表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第12章 兵站と瓦解

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
195/251

第170話 土煙と距離

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

ウルム村の朝は、いつもと同じように始まった。

広場では商人が品を並べ、水場の者たちが湯を配り、礼拝堂の前では人が静かに行き来している。

商人は品を並べ、水場の者たちは湯を配り、礼拝堂の前では人が静かに行き来している。


それでも、誰かがふと手を止め、西の空を見る。

一人が見れば、別の誰かもつられる。

その小さな動きだけが、いつもの朝とは違っていた。


西の街道の向こうから、土煙が上がっている。

ただの荷馬車にしては、広すぎる土煙だった。


その気配は、もう村中に広がっていた。

それでも、誰も持ち場を離れなかった。

こういう時ほど、決められた場所で、決められた仕事を続ける。

今のウルムでは、それが当たり前になっていた。



「……街道が見えません。人と荷で埋まっています」


防壁の南西に立つ見張り塔の上。


冷たい風に吹かれながら、ハンスが真鍮製の望遠鏡を覗いたまま言った。


「旗は確認できるか」


横に立つロイルが、防壁の縁から身を乗り出して問う。


「数は多いです。ですが、王国正規軍の旗はありません。旗も鎧も揃っていない。……寄せ集めです」


そこで、ハンスはわずかに声を落とした。


「それと、隊列が長い。嫌になるくらい長いです」


「ロイル」


俺が声をかけると、防壁から身を乗り出していたロイルが振り返った。俺の後ろからは、カインとキドも石段を上がってくる。


「アシュラン様。敵軍が目視できる距離まで来ました」

ロイルの声は硬い。


俺は急ぐでもなく防壁の縁まで歩き、手すりに肘をついて西を見た。望遠鏡は使わない。土煙の広がりと、切れ目だけを目で追う。


「……何人くらいいると思いますか」

ロイルが尋ねた。


「数だけ見るな。列の長さを見ろ」

俺は短く返した。


「列の、長さですか?」


「あれだけ前後に伸びれば、先頭が命令しても後ろまでは届かない。後ろは後ろで勝手に動く」


俺は土煙の先頭から、まだぼやけている最後尾の方まで視線を流した。


「あれは軍隊というより、長くて重い荷物だ」


「兵隊も、荷物なのか?」


後ろで記録板を抱えていたキドが、不思議そうに首を傾げた。


「飯を食って、道を塞いで、進むのが遅れるなら、似たようなもんだ」


カインが眼鏡を押し上げながら、淡々と答える。

「キド。荷車が遅いだけでは駄目です。隊列の長さ、土煙の切れ目、止まった場所。そこまで書きなさい。後で効いてきます」


「わかった」

キドは頷き、板に木炭で慣れない線を引いた。


「合図の鐘は使うなよ」

俺は西を見たまま、ロイルに言った。


「村の動きを変えなくていい。特別な鐘を鳴らすと、人が勝手に悪い意味を足す。市場も水場も、そのまま動かせ」


「敵が来ていても、ですか」


「敵が来ているからだ。止めるな」


ロイルは一瞬だけ息を呑み、それから短く頷いた。


「了解しました」



その頃、村の広場の一角。


「はい、こっちの列はもう少し詰めて座ってください。お水は足りていますか?」


エプロン姿のロッテが、木桶からコップに水を汲みながら、子供たちに声をかけていた。


西の空に土煙が上がっていることは、子供たちの耳にも入っている。広場の端に集められた子供たちは、いつもより口数が少なかった。


「ねえ、お城の兵隊さんが来るの?」

一人の女の子が、ロッテの袖を不安そうに引いた。


ロッテは少し身を屈め、女の子と目を合わせる。

「怖い時ほど、決められた通りに動くのです」


そう言って、女の子の手をそっと包んだ。


「小さい子の手を離さないで。迷子を出さないことだって、立派な役目です」


「うん……わかった」

女の子は頷き、隣にいた幼い弟の手をぎゅっと握った。


少し離れた場所で、クラウスがその様子を見守っていた。

何かを言うことはない。


ただ、ロッテが子供たちの間に立ち、声をかけ、水を配っている。その姿を見て、老執事はほんの少しだけ目を細めた。



ウルム村から西へ数キロ離れた平原地帯。


アルベール・ド・リヒテンブールは、馬上から遠くに見えるウルム村の防壁を眺め、上機嫌に口角を上げていた。


彼の脇を固めるのは、二人の副官だ。


一人は絹の外套を揺らす若い貴族。もう一人は、傷の残る鎧を着た寡黙な男だった。


「見ろ。あれが逆賊どもの立て籠もる村だ。所詮は追放者と流民の寄せ集めよ。これだけの軍勢を前にすれば、防壁など内側から崩れるだろう」


「まったくでございますな。あの小汚い壁ごと、一息に踏み潰してやりましょう」


取り巻きの副官が笑って頷く。

だが、もう一人の副官は笑わなかった。


「……アルベール様、恐れながら」


横に馬を寄せ、低い声で進言する。


「隊列が伸びすぎております。先頭と後方で足並みが切れています。飼葉と予備の矢を積んだ荷車も、かなり後ろです。このままでは、前衛だけが先に着きます」


「構わん」


アルベールは鼻で笑った。


「威光で押せばよいのだ」


「しかし、補給が遅れれば――」


「勝てば補給など、あの村の倉庫からいくらでも手に入る。今は堂々と進み、我らの力を見せつけることの方が先だ」


副官は口を閉じた。


これ以上言えば、臆病者と見なされるだけだ。


彼は手綱を握り直し、後方へ目を向けた。


長い列のあちこちで、荷車が詰まり始めている。御者の怒号。馬のいななき。道端へ逃げようとする車輪。


アルベールと取り巻きの視線は、遠くの防壁に向いたままだった。

彼らの背後で、荷車の車輪がまた一つ、ぬかるみに沈みかけていた。



迎賓館の作業部屋。

俺は長机の上に、周辺の地形を記した地図を広げていた。


「ロイル。敵の先頭は今どのあたりだ」


「西の旧街道です。真っ直ぐ進めば、あと半刻ほどで村が見える平地に出ます」


俺は地図の一点を指で叩いた。


「……ここに止まるな」


そこは、ウルム村の手前に広がる開けた平地だった。


ロイルが地図を覗き込む。


「なぜ、ここだと分かるのです?」


「見晴らしがいいからだ」


俺はあっさり答えた。


「村の防壁が遠くに見える。兵を横に広げられる。自分の軍が大きく見える。そういう場所は、無能な指揮官ほど好きだ」


「ですが、マスター。あそこは……」


カインが等高線を見て、眼鏡の奥の目を細めた。


「ああ」


俺は頷く。


「北側は水はけが悪い。南側は草で隠れているが、地面が柔らかい。道の中央だけは固いが、そこを重い荷車で塞いだら終わりだ」


前が止まれば、後ろから荷車が追いつく。

道幅には限りがあるから、御者は左右へ逃がそうとする。

だが、逃げた先の土は柔らかい。


「一台沈めば、後ろは避けようとする。避けた先でまた沈む。そうなれば、兵より先に車輪が音を上げる」


まだ見張りからの報告は来ていない。

だが、地図を見れば十分だった。


俺は広げていた地図を丸め、首の後ろを掻いた。


「あそこに止まるのか」


窓の外では、西の土煙がまだゆっくりと広がっている。


「じゃあ、明日の朝には詰まりますね」

カインが無言で地図を見下ろした。


ロイルも、ようやくその意味に気づいたように息を止める。


まだ敵は、勝つつもりで陣を敷いている。

その足元の土が、どれほど柔らかいかも知らずに。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

新連載のお知らせ
『星降りの欠片と瀬戸内の巫女
〜役立たずと言われた研究者が、世界の理を繋ぎ直すまで〜』を投稿開始しました。

岡山の研究者と瀬戸内の巫女が、星降りの夜から始まる怪異に触れていく現代ローファンタジーです。
瀬戸内、神社、巫女、怪異、研究者主人公がお好きな方は、よければ覗いてみてください。

『星降りの欠片と瀬戸内の巫女』はこちら

+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ