場所へ押し込まれるだけだ。
「前へ出せ!」
アルベールが、高く剣を掲げて命じた。
「旗を立て直せ! あの村の逆賊どもに、誰が来たのかを思い知らせてやるのだ!」
取り巻きたちは慌ただしく散り、前衛へ伝令が走った。
ガレスだけが、泥に沈み込んだ荷車と、いまだ届く気配のない後方の飼葉の列を見ていた。
今、このまま前へ出れば、止まる場所が少しだけ村に近づくだけだ。
前に出れば出るほど、荷も兵も逃げ場を失う。それを口にしたところで、もう誰も聞きはしない。
王国の軍旗が、泥と焦燥の匂いを含んだ冷たい風の中で、無理やり高く掲げ直された。
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