第170話 土煙と距離
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ウルム村の朝は、いつもと同じように始まった。
広場では商人が品を並べ、水場の者たちが湯を配り、礼拝堂の前では人が静かに行き来している。
商人は品を並べ、水場の者たちは湯を配り、礼拝堂の前では人が静かに行き来している。
それでも、誰かがふと手を止め、西の空を見る。
一人が見れば、別の誰かもつられる。
その小さな動きだけが、いつもの朝とは違っていた。
西の街道の向こうから、土煙が上がっている。
ただの荷馬車にしては、広すぎる土煙だった。
その気配は、もう村中に広がっていた。
それでも、誰も持ち場を離れなかった。
こういう時ほど、決められた場所で、決められた仕事を続ける。
今のウルムでは、それが当たり前になっていた。
◇
「……街道が見えません。人と荷で埋まっています」
防壁の南西に立つ見張り塔の上。
冷たい風に吹かれながら、ハンスが真鍮製の望遠鏡を覗いたまま言った。
「旗は確認できるか」
横に立つロイルが、防壁の縁から身を乗り出して問う。
「数は多いです。ですが、王国正規軍の旗はありません。旗も鎧も揃っていない。……寄せ集めです」
そこで、ハンスはわずかに声を落とした。
「それと、隊列が長い。嫌になるくらい長いです」
「ロイル」
俺が声をかけると、防壁から身を乗り出していたロイルが振り返った。俺の後ろからは、カインとキドも石段を上がってくる。
「アシュラン様。敵軍が目視できる距離まで来ました」
ロイルの声は硬い。
俺は急ぐでもなく防壁の縁まで歩き、手すりに肘をついて西を見た。望遠鏡は使わない。土煙の広がりと、切れ目だけを目で追う。
「……何人くらいいると思いますか」
ロイルが尋ねた。
「数だけ見るな。列の長さを見ろ」
俺は短く返した。
「列の、長さですか?」
「あれだけ前後に伸びれば、先頭が命令しても後ろまでは届かない。後ろは後ろで勝手に動く」
俺は土煙の先頭から、まだぼやけている最後尾の方まで視線を流した。
「あれは軍隊というより、長くて重い荷物だ」
「兵隊も、荷物なのか?」
後ろで記録板を抱えていたキドが、不思議そうに首を傾げた。
「飯を食って、道を塞いで、進むのが遅れるなら、似たようなもんだ」
カインが眼鏡を押し上げながら、淡々と答える。
「キド。荷車が遅いだけでは駄目です。隊列の長さ、土煙の切れ目、止まった場所。そこまで書きなさい。後で効いてきます」
「わかった」
キドは頷き、板に木炭で慣れない線を引いた。
「合図の鐘は使うなよ」
俺は西を見たまま、ロイルに言った。
「村の動きを変えなくていい。特別な鐘を鳴らすと、人が勝手に悪い意味を足す。市場も水場も、そのまま動かせ」
「敵が来ていても、ですか」
「敵が来ているからだ。止めるな」
ロイルは一瞬だけ息を呑み、それから短く頷いた。
「了解しました」
◇
その頃、村の広場の一角。
「はい、こっちの列はもう少し詰めて座ってください。お水は足りていますか?」
エプロン姿のロッテが、木桶からコップに水を汲みながら、子供たちに声をかけていた。
西の空に土煙が上がっていることは、子供たちの耳にも入っている。広場の端に集められた子供たちは、いつもより口数が少なかった。
「ねえ、お城の兵隊さんが来るの?」
一人の女の子が、ロッテの袖を不安そうに引いた。
ロッテは少し身を屈め、女の子と目を合わせる。
「怖い時ほど、決められた通りに動くのです」
そう言って、女の子の手をそっと包んだ。
「小さい子の手を離さないで。迷子を出さないことだって、立派な役目です」
「うん……わかった」
女の子は頷き、隣にいた幼い弟の手をぎゅっと握った。
少し離れた場所で、クラウスがその様子を見守っていた。
何かを言うことはない。
ただ、ロッテが子供たちの間に立ち、声をかけ、水を配っている。その姿を見て、老執事はほんの少しだけ目を細めた。
◇
ウルム村から西へ数キロ離れた平原地帯。
アルベール・ド・リヒテンブールは、馬上から遠くに見えるウルム村の防壁を眺め、上機嫌に口角を上げていた。
彼の脇を固めるのは、二人の副官だ。
一人は絹の外套を揺らす若い貴族。もう一人は、傷の残る鎧を着た寡黙な男だった。
「見ろ。あれが逆賊どもの立て籠もる村だ。所詮は追放者と流民の寄せ集めよ。これだけの軍勢を前にすれば、防壁など内側から崩れるだろう」
「まったくでございますな。あの小汚い壁ごと、一息に踏み潰してやりましょう」
取り巻きの副官が笑って頷く。
だが、もう一人の副官は笑わなかった。
「……アルベール様、恐れながら」
横に馬を寄せ、低い声で進言する。
「隊列が伸びすぎております。先頭と後方で足並みが切れています。飼葉と予備の矢を積んだ荷車も、かなり後ろです。このままでは、前衛だけが先に着きます」
「構わん」
アルベールは鼻で笑った。
「威光で押せばよいのだ」
「しかし、補給が遅れれば――」
「勝てば補給など、あの村の倉庫からいくらでも手に入る。今は堂々と進み、我らの力を見せつけることの方が先だ」
副官は口を閉じた。
これ以上言えば、臆病者と見なされるだけだ。
彼は手綱を握り直し、後方へ目を向けた。
長い列のあちこちで、荷車が詰まり始めている。御者の怒号。馬のいななき。道端へ逃げようとする車輪。
アルベールと取り巻きの視線は、遠くの防壁に向いたままだった。
彼らの背後で、荷車の車輪がまた一つ、ぬかるみに沈みかけていた。
◇
迎賓館の作業部屋。
俺は長机の上に、周辺の地形を記した地図を広げていた。
「ロイル。敵の先頭は今どのあたりだ」
「西の旧街道です。真っ直ぐ進めば、あと半刻ほどで村が見える平地に出ます」
俺は地図の一点を指で叩いた。
「……ここに止まるな」
そこは、ウルム村の手前に広がる開けた平地だった。
ロイルが地図を覗き込む。
「なぜ、ここだと分かるのです?」
「見晴らしがいいからだ」
俺はあっさり答えた。
「村の防壁が遠くに見える。兵を横に広げられる。自分の軍が大きく見える。そういう場所は、無能な指揮官ほど好きだ」
「ですが、マスター。あそこは……」
カインが等高線を見て、眼鏡の奥の目を細めた。
「ああ」
俺は頷く。
「北側は水はけが悪い。南側は草で隠れているが、地面が柔らかい。道の中央だけは固いが、そこを重い荷車で塞いだら終わりだ」
前が止まれば、後ろから荷車が追いつく。
道幅には限りがあるから、御者は左右へ逃がそうとする。
だが、逃げた先の土は柔らかい。
「一台沈めば、後ろは避けようとする。避けた先でまた沈む。そうなれば、兵より先に車輪が音を上げる」
まだ見張りからの報告は来ていない。
だが、地図を見れば十分だった。
俺は広げていた地図を丸め、首の後ろを掻いた。
「あそこに止まるのか」
窓の外では、西の土煙がまだゆっくりと広がっている。
「じゃあ、明日の朝には詰まりますね」
カインが無言で地図を見下ろした。
ロイルも、ようやくその意味に気づいたように息を止める。
まだ敵は、勝つつもりで陣を敷いている。
その足元の土が、どれほど柔らかいかも知らずに。
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