第164話 継ぎ目と断絶
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王城の実務棟、その奥にある会議室の空気は、ひどく乾燥していた。
長机の上に広がっていた書類は、何時間にも及ぶ議論を経て、ようやく数枚の決定稿へと絞られつつあった。見た目だけは整っている。だが、そこで整えられているのは事の真実や理屈ではなく、逃げ道だった。
誰が何をしたのか、現場で何が起きたのか。もはやそんなことは、誰も気にしていなかった。
詰められていたのは、帝国への言い訳をどう整え、どこまでを中央は知らなかったことにできるか、それだけだった。
「……決定稿の主文は、『北部三領による未承認の局地対応』という形で整えます」
監察官が、羽ペンを置きながら疲れた声で言った。
「いや、『局地対応』では甘い」
向かいに座る法務官が、即座に横やりを入れた。
その声には一切の感情が混じっていない。
「帝国側は、あの黒皇石の前で王国の公印付き文書が使われた事実を掴んでいる。ただの局地対応と言い張っても跳ね返されるだけだ。文言には、『中央の承認なき独自行動』とまではっきりと入れておけ」
「そこまで書けば、北部は強く反発しますぞ」
同席していた公爵の側近が、眉間にシワを寄せた。
「それでは、王国が彼らを見捨てたと公言するようなものです。事実上の切り捨てではないですか」
「反発は結構。むしろ反発してくれた方が都合がいい」
法務官は冷ややかに言い放った。
「北部の不満など二の次だ。帝国に対して、『あの一件は王国の正式な意思ではない』と文書で明確に示す方が先決だ。我々の知らぬところで、地方の田舎貴族が勝手な真似をした。そう片づけなければ、王都にまで火の粉が降りかかる」
側近はため息をつき、冷めきった茶に視線を落とした。
「……整えているのは、事実ではないのだな」
「違います」
法務官は、書き直した文書を脇に置き、まだ乾ききらぬインクへ目を落としたまま、事務的に答えた。
「整えているのは、責任の向かう先です」
◇
王都の外れにある、ランデル伯爵家の滞在邸。
領地管理の中央預かりを言い渡され、事実上の謹慎状態に置かれているランデルたちのもとへ、その日の午後に中央からの使者が訪れた。
応接室に集められたのは、ランデル伯爵、クレマン子爵、ボルドー男爵の三人。そして、ランデルの家令であるモリスや数名の補佐官たちだった。
使者は茶を勧められるより早く、立ったまま懐から分厚い羊皮紙を取り出した。
「中央監察局および軍務・法務の連名による、正式な通達をお伝えする」
それは即断の処罰ではなかった。だが、領主としての権限を一本ずつ削いでいくような命令だった。
「一。ランデル伯爵領、クレマン子爵領、ボルドー男爵領に対し、境界付近における対外案件の独自判断を固く禁ずる」
使者の声が、静まり返った部屋に響く。
「二。今後、ウルム村およびその周辺に関わる一切の接触、ならびに人員の派遣は、すべて中央から派遣される監察官の事前確認を経ること」
クレマン子爵が、ギリッと奥歯を鳴らす音が聞こえた。
「三。本件の調査が終了するまでの間、各領における公印付き文書を用いた物資の徴発、人員の護送、および移送命令の一切の権限を停止とする」
「なっ……!」
ボルドー男爵がたまらず立ち上がりかけたが、ランデル伯爵がそれを無言の腕で制した。
ランデルの顔は、血の気を失って土気色になっていた。
「……つまり」
ランデルは、枯れ木のような声で使者を睨みつけた。
「我らに、領主として何もするなと?」
「その通りです」
使者は書状を巻き直し、一切の感情を交えずに短く返した。
「以降、各領の主な実務は中央から派遣される代官の決済を仰ぐことになります。通達は以上です」
使者が一礼して部屋を出ていくまで、誰も一言も発することができなかった。
触るな。動くな。決めるな。
そう書いてあるのと大差なかった。
◇
使者の足音が完全に遠ざかった後も、応接室には重い沈黙が居座っていた。
誰もが、今下された処分の意味を正確に理解していた。
「……これで、街道の荷は完全に止まります」
補佐官の一人が、頭を抱えるようにして呻いた。
「公印が使えなければ、商人の通行証も発行できない。代官に指示を出すことも、関所に兵を回すこともできなくなります。領地が、息絶えますぞ」
「止まるだけならまだいい」
クレマン子爵が、苛立ちに任せて近くの椅子を蹴り飛ばした。
「今後は何かあるたび、中央の承認を取れだ。向こうの役人が、現場の事情を汲んで素早く動くものか。そもそも監察官を通せなど、事実上の監視下ではないか。話にならん!」
「好きにやらせておいて、帝国が出てきそうになったらこちらを切るか……!」
ランデル伯爵は、手元の机を両手で強く握りしめ、震える声で吐き捨てた。
「ウルムの囲い込みを黙認し、恩恵だけを吸い上げようとしていたのは中央も同じはずだ。それを、自分たちだけは関知していないとでも言うつもりか!」
「王都は、自分たちの立場を守っただけですな」
別の補佐官が、ひどく冷めた声で言った。
「帝国からの追及をかわすため、すべての泥を我々に被せたのです」
彼らが怒っていたのは、処分の重さそのものではない。文言があまりにも綺麗に、中央の人間たちだけを外へ逃がす形になっていたことだ。失敗し、暴走した北部。そこには一切関与していない中央。その切り分けが、あまりにも露骨だった。
「立場だけではありません」
ずっと部屋の隅で控えていた家令のモリスが、ふと静かに口を開いた。
その声には、怒りも焦りもなかった。ただ冷えた事実だけを告げていた。
「王都は……最初から、我らを同じ王国として扱ってはおりません」
その一言が、部屋の熱を完全に奪い去った。
ランデルも、クレマンも、返す言葉を持たなかった。
都合のいい時だけ汚れ仕事を押しつけられ、形勢が悪くなれば真っ先に切り捨てられる。北部の貴族たちは、自分たちが中央にとってその程度の存在でしかなかったのだと思い知らされた。
◇
「正式な処分状を、北部三領へ下しました」
王城の最奥。公爵の執務室で、側近が頭を下げた。
「そうか」
窓際に立っていたリヒテンブール公爵は、振り返ることもなく短く応じた。
「北部は強く反発するでしょうな」
側近が、少しだけ懸念を滲ませて付け加える。
「するだろうな」
公爵の口調は、ひどく淡々としていた。
「それでも、切りますか。北部の兵力と街道の維持は、王国の防衛線においても軽視できるものではありませんが」
「切るのではない」
公爵は窓の外、王都の街並みを見下ろしたまま言った。
「あれ以上、好きにさせんだけだ」
公爵にとって重要なのは、帝国の怒りを鎮めることではなかった。帝国が今すぐ軍を動かす名分を、一つでも減らすことだ。そのために北部の手足を縛った。
「……連中は、粗雑すぎる」
公爵は忌々しげに吐き捨てた。
「書類の意味も、あの境目の重さも読めず、抜いてはならん剣を平気で抜いた。帝国が敷いた条文と記録の罠に、自ら首を突っ込みおって」
公爵が振り返った。その目には、地方を束ねる領袖としての温情など欠片もなく、使い物にならなくなった道具を見るような冷酷な光だけが宿っていた。
「今の北部は、外へ向ける刃ではない。こちらの足を止めるだけだ」
側近は静かに息を呑んだ。
それは、王国の中枢が、地方の有力貴族をもはや同じ理屈で動く相手ではないと見切った瞬間だった。
「では、今後の北部は……」
「監視下に置け。権限を縛り、中央の代官に実務を握らせろ」
公爵は執務机に戻り、次の書類を引き寄せた。
「少なくとも、我らと同じ意思で動いていると思うな」
その一言を最後に、部屋の会話は途切れた。
中央は、北部をもはや抱え込むだけ損な厄介者と見なした。
まだ同じ王国の旗を掲げ、国号も同じままだ。だが、もう同じ理屈では動いていない。
王国という形は、まだ辛うじて保たれている。だが、その内側にはもう、元に戻らぬ亀裂が走っていた。
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