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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第12章 兵站と瓦解

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第171話 水路と車輪

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

翌朝。ウルム村の手前に広がる平地は、アルベール・ド・リヒテンブールが率いる軍勢によって埋め尽くされていた。


立ち並ぶ天幕、翻る無数の旗、そして朝日を反射する槍の穂先。


一見すれば、それは辺境の村を威圧するに十分な大軍だった。アルベールは馬上からその光景を眺め、満足げに顎を上げていた。

だが、その陣の足元では、朝一番から小さな異変が起き始めていた。


「おい、そっちへ寄るな!」

実務派の副官ガレスが、馬を駆けさせながら声を張り上げた。


見れば、一台の重い荷車が道の端に斜めに止まり、御者が悪態をつきながら車輪にこびりついた泥を棒で掻き出している。


「道の端へ寄せるなと言ったはずだ。そこは昨日から妙に湿っている」

ガレスが苛立たしげに言うと、御者は顔をしかめて言い訳をした。


「ですが、真ん中には前衛の兵が固まっておりまして。少しでも横に避けねば、後続の荷がつかえてしまうのです」


見渡せば、真っ直ぐに進むべき荷車の列が、あちこちで蛇行し、歪んでいた。

朝の冷え込みの中で、荷を引く馬たちが苛立ったように嘶き、足元のぬかるみを嫌がって首を振っている。


そこへ、豪奢な甲冑を着込んだアルベールが取り巻きを連れてやってきた。


「朝から騒々しい。どうしたのだ」


「アルベール様。地面が予想以上に緩く、荷車がもたついております。飼葉を積んだ車列も、予定より到着が遅れておりまして……」


「たかが泥だろうが」

アルベールは吐き捨てるように言った。


「車輪が回らぬなら、兵に押させろ。我が軍には十分すぎるほどの数があるのだ。些末なことでいちいち行軍の歩みを止めるな」


ガレスは奥歯を噛み締めた。


泥を甘く見る指揮官は、だいたい同じ失敗をする。足元が止まれば、兵も荷も動かない。ガレスは、それを何度も見てきた。



ウルム村の迎賓館、その地下にあるインフラ管理室。


ポンプや水路の計器が並ぶ薄暗い部屋で、カインが地面に埋めた魔力センサーの反応を読み取っていた。壁に掛けられた地図の前では、ヘイムが腕を組み、ロイルが落ち着かない様子で外の方角を気にしている。


「……あの縄、敵から見ればただの避けるための目印に見えるだろうな」

ヘイムが、腕を組んで呟いた。


彼が言っているのは、昨夜のうちに村の防壁の外、平原へ続く道の脇に打っておかせた木杭と細い縄のことだ。


「実際、避けられるさ。道の真ん中を通るならな」

俺は、水路の分配バルブに手をかけながら言った。


「人は線を見ると、その内側と外側を勝手に分ける。車輪を引く御者も同じだ。道が詰まって迷った時、無意識に安全そうに見える端へ逃げようとする」


「南側の平地は、見た目よりずっと柔らかくなっていますね。表面だけが上手く乾いています」

カインが計器の数値を書き留めながら言った。


「表面だけでいいんだ。見た目が完全に泥沼なら、誰もそこには入らない。乾いて踏み固められているように見えれば、御者は入る」


俺はバルブを微調整し、西側の分水路へ流す水量をほんの少し増やした。


大水を流して鉄砲水にするわけではない。表からは分からない程度に、下の土を湿らせる。それだけで、重い荷車には十分だった。


「水浸しにするなよ。見えている泥は避けられる。見えない柔らかさだけでいい」


俺の指示に、カインが頷いて水量の制御を安定させた。


「アシュラン様。まだ撃たないんですか」

ロイルが、我慢しきれないというように口を開いた。


ロイルの手は、さっきから腰の剣の近くにあった。


「相手はもう、目と鼻の先に陣を敷いています。このままでは……」


「撃つより、車輪を止めた方が早い」


俺はバルブから手を離し、首の後ろを掻いた。


「陣を敷いたから止まるんだ。動いているうちは、まだ流れている。だが、一箇所にとどまれば、そこから重みで沈んでいく」


「ですが……」


「人を魔法やバリスタで倒せば、後で怪我人の治療や死体の処理が増える。荷車なら、そこに勝手に止まってくれるだけでいい」


俺はロイルの目を見た。


「俺は戦場を広げたいわけじゃない。面倒を小さくしたいだけだ」



その頃、村の広場では、いつもと変わらぬ日常の風景が続いていた。

もちろん、村人たちは誰もが西の空を気にしている。だが、決められた持ち場を離れて逃げ出す者は一人もいなかった。


礼拝堂の奥では、ロッテが子供たちを一箇所に集めていた。


「ロッテお姉ちゃん、まだ大丈夫なの……?」


青い札を首から下げた男の子が、不安そうに膝を抱える。


「大丈夫ですよ」


ロッテは、子供たちの前にしゃがみ込んで、穏やかな声で言った。


「怖い時に、外のことを全部知ろうとすると、もっと怖くなります。鐘が鳴るまでは、ここがあなたたちの持ち場です。ちゃんと守ってくださいね」


その言葉に、子供たちは少しだけ顔を上げ、互いに身を寄せ合ってこくりと頷いた。


一方、救護所として開放された集会棟では、エレノアが過呼吸気味になっている年配の避難民の背中をさすっていた。


「大丈夫ですわ。ゆっくり、深く息をして。……今ここで慌てて外を走る方が、ずっと危ないですからね」


そこへ、カインの調整したスマートゴーレムが、無言で水桶や清潔な布の束を運び込んでくる。


インフラ管理室で、ゴーレムの稼働状況を示す魔力盤を追っていたカインが、少しだけ口元を緩めた。


「……戦場にゴーレムを出せば、もう少し派手に敵の足を止められますが」


「派手に止めると、派手に壊れる。直すのも金がかかるしな」


俺は盤面の計器から目を離さずに言った。


「こっちは、村の生活を回す方に使う。水と布が届き続ければ、人は落ち着く」



「なぜ進まん! 前を空けろ!」


アルベール軍の前衛は、そこで止まっていた。


前方の兵が村を包囲しようと横に広がろうとするが、中央の道を塞ぐように止まった荷車が邪魔で、後続がまったく前へ出られないのだ。


「真ん中が詰まっている! 左へ避けろ!」


後方からやってきた矢束を積んだ重い荷車が、ヘイムの打った縄を避けるように、一見すると乾いて安全そうに見える南側の草地へ乗り入れた。


ズブッ。


嫌な音とともに、車輪が草の下の柔らかい土に深く食い込んだ。


「おい、止まるな! 馬に鞭を入れろ!」


御者が焦って鞭を振るう。馬がいななき、無理やり前に進もうと前足を掻くが、重い荷を積んだ車輪は、進むどころかさらに泥の中へと深く沈み込んでいく。


「駄目だ、動かねえ! 誰か押してくれ!」


その声に、周りにいた兵たちが慌てて荷車の後ろに群がり、力任せに押し始めた。


「馬鹿者、押すな! 荷を軽くしてからだ!」

ガレスが馬を駆けさせてきて怒鳴りつけた。


「前の車を泥から出すまで、後ろの車を絶対に入れるな! 誰だ、草地へ逃がしたのは!」


だが、そこにアルベールの取り巻きである副官が横から口を出した。


「何を手間取っている! 兵に押させればよいだろう、我が軍には数はあるのだぞ! もたもたしているとアルベール様のお怒りを買うぞ!」


ガレスの怒号と、取り巻きの命令が、同じ荷車に向かって飛んだ。


言われるがままに兵たちが群がり、荷車を押す。だが、重い車輪は泥を捏ね回すだけで一向に抜け出さない。それどころか、人が集まったことで道はさらに狭くなり、後続の荷車も兵も、完全に歩みを止めるしかなかった。


「なぜ進まんのだ!」

安全な後方から、アルベールが苛立たしげに叫んだ。


「敵は防壁から一歩も出ておらんし、魔法の一つも撃ってきていないではないか!」


その通りだった。

ウルム村は、まだ一発の矢も放っていない。


ただ、地面が柔らかいだけ。ただ、車輪が沈んだだけ。

それだけで、前に出たい兵も、荷を運びたい御者も、同じ場所に縫い止められていた。



「……本当に、止まった」

防壁の上からその光景を見ていたロイルが、信じられないというように呟いた。


村に辿り着く前に、軍勢の足は車輪から止まり始めていた。


「車輪は嘘をつかねぇ」

インフラ管理室から上がってきたヘイムが、隣で満足げに鼻を鳴らした。


「人間は見栄を張るが、車輪は正直だ。硬い方へ行く。なけりゃ、沈む」


アルベールが前線の泥詰まりに業を煮やし、自ら馬を進めようとしたその時だった。


後方から、泥まみれになった伝令が、死に物狂いで馬を駆けさせてきた。


「報告! 報告ッ!」


伝令の悲痛な叫び声が、陣の中に響き渡る。


「後続の荷が、まだ追いついておりません!」


「飼葉の車列も、予備の矢も、まだ旧橋を越えておりません!」


アルベールは、弾かれたように後ろを振り返った。


だが、長すぎる隊列の向こう側は、土煙の奥に沈んでいる。

アルベールが見ていたのは、まだ先頭だけだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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