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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第11章 綻びと傾き

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第168話 名分と列

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

北部街道沿いの中継地には、夜明け前から妙な熱気がこもっていた。

朝靄の中を、荷車がひっきりなしに入ってくる。男たちの怒声と馬のいななきが、あちこちで重なっていた。


街道脇には、いくつもの旗が立てられている。だが、それは整然と並ぶ正規軍の軍旗ではない。北部貴族の家紋が描かれたもの、王都傍流の急ごしらえの標識、色も形もまちまちな布切れの群れだ。


数はある。

しかし、同じ命令で動く軍には、到底見えなかった。


「先発だけで、千五百は越えました」

野営地の高台に設けた天幕の中で、北部の使いが下を見下ろしながら言った。


「見た目は悪くないな」

王都から来た傍流貴族が、腕を組んで満足げに頷く。


「見た目だけなら、です。隊列は家ごとにばらけていますし、指揮の系統も一本ではありません。まともに動かせるかどうか」

商人上がりの実務役が、手元の分厚い帳簿から目を離さずに水を差した。


「今はそれでいい。まずは、これだけの数が集まったと内外に見せつけることが先だ」

北部の使いが吐き捨てるように言う。


「後続が予定通りすべて合流すれば、三千には届くでしょう。ただ……食料の方は急がないと、すぐに詰まります」

実務役は羽ペンで帳簿を叩いた。


「千五百人を食わせるだけでも、かなりの物資が要ります。北へ強引に振り向けた荷だけでは、数日後には底が見えます」


「兵が先か、食料が先か、だな」

傍流貴族がため息をついた。


「食料です。兵は腹が減れば、誰の旗だろうが見向きもしません」


実務役の冷ややかな返答に、天幕の中はわずかに沈黙した。


あるのは、何人をいつまで食わせられるか。いつまでこの虚勢を保たせられるかという、現実的な計算だけだった。



朝靄が完全に晴れた頃、一際目を引く豪奢な馬車が中継地に到着した。


四頭立ての馬車からアルベール・ド・リヒテンブールが降り立つと、周囲で待ち構えていた貴族や指揮官たちが、一斉に頭を下げた。

礼は深すぎず、浅すぎもしない。


それを見たアルベールの口角が、ゆっくりと吊り上がる。


自分を正しく扱える者たちが、ようやく現れた。そう確信するには、彼らの恭しい態度は十分すぎるほどだった。


遠巻きに見ている兵たちの間にも、公爵家の血を引くアルベールの姿に、ざわめきが広がっていく。


そのざわめきを聞きながら、アルベールは満足げに顎を上げた。ようやく、自分が立つべき場所に戻ってきた。そう思った。


前回の敗北の教訓など、とっくに彼の頭からは消え去っている。むしろ、以前よりも多くの者が自分の下に集まったという事実が、己の正しさを証明していると思い込んでいた。


「ようやく、王国の正しき力が私のもとへ戻ってきたか」

アルベールは、出迎えた者たちを見回して鷹揚に頷いた。


「皆、アルベール様のお立ち上がりを心待ちにしておりました」

北部の使いが、芝居がかった手つきで恭しく一礼する。


「王都で縮こまっている老人どもは、臆病に過ぎる。だが、ここにいる者たちは違うようだな」


「ええ。王都の惰弱な政治を正し、王国の権威を再び示すには、皆が仰ぎ見る分かりやすい旗が必要でございます」


傍流貴族の言葉に、アルベールは不満げに眉をひそめた。


「旗ではない。私自身が王国の意志だ」


周囲の者たちは一瞬だけ視線を交わし――誰も、それを否定しなかった。

否定しない方が、遥かに扱いやすいからだ。


アルベールが遠くの兵たちに向けて尊大に手を振っている後ろで、傍流貴族が隣の男へ小声で囁いた。


「十分だな。あれだけ胸を張ってくれれば、矢面に立たせる分には困らん」


「ええ。本人が、自分で歩いてくれる神輿ほど楽なものはありません」


北部の使いが、口元だけで薄く笑った。


本人は、自らのカリスマで軍を束ねていると信じ切っている。だが周囲の者たちは、彼が前に立ってくれればそれでよかった。


そのずれを、誰も直そうとはしなかった。



軍の規模が大きくなるにつれ、隠しきれない粗があちこちで見え始めていた。


実務役の商人は、各陣から上がってくる報告の束を見て頭を抱えそうになっていた。


歩兵たちの持っている盾の大きさがバラバラだ。槍の長さも規格が揃っていない。北部の私兵と王都からの流れ者が小競り合いを起こし、家ごとに号令の出し方すら違っている。


数は確実に増えている。だが、これを「軍」と呼べるかと言われれば、誰もすぐには頷けない有様だった。


「弓兵の矢がまったく足りません。それに、馬飼葉の備蓄が想定より三日分ほど薄い」

実務役が、足早に歩きながら北部の使いへ耳打ちした。


「後続の荷が来るまで、どうにか持たせろ」


「持たせるには、各陣への配分を削る必要があります」


「兵が騒がないか?」

横を歩いていた傍流貴族が、不安げに尋ねる。


「騒ぐでしょうね。ですが、今はまだ支給された前金が効いています。懐が温かいうちは、多少飯が減っても目を瞑るでしょう」

実務役の男は、淡々と事実だけを告げた。


「あの村の防壁を破れるのか?」


「……相手は村です。逃げるわけでも、こちらへ攻めてくるわけでもありません。数で囲めば足ります」


そこへ、兵の士気を視察して上機嫌なアルベールが近づいてきた。


「見事なものだ。これだけの兵がいれば十分すぎる。あの忌々しい村の平民どもも、これを見れば恐怖に震えて膝をつくことだろう」


実務役の男は、一瞬だけ言葉に詰まった。

足りない矢。ばらばらの装備。底が見え始めた食糧。それらが、この見栄えだけを気にする総大将の目には一切入っていない。


「……ええ、アルベール様」


北部の使いが、滑らかな作り笑いで間を埋めた。


「まずは、この王国の真の力と姿を、見せつけることが何より大事でございます」


見た目だけの威勢を褒める声が続いた。その横で、足りない矢と飼葉の数だけは、帳簿の中に残っていた。



同じ頃、王城の最奥にある執務室。


リヒテンブール公爵は、届けられたばかりの報告書を読み終え、机の上に静かに置いた。

しばらくの間、何も言わなかった。


怒鳴り散らす方が、まだ楽だったかもしれない。

しかし、紙に書かれた現実は、怒りでどうにかなる段階をとうに通り越していた。


北部三領を処分し、権限を奪うことで火を消したはずだった。

だが、結果はどうだ。

北部を切ったはずなのに、その場所から別の動きが生まれていた。


「……兵は先発だけで千五百。後続を含めれば、三千規模に達する見込みです」

沈黙に耐えかねたように、側近が硬い声で報告を補足した。


「北部三家だけではないな」

公爵の声は、ひどく掠れていた。


「はい。王都の傍流貴族の名も多数混じっております。前金として使われている金の流れも、一部は王都の裏筋から回ったものです。不満を持つ者が、一斉にあの旗の下へ集まっている状態でして……」


「……アルベールは」


「連名の先頭に、その名が記されております」


公爵は、深く、ゆっくりと目を閉じた。


「愚か者どもが。よりによって、あれを一番前に置いたか……」


「ただちに討伐の兵を向けますか?」

側近が問う。


「どうやって止める」

公爵は目を開き、冷めた目で側近を見た。


「今ここで正規軍を差し向ければ、王都の内部で身内同士が殺し合うことになる。王国が完全に割れたと、周辺諸国に宣伝して回るようなものだ」


「し、しかし、放置すればあの軍勢はウルム村へ向かいます。帝国との協定が……」


「止めなければ、帝国が動く。止めれば、内側が割れる」

公爵は、忌々しげに机の端を強く握りしめた。


「どちらに転んでも、深い傷は残る。……奴らは、それを分かっていて、あの馬鹿息子を担ぎ上げたのだ」


地方の暴走として切り捨てたはずの火種は、もう王都の足元まで広がっていた。


公爵にも、無傷で収める手は見えなかった。



「兵より先に、荷が動きました」


帝都ヴィンデルの一角、黒鴉の秘密拠点。

報告役の隊員が、長机に地図を広げながらベアトリクスへ簡潔に告げた。


「荷の後に名が並び、今は街道沿いの中継地に旗が立っています。数は千五百。さらに膨らむ見込みです」


「分かりやすい順番ね」


ベアトリクスは、地図の上に置かれた報告書へ目を通し、ほんの少し口元を緩めた。


「どういう意味でしょう」


「見る順番よ。潰すなら、その後でいい」


彼女は、地図上のアルベール軍を示す印から、さらに後方へ指を滑らせた。

兵の集まる場所ではない。そこへ通じる街道沿いの宿場町や荷捌き場だ。


「旗は見なくていいわ。後ろを見なさい」


ベアトリクスは地図の数か所を指で押さえた。


「荷駄、御者、伝令、借用証。兵を動かすには、必ずそこを通る。そこを見ておけば、あの軍がどこで詰まるか分かる」


「妨害しますか」


「まだよ。今は記録を取る。向こうが自分で踏み越えたと分かる形にしてからでいい」


「はっ。ただちに各所へ人員を配置します」


黒鴉が見ているのは、兵の数ではない。その兵を食わせ、動かし、命令を届ける道だった。



北部の空の下。


「王国の正統なる力を、今こそ示す時だ。私に続け!」


馬上に立ったアルベールが、飾り立てられた剣を抜き放ち、高らかに叫んだ。


「おおおおっ!」


その声に応え、集まった兵たちが鬨の声を上げる。


だが、その声は家ごとに少しずつ遅れて重なり、決して綺麗には揃わなかった。


掲げられた旗の模様もばらばらで、足並みも揃っていない。

兵たち自身も、自分たちが本当は何のために、誰と戦うために歩かされるのか、よく分かっていなかった。

ただ、前金は出た。飯も配られた。名のある男が一番前に立っている。

それだけで、人は歩き出す。


「まあ、遠目には立派な軍に見える。それで十分だ」

誰かが、冷たくそう呟いた。


風に煽られ、ばらばらの旗がゆっくりと動き出す。


王国の割れ目から、中央とは別の軍勢が生まれつつあった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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