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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第12章 兵站と瓦解

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第172話 荷駄と黒影

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

前方から血相を変えた伝令が駆け戻ってきた時、旧橋の手前では、荷車と馬と御者が詰まり、身動きが取れなくなっていた。


「前が詰まっている! 飼葉と予備の矢束を積んだ車を、至急前へ出せ!」

伝令が馬の上から怒鳴る。


だが、後方の荷駄列はピクリとも動かない。飼葉を山と積んだ荷車の前で、馬を降りた御者の男が、運送契約書の写しを丸めて突き出していた。


「だから、行けねえって言ってんだろ! 俺たちが結んだ運送契約は、この旧橋までだ。ここから先、戦場の近くまで行くなら、追加の危険手当と保証がいる」


「軍令が出ているんだぞ! 前線まで運べ!」

補給担当の書記官が、額の汗を拭いながら声を荒らげる。


「軍令はてめえら兵隊に出すもんだろ。俺は金で雇われたただの御者だ。契約書に書いてねえ場所までは、一歩も動かせねえ」

御者は頑として譲らない。

彼の後ろでも、別の御者たちが契約書を手に、馬車の横で腕を組んでいた。


少し離れた場所では、別の荷車を巡って諍いが起きていた。


「この借用証、うちの親方の名前じゃねえぞ」


「ランデル伯爵家の印はあるだろうが! 通行と徴用の証だ!」


「印があっても、宛名が違えば俺の独断では動かせねえよ。後で荷が消えた時に、誰が責任取るんだ」


さらに悪いことに、予備の矢を積んだ荷車が、まったく別の部隊の補給台帳と紐付けられていた。


「この矢束は第三荷駄列の分だ」


「違う! こっちの台帳では、前衛の弓兵隊に回す分になっている。いいから荷札を書き換えろ!」


契約書の確認、借用証の名義違い、台帳と荷札の食い違い。


どれも、一つだけなら小さな揉め事で済む。


だが、それが後方のあちこちで一斉に起きれば、荷駄の列は動かなくなる。


伝令が通るはずだった細い脇道まで、止まった荷車で塞がっていた。



「……これは、ただの遅れではない」


前方で泥詰まりの対処に追われていたガレスは、後方から次々と上がってくる報告を聞き、ひどく冷たい汗が背中を流れるのを感じた。


「では、何だと?」

泥まみれになった兵が、息を切らしながら聞き返す。


「止められている」

ガレスは、旧橋の方角を睨みつけた。


「前では車輪を、後ろでは飼葉と御者を止められている。……偶然じゃない」


ガレスには、それがただの混乱には見えなかった。


前では車輪が沈み、後ろでは飼葉と御者が止まっている。


誰かが、前と後ろを同時に押さえている。

だが、分かったところで彼には決定権がない。


軍を止めることも、下げることも許されていないのだ。



旧橋から少し離れた、鬱蒼とした林の中。

打ち捨てられた古い狩猟小屋に、黒鴉の臨時観測所が設けられていた。


隙間風の入る小屋の中で、ベアトリクスは小さな机に広げた地図と、次々と持ち込まれる報告書の束に静かに目を通していた。


「第三荷駄列、旧橋の手前で動けず」


黒ずくめの部下が、抑揚のない声で短く報告する。


「飼葉の受領印をめぐって現場が混乱中。また、御者数名が運送契約の支払い条件を理由に前進を拒否。予備の矢束は、前衛弓兵隊の台帳と不一致が判明し、積み替えが止まっています」


「伝令路は?」


「予定通り、故障を装った荷車二台で塞いであります。馬一頭が辛うじて通れるかどうかかと」


「上出来よ」


ベアトリクスは、報告書の端を指先で綺麗に揃えながら淡々と返した。


「こちらから兵に触る必要はないわ。飼葉の受領印、御者への支払い条件、荷車の借用証。その三つを確認させなさい。橋を落とす必要も、荷車を壊す必要もない。向こうがもともと抱えていた雑な段取りを突くだけで、あの軍勢は勝手に止まるわ」


やっていることは、どれも地味だった。

だが、その地味な確認が重なるだけで、アルベール軍の後方は動かなくなっていた。


「それと」


ベアトリクスは、部下から上がってきた別の報告書に目を留めた。


「王都側で、まだ避難民台帳と救援記録を追っている者がいるようね。オリビエ卿……」


「はい。派閥争いにかまける者が多い中、彼だけが妙に実直に過去の記録を掘り返しているようです」


「その者に届く報告書を用意しなさい」


ベアトリクスは、ペンで特定の単語を丸で囲んだ。


「ロッテ、クラウス、そして、ウルム村。その三つが、同じ記録の中に並んでいればいいわ。」


「はっ」


「……それから」


立ち去ろうとした部下の背中に、ベアトリクスは小さく声をかけた。


「急ぎの報告書でも、数字は読めるように書いてちょうだい。荷車の数が変われば、指示も変わります」


「も、申し訳ありません!」


部下が慌てて頭を下げ、足早に小屋を出て行く。


ベアトリクスは小さくため息をつき、再び地図へと視線を落とした。



ウルム村の迎賓館、インフラ管理室。


前方の平地で敵の荷車が泥に沈み、隊列が詰まり始めているのは、俺の読み通りだった。


だが、街道側の反応を見ていたカインが、眼鏡の奥の目を細めた。


「マスター。……敵の後方が崩れるのが早すぎます」


「早すぎる、ですか?」

ロイルが怪訝な顔をする。


「ええ。前方の荷車が泥に足を取られて詰まるのは、我々の仕掛けた地形と水路の通りです」

カインは、送られてきた街道の観測データを示す。


「ですが、それと同時に、後方の飼葉の車列や予備の矢束までがピタリと止まるのは、いくらなんでも出来すぎています」


「……後ろの方で、妙に人の気配が乱れていますわ」


少し離れた場所で目を閉じていたエレノアが、不安そうに眉を寄せた。


「戦っている気配ではありませんけれど……大勢の人が、同じ場所で揉めているような感じがしますわ」


「揉めて勝手に止まってくれるなら、それでいいさ」

俺は、計器のバルブから手を離して言った。


「御者の契約確認や借用証の照合が、あのタイミングで偶然一斉に重なるものでしょうか」


カインが、探るような視線を向けてくる。


「世の中には、こちらが頼まなくても、裏で勝手に動いてくれる妙に親切な奴もいるんだろうさ」


俺は肩をすくめた。


「親切、なんですか?」

ロイルが目を白黒させる。


「少なくとも、今のところはな」


誰が後ろで糸を引いているのか、おおよその見当はついている。


だが、それがウルム村に直接害を及ぼさない限り、こちらから動くつもりはない。

こっちに飛んでこない火の粉まで、わざわざ気にする必要はないのだから。



平原の前線。


前方は泥で立ち往生し、後方では飼葉の車列と御者たちが止まっていた。


ガレスは馬を走らせ、アルベールの本陣へと駆け込んだ。


「アルベール様! 一度、隊を大きく下げるべきです!」


ガレスは必死に進言した。


「前方の泥詰まりに加え、後方の荷駄列も止まっています! ここで無理に前を押せば、隊列がさらに詰まります。一度下がって荷駄を整え、飼葉と矢束を前に出してからでなければ――」


「下がるだと?」


アルベールは、馬上で不快そうに鼻を鳴らした。


「この私が、あの薄汚い村を前にして、一歩でも退くというのか」


「退くのではありません! 隊列を整えるのです!」


「言い方を変えても同じことだ」


アルベールは、ガレスの忠言を弱気としか受け取らなかった。


「兵が足踏みをしているなら、前へ出して動かせばいいだけのこと。補給が遅れているなら、さっさとあの村を落として中の物を奪えば済む」


「御意にございます」

取り巻きの副官が、媚びへつらうように同調した。


「ここで退いては、アルベール様の威光に傷がつきます。旗を前へ出し、王国の力を見せつければ、あの村の平民どもも恐れおののき、自ら門を開けましょう」


ガレスは何かを言いかけ、結局、手綱を握りしめただけだった。


旗をどれだけ前へ出そうが、道が泥で塞がっている事実は変わらない。前に出れば、兵も荷車もさらに狭い場所へ押し込まれるだけだ。


「前へ出せ!」

アルベールが、高く剣を掲げて命じた。


「旗を立て直せ! あの村の逆賊どもに、誰が来たのかを思い知らせてやるのだ!」


取り巻きたちは慌ただしく散り、前衛へ伝令が走った。


ガレスだけが、泥に沈み込んだ荷車と、いまだ届く気配のない後方の飼葉の列を見ていた。


今、このまま前へ出れば、止まる場所が少しだけ村に近づくだけだ。


前に出れば出るほど、荷も兵も逃げ場を失う。それを口にしたところで、もう誰も聞きはしない。

王国の軍旗が、泥と焦燥の匂いを含んだ冷たい風の中で、無理やり高く掲げ直された。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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