第163話 黒皇石と重さ
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帝都では、夜のうちに決まったことが、朝には書類になって各所へ回る。
そしてその時になって初めて、決定は本当の重さを持つ。
帝都ヴィンデルの朝。外務局から辺境軍、監察局、そして街道管理の部署へと、いくつもの通達が一斉に回された。
その文面に、宣戦布告めいた言葉は一つもない。並んでいるのは、ひたすら実務的な指示だけだった。
『黒皇石付近における武装接触は、いかなる場合も記録の対象とする』
『王国側の公印付き文書による接触は厳重に監視し、越境や威圧行動が確認された場合、協定違反の疑義として直ちに上申せよ』
「この文言で出します」
法務官が、まだインクの乾ききっていない書面を辺境軍付きの武官に手渡した。
「……疑義、ですか」
武官が片眉を上げる。軍の感覚からすれば、少しまどろっこしい表現だった。
「今ならまだ、それで足ります」
法務官は表情を変えずに応じた。
「次にあそこへ踏み込めば、もはや疑義では済まなくなりますから」
役人たちは、誰ひとりとして戦争だとは口にしていない。だが、書類に並んだ言葉の重みが、昨日までの街道沿いの小競り合いとはまったく違う段階に入ったことを無言で告げていた。
もう、地方の腹芸だけでは済まない。そういう変化は、じわじわと国境の向こうにも伝わっていく。
◇
「例の辺境の村ですが――」
王都の中央、公爵の執務室。
報告に訪れた側近の一人がそう口にした瞬間、書類に目を落としていたリヒテンブール公爵が、不快げにペンを置いた。
「その呼び方は、もうやめろ」
低く、押し殺したような声だった。側近が慌てて言葉を呑み込む。
短い沈黙の後、公爵は忌々しげに息を吐いた。
「辺境かどうかは問題じゃない。あの黒皇石の前で何をしたか、それがもう記録として残っているということだ」
王国のウルム村に対する対応は、もともと曖昧さの上に成り立っていた。
どこまでが本気の侵攻で、どこからが脅しにすぎないのか。誰の判断で動いたものなのか。
そうした境目をわざとぼかしたまま、貴族たちは都合よく使ってきたのだ。
「厄介なのは、石そのものではない」
公爵が、親指の爪を噛むようにして言った。
「どこまで踏み込んだかを、もう曖昧にできんことだ」
黒皇石が厄介なのは、その曖昧さを一切許さないところだった。
◇
そうして決まったことは、やがて現場の実務にそのまま降りてくる。
北部の街道沿いにある荷馬車の手配所では、これまでとは明らかに違う空気が漂っていた。
「悪いが、その荷は受けられん」
初老の御者が、差し出された依頼書と前金を、手の甲で押し返した。
「伯爵家からの正式な依頼だぞ。金が足りないというなら色をつけてもいい」
北部の貴族から派遣された使いの男が、声を荒らげる。
今までなら、この一言で相手は縮み上がり、慌てて馬車を出したはずだ。
だが、御者は首を縦に振らなかった。
「伯爵家からの依頼だから嫌なんだよ。あの黒い石の前で、また何か起きてみろ。こっちまで帝国の協定破りに巻き込まれる」
同じ頃、街の代書屋でも似たような光景が起きていた。
「連名文書の作成? 冗談じゃない」
書記の男が、使いの顔を見て鼻で笑った。
「今、それに名を連ねるのは高くつく。黒皇石の向こうで何かあれば、記録がそのまま帝国案件になるんだ。あんたらの首と道連れにされる筋合いはない」
御者、荷運び、書記、小商人。そうした現場の実務を担う者たちが、北部貴族の依頼を目に見えて渋り始めていた。どこに触れれば面倒が降りかかるか、その手の人間は察しが早い。
◇
「御者も商人も、以前ほど素直に動きません」
北部の小さな領館の一室。
強硬派の残党が集まるその部屋は、ひどく淀んだ空気に包まれていた。
「書記連中も仕事を嫌がっております。あの境界付近で何かあれば、すぐに帝国の法務が動く形になっていると、噂が回っているようでして……」
補佐官が、額の汗を拭いながら報告する。
以前なら、多少無理をしても押し通せた手が、今はすべて重くなっている。
黒皇石と協定があるせいで、雑に触るたび記録だけが増えていく。手を出せば出すほど、自分たちの立場が悪くなる。
バンッ!
誰かが、苛立ちに任せて机を強く叩いた。
「たかが辺境の村ひとつに、なぜ我らが、帝国の顔色まで見ねばならんのだ!」
怒声が部屋に響く。
吹き溜まり。寒村。難民の寄せ集め。そう呼んで見下すには、あの村はもう大きくなりすぎていた。
それが、彼らの苛立ちをさらに強めていた。見下していた相手を見下せなくなると、人は余計に腹を立てる。
「……もう、そのたかが村では済まんのです」
部屋の隅に座っていた男が、ひどく疲れた声でぽつりと返した。
その一言が、部屋の空気を決定的に冷やした。
彼らは何もできなくなった。
その屈辱と無力感は、やがて理屈よりも分かりやすい旗を欲しがる方へ流れていく。
それは、もう時間の問題だった。
◇
王国の人間たちが、身動きの取りにくさにじわじわと苛立ちを募らせている頃。
当のウルム村では、アシュランが広場から少し外れた空き地で、木製の杭を地面に打ち込んでいた。
「そこ、もう一メトル右だ。いや、そっちだと後で荷車の道とぶつかる」
アシュランが、水盛り管を持ったカインへ指示を飛ばす。
「このへんなら、まだ周りに何も建ててないのに?」
手伝いで板札を運んできたキドが、不思議そうに首をかしげた。
「だからこそだ」
アシュランは杭を打ち終え、額の汗を拭った。
「何もないうちに決めておかないと、後で必ず揉めるんだ。ここまでが学校の敷地だって、誰が見ても分かるようにしておかないとな」
「村でも国でも、やることは同じですね」
カインが、水盛り管の目盛りを確認しながら微かに笑った。
「同じだ。先に基準を置いておけば、あとが楽になる」
アシュランは面倒そうに肩を回し、小さくあくびをした。
「……そのために昼寝の時間を削ってんだから、無駄にするなよ」
後で揉める場所ほど、何もないうちに先に決めてしまう。
アシュランにとっては、学校の敷地を決めるのも、帝国との間に先に取り決めを置くのも、大して変わらない。
後で揉めないよう、先に決めておく。ただそれだけだ。
本人は昼寝の時間が削れるのを嫌がっているだけなのに、その理屈が村の形を決め、ついでに国まで縛っていた。
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