第166話 旗と軍資金
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王都の裏手、馬車のわだちも少ないひっそりとした屋敷では、その夜、酒よりも先に分厚い帳簿が開かれていた。
旗を立てるだけなら安い。血筋のいい者を前に出し、立派な布を掲げさせれば、それらしく見える。金がかかるのは、その旗の下に人を集め、食わせ、実際に歩かせる段になってからだ。
長机の上には、ワインの入った杯を端に追いやるようにして、帳簿や書類が広げられていた。
兵糧の買い付け見積もり、馬飼葉の手配書、農具名目で集める鉄材の帳面、そして、誰がどこまで金を出すかを記すための白紙。
「旗を立てるだけなら金はかかりません。金が減り始めるのは、その旗の下に、まず兵を千五百立たせる段になってからです」
商人上がりの実務役が、羽ペンの先で帳簿の数字をトントンと叩きながら言った。
「最初から千五百か」
腕を組んで座っていた傍流貴族の一人が、渋い顔をする。
「少ないくらいだ」
向かいに座る北部の使いが、冷たく返した。
「北部三家だけでも動かす体面というものがある。そこへ不満を持つ同調組を足せば、最低でも千五百の数を揃えて見せねば話にならん」
実務役は手元の紙に素早く計算を書き付けた。
「千五百なら、ひと月分の前金と兵糧で何とか形になります。ですが、ここからさらに流れ者や雇い兵を吸収し、三千まで膨らませるおつもりなら、今のうちに干し肉、馬飼葉、矢束、鉄材の流れを強引にでも北へ切り替えないと持ちません」
「三千……そこまで膨らむか?」
「そこまで見えれば、今は様子見を決め込んでいる家も動く」
北部の使いが、薄暗い灯りの中で目を光らせた。
「勝てる軍でなくてもいい。重要なのは、勝てそうに見える軍を作ることだ」
もう、愚痴では済まないところまで来ていた。
◇
問題は、その金を誰が出すかだった。
机を囲む者たちは、誰も自分の懐からすべてを出すつもりなどなかった。
名を出す者と、金だけ出す者は違う。表で不満を掲げる北部貴族。裏で金だけを出す王都の傍流。武具を貸す商人。荒くれ者を集める仲介役。利害は重なっている。だが、誰も自分の逃げ道だけは手放そうとしなかった。
それでも、目の前の白紙には少しずつ署名と判が押されていく。
今の立場をひっくり返せるのなら、多少の危ない橋は渡る。そう考える者は、今の王国にはもう珍しくなかった。
「兵を動かす名目ですが、『討伐』では少々角が立ちすぎます」
傍流貴族が、書きかけの草案を見て口を挟んだ。
「『秩序回復』でいいだろう。言葉は限りなく柔らかく、中身は硬くする」
北部の使いが即答する。
「名目よりも、誰の名前が一番上に来るかです」
実務役が、帳簿から顔を上げて口を挟んだ。
「アルベール様の名か」
「ええ。公爵家の正統な血が前にある。それだけで、裏から回ってくる金の出方がまったく変わります。あの御方の名でなければ、様子見の連中は財布の紐を開きません」
彼らにとって、あの若者は総大将でも英雄でもない。金を引き出すために前へ置く、見栄えのいい名前でしかなかった。
◇
同じ夜。王都の外れにある薄暗い倉庫街。
いくつかの倉庫の中では、深夜にもかかわらず、荷札が手際よく一枚ずつ付け替えられていた。
南の駐屯地へ回るはずだった干し肉の木箱が、北へ向かう荷車の列に積まれる。
街道補修の名目で掻き集められた鉄材が、別の記録へと移されていく。
現場は意外と静かだった。松明の灯りも最小限。騒げば、それだけ余計な目を引く。
「この箱は北回りだ。帳面上は、街道の補修資材で通す」
荷役頭が、荷札を縛り直しながら若い書記に指示を出した。
「補修資材で、鉄の矢束は通りませんよ」
書記が板の帳面を見ながら眉をひそめる。
「あんまり詳しく書くな。『鉄材一式』でいい。どうせ中身までいちいち改めやしねえよ」
荷役頭が鼻を鳴らす。
倉庫の奥では、北部の使いと傍流貴族が、集まってきた人員の名簿を薄明かりの下で確認していた。
北部領主の私兵、街道警護を解雇された崩れ、職を失った護衛、質の悪い傭兵まがいの男たち。処分で居場所を失った者たちが、前金に釣られて次々と集まりつつあった。
「……傷持ちや、まともに槍を握ったこともないような者まで混ざっているが、構わんのか」
名簿を見た傍流貴族が、顔をしかめた。
「構わん。取りあえず立っていてさえくれれば数にはなる」
北部の使いは、名簿から目を離さずに淡々と返した。
「質は問わないのか。相手には、あのゴーレムがいると聞くぞ」
「最初に減るのは、どうせ前に出された連中だ。そこで相手の動きが見えたら、まともな兵を出せばいい」
人を育てる気など、端からなかった。
最初から減るものとして数えている。帳簿の上では、人の命も干し肉や矢束と同じ欄に並んでいた。
◇
遠く離れたウルム村の迎賓館。
一階の作業区画には、温かな陽射しが差し込んでいた。シュッシュッという小気味良い音が、部屋の中に響いている。
キドは膝の上に小さな木板を置き、小刀で丁寧に角を落としていた。
雑に削ると、子供たちが握った時にささくれが刺さる。かといって一枚ずつ丁寧に磨きすぎると、必要な数が一向に間に合わない。そのちょうどいい手加減を、キドはここ数日で掴んできていた。
「カインさん。これ、字だけじゃなくて、隅に簡単な印も入れた方がいいかな」
キドが、出来上がった数枚の板札を見せながら、傍らで作業をしていたカインに尋ねた。
カインは手を止め、眼鏡の奥で感心したように目を細めた。
「いいですね。文字をまだ全部読めない小さな子でも、先に形の区別を覚えられます」
「数を作るなら、角だけ先に全部落として重ねろ」
少し離れた机で書類に目を通していたアシュランが、顔を上げずに横やりを入れた。
「一枚ずつ綺麗に仕上げてから次に行ってたら、日が暮れるぞ」
キドは小刀を持った手を止めた。
「雑でいいってこと?」
「違う」
アシュランは書類から視線を動かし、キドを見た。
「今まとめてやるところと、あとで一枚ずつ直せるところを分けろってことだ。道具を持ち替える回数も減る」
「なるほどな。持ち替える時間がもったいないのか」
キドはすんなりと納得し、まずは板の角を落とす作業だけに集中し始めた。
◇
そこへ、管理窓口の見回りから戻ってきたロイルが、足音を立てて入ってきた。
「アシュラン様、昨晩から今朝にかけての、街道からの荷の記録です」
ロイルは手にした記録板を机の上に置いた。
アシュランがそれに手を伸ばすより早く、すぐ横で板札の木屑を片付けていたキドが、何気なく記録板の数字に視線を落とした。
最初は、ただの癖だった。村の窓口を手伝い、倉庫の札を管理するようになってから、自然と数字を追うようになっていたのだ。
けれど、下から二段目と三段目の数字を見たところで、キドの目がぴたりと止まった。
「……ロイルさん。これ、前より減ってないか」
キドが、板札を置いたまま言った。
「何がだ」
ロイルが怪訝な顔で聞き返す。
「王都側から来る、鉄材と干し肉。来る日はちゃんと来てるのに、一回の数が少ない。あと、馬飼葉の便も、二日前から一つ飛んでる」
「……どこで気づいた」
ロイルの顔つきが変わった。
「前に俺が作った荷札の数と合わないんだ。いつもなら、この時期はもっと入ってるはずだろ」
キドは、自分の手元にある新しい板札と、記録板の数字を交互に指差した。
カインが即座に立ち上がり、記録板を覗き込んだ。
「……確かに。季節のずれだけでは説明しにくいですね。鉄と保存食、それに馬の飼料……」
ロイルが黙り込んだ横で、アシュランが無言で記録板を引き寄せた。
数秒間、その数字の羅列を無表情な目で追う。
「……向こうで、荷を食ってるな」
アシュランが、ぽつりとこぼした。
「荷を食う?」
キドが首をかしげる。
「人を動かす前には、食料と鉄を集める。これは、そういう減り方だ」
アシュランは記録板を机に置いた。
数が減っただけなら、ただの偶然や街道のトラブルもあり得る。だが、鉄と保存食と飼葉が、同じ時期に北へ寄るように減っているなら、それはもう偶然ではない。
キドは、自分が削っていた板札を見下ろした。ここでは、子供に字と印を教えるために札を作っている。街道の向こうでは、同じ札が荷を隠し、兵を動かすために使われている。同じように数を数えているのに、向かっている先はまるで違った。
アシュランは椅子に深く寄りかかり、腕を組んで短く言った。
「ロイル。街道の便をもう一度洗い直せ。次は、数じゃなくて行き先を見るんだ。どこに荷が吸い込まれているかを探れ」
「分かりました」
ロイルが踵を返して足早に出ていく。
その一言で、木屑の匂いが残る作業部屋に、別の緊張が降りた。
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