第159話 静観と誤差
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迎賓館の廊下。
クラウスが歩み寄る気配に、アシュランは足を止めた。
「市場、共同水場、工房の表側までは見せます。倉庫の奥、記録の置き場、迎賓館の管理区画には近づけません。導線はこちらで切りますが、それでよろしいでしょうか」
「あぁ。それで十分だ」
アシュランは面倒くさそうに首の後ろを掻いた。
「……いいんですか」
ロイルが低く挟む。
「今さら全部隠す方が不自然だ。見たいなら見せとけ。ただし、見せる順番も、歩かせる範囲も、こっちで決める」
方針はもう決まっていた。手は出さない。だが、好きにさせるつもりもない。見せていいところだけを見せ、肝心なところには届かせない。
それだけのことだ。だが、たぶんそれがいちばん面倒なやり方でもあった。
◇
市場は騒がしい。
人も荷も多く、あちこちで声が飛んでいる。荷車の軋む音、秤に重りを載せる音、木箱を下ろす鈍い音。そのどれもが一度に鳴っているのに、妙に耳障りではなかった。
薄茶の布を肩にかけた男は、商人のふりをして人波に紛れながら、うすく背筋の冷えるのを感じていた。
倉庫前には木札がいくつも下がり、荷を運ぶ者たちはそれをちらと見るだけで迷わず動いていく。いちいち誰かが叫ばなくても、人も荷もどこかで引っかかることがない。騒がしいのに、流れだけは妙によく揃っていた。
男は木札の一枚へ何気ない顔で歩み寄った。
文字を読めば、何か見えるかもしれない。そう思った次の瞬間だった。
「見るなら脇で見てくれ」
荷を担いだ若い男が、怒りもせずに言った。
「そこに立たれると、次が通れん」
咎める声ではない。ただ、当たり前のことを告げる声だった。だが、それだけで足が止まる。男は舌打ちを飲み込み、何食わぬ顔で半歩退いた。すぐ脇を、木箱を抱えた女と、荷札を手にした少年が擦れ違っていく。二人とも、男のことなどもう見ていない。
(あの札だ……)
札の文言まで読めれば、見え方も違うのかもしれない。だが、読めたところで、それだけですべてが分かるわけでもないだろうと男は思った。
あれは、ただ札が下がっているだけではない。
村の者が、その札をどう使うか揃って知っているからこそ意味を持つ。魔法でも権力でもない。ただの木札が、人と荷の流れを決めている。
市場の端から共同水場へ向かう途中、男は一度だけ足を止めた。
まず、臭いが違う。
人がこれだけ集まる場所なら、もっと湿った臭いがどこかに澱んでいてもおかしくない。だが、鼻に入ってくるのは清潔な水と石鹸の匂いばかりだった。足元はぬかるまず、使われた水も溝へ吸い込まれるように流れていく。
洗い桶を抱えた女たちは慣れた手つきで動き、子供たちまで順番を崩さない。
小さな子が空いた場所へ割り込もうとすると、近くの年嵩の女が桶の縁を軽く押し戻した。
「先に並んだ方からだよ。ほら、石鹸はこっち。すすぎはその先」
それだけで子供は口を尖らせながらも列の後ろへ戻る。怒鳴り声は上がらない。だが、誰一人として順番を疑わない。
すれ違いざま、仲間の一人が唇だけで囁いた。
「聖女の加護か?」
男は水場から目を離さずに返した。
「加護だけで、毎日こうは揃わんだろう」
聖女がいる、という話は聞いていた。だが、聖女が一人いるだけで、桶の置き場まで、石鹸の渡し方まで、子供の順番待ちまで、こうはならない。
そこにあるのは奇跡ではなく、もっと地味で、だからこそ厄介な何かだった。
さらに工房の方角へ回ると、熱と音が休みなく動いていた。
炉の火は一定に保たれ、煙はまっすぐ上へ抜けていく。運び込まれる資材も、どこにも山を作らず奥へ流れていった。持つ者、運ぶ者、受ける者が、勝手に噛み合っている。
何か一つが際立っているわけではない。
火も、煙も、人も、荷も、何か一つだけが妙なわけではない。
あれもこれもが、最初からそこへ収まるように動いている。そこがむしろ不気味だった。
男は、資材を積んだ荷車の後ろへ視線を流した。もう少し奥を見られればと思ったが、その時、荷を受け取っていた職人が無造作に顎をしゃくった。
「納品ならそっちだ。見物ならここまでにしとけ。中は今、手が離せん」
これもまた、怒気のない声だった。
だが、通してもらえない。突っぱねられたわけでもない。揉める余地すらない言い方で、男の足はそこで切られた。
視線を外へ逃がせば、村外れでは巨大な水車がゆっくりと回っている。
水を上げているのだとは分かる。だが、分かるのはそこまでだ。なぜそれで足りるのか。なぜあれだけの水が村じゅうへ回るのか。目に入っているはずなのに、肝心の仕組みだけがどうしても掴めない。
別の仲間が、忌々しげに吐き捨てた。
「賢者の魔導具か」
「聖女の奇跡も混じってるんだろう」
「どっちでもいい」
男は低く返した。
「これを、ただの村と思って手を出すな。見えてるものだけで判断したら、また同じことになる」
返事はなかった。だが、全員の顔に同じ冷や汗が浮いているのを、男は見た。
正体までは掴めない。
それでも、危ないという感触だけは、もう十分に揃っていた。
◇
夜。迎賓館の一室。
「連中、どうやら妙な手応えだけ掴んで帰りそうです」
クラウスが静かに報告を締めくくった。
アシュランは手元の書類から目を離さずに応じる。
「なら上出来だ」
「まあ……! 師匠、あの者たちに、しっかり不安を残したのですね!」
エレノアが目を輝かせたが、アシュランは呆れたように息を吐いた。
「違う。勝手にビビっただけだ」
「ですが、結果としては悪くありません」
部屋の隅で控えていたカインが、眼鏡を押し上げた。
「中身を掴ませず、厄介さだけは持ち帰らせたわけですから。分からないものほど、人は勝手に大きく見ます」
「それで余計な手出しが減るなら、なおいい」
密偵たちは、ウルムを見た。
だが、見えたものを理解したわけではない。
持ち帰るのは、半端な仮説と、拭いきれない違和感、それに、手を出せばろくなことにならないという感触だけだ。
それでよかった。
今のアシュランに要るのは、相手を理屈でねじ伏せることではない。正体を掴めぬまま、勝手に警戒して二の足を踏んでくれれば、それで十分だった。
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