第157話 青空と不足
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ウルム村の朝。
共同広場は、今日も朝早くから活気に満ちていた。
洗い場からは勢いよく水が跳ねる音がし、水汲み場では朝の支度をする女たちの快活な笑い声が飛び交っている。ドルガンの工房からは、カン、カンと心地よいリズムで金槌の音が響いてきた。
その村の生活音に負けないくらい騒がしいのが、広場の端に集まった青空教室の子供たちだった。
前からいる顔ぶれに混じって、最近は見慣れない子供もずいぶん増えた。 王都から避難してきて長屋へ入ったばかりの家族の子、新しく流れ着いてきた職人の子、まだ親の後ろに隠れたがるような小さな子供までいる。背の高さも、着ている服の質感も、見事にバラバラだ。
机も壁もない青空教室では、子供が増えたぶんだけ、一つの集団にはすぐ収まらなくなった。
板を置く場所を巡って小競り合いが起き、石筆や木炭の貸し借りで声が上がる。
村が大きくなり、人々の暮らしが根付き始めた証拠だった。だが、人が増えれば、これまでのやり方ではどうしても限界が見えてくる。
「よし、今日は実際に倉庫の札を見に行くぞ。どの箱をどこへ持っていくか、それが読めないと中で揉めるからな」
アシュランが騒ぐ子供たちの前に立ち、手製の木札を掲げて言った。 ただ文字の読み書きだけを教えていた頃とは違う。村の仕組みが整い始めた今、ここで教えることは村の機能や生活に直結していた。
だが、その言葉にカインが横から口を挟んだ。
「マスター、先に計算を教えた方がいいですよ。札の文字が読めても、箱の数が合っていなければどうにもなりませんから」
「おい、やることを増やすな」
「しかしマスター。倉庫の在庫管理において、数の正確さは絶対です。文字より先に――」
カインが眼鏡を押し上げながら譲らないのを見て、アシュランは面倒そうに頭を掻いた。
「……仕方ないな。だが、今日は倉庫の札の確認と、簡単な数合わせまでだ。いいか、難しいことはしないぞ」
そこへ、エレノアがにこやかに洗い立ての手ぬぐいを持って現れた。
「お二人とも、その前に大事なことがありますわ! さあ皆様、まずは手洗いの確認です! 石鹸をしっかり泡立てて、汚れた手で顔や目を触らないこと。これが一番の基本ですのよ」
三人が三様のことを言うものだから、並んだ子供たちはキョトンとしている。
小さな子は、文字や数字に入る前のどう手を洗うかでつまずき、少し大きい子は、そんなのもう知ってるよと、手持ち無沙汰に足元の石を蹴っている。下に合わせれば上が退屈し、上に合わせれば下がついてこない。
年齢も理解の速さも違いすぎて、もう皆まとめてでは教えきれなくなっていた。
◇
アシュランたちが全体を見渡し、このごちゃつきをどう整理するかと考えていた。
その間にも、キドは手元の板だけでなく、周りの様子にもよく目を配っていた。
倉庫の札の写しを逆さに持って、首をかしげている小さな子。
板を抱えたまま、どうしていいか分からず順番待ちの列で固まっている子。
小さな手で一本の木炭を取り合って、そろそろ泣きそうな顔をしている二人組。
そうした様子に、キドはいつの間にか目を走らせていた。
「それ、逆だって。ほら、こうだ。な?」
キドは逆さに札を持っている子の手元を、ぽん、と軽くひっくり返した。
「困ったことがあったら、ボーッとしてないで誰かに聞け。立ってるだけじゃ終わんねえぞ」
固まっている子の背中を軽く押し、木炭を取り合っている二人の間にはすっと手を入れた。
「いっぺんにやるなって。一本ずつでいいんだよ。お前が先。終わったら次こっちな」
理屈をこね回すわけでも、自分が正解を知っていると威張るわけでもない。ただ、自分の周りでもたついて流れが止まるのが嫌で、動いているだけだ。
それでも、こういう子供が一人いるだけで、止まりかけた流れは不思議とまたするすると動き出す。
アシュランは、手元の板に字を書きながら、その様子をちらりと見ていた。
カインも、子供たちに数を教えながらそれに気づいたようだ。
「……見ました? マスター」
「あぁ」
アシュランが短く応じると、カインは感心したように息を吐いた。
「理解が早い子はいますが、ああいうふうに周りを見て動ける子はそうそういませんよ」
横で聞いていたエレノアが、嬉しそうに両手を合わせた。
「まあ! キドにも、人々を教え導く才が芽生えたのですね! 素晴らしいですわ!」
「大げさだ。ただ、よく見てるだけだな」
アシュランが水を差すように言ったが、カインは首を振った。
「そのよく見ているが大切なんですよ。自分が分かるだけの子より、ずっと手がかからない。周りの流れが止まりそうになった時、自分で気づいて動けるんですから」
「……手がかからないなら、助かるな」
アシュランは、遠くで年少の子供の板を覗き込んでいるキドを見やった。
面倒ごとを嫌うアシュランにとって、手がかからず、自分が出なくても回るというのは、何よりの賛辞だった。魔法の素養や計算の才などより、よほど実用的な価値がある。
◇
授業が終わる頃には、広場のあちこちに板や木札が散らばっていた。
わいわいと騒ぎながら帰っていく子供たちを見送り、大人たちだけがその場に残って後片づけに追われていた。
人が増え、暮らしもようやく落ち着き始めた。それ自体は喜ばしいことだ。だが、そのぶん教える場所も手も足りなくなってきた。文字の読み書きだけなら青空の下でもなんとかなっただろう。だが、倉庫の札を読み、衛生の基本を覚え、記録の取り方まで身につけさせるとなると、年齢や理解度に応じた教え方がどうしても要る。
「もう、ここだけでは手狭ですわね」
散らばった木札を拾い集めながら、エレノアが言った。
「人数もそうですが、教えることが増えています。文字や計算だけ見ていればいい段階ではなくなりました」
カインも、重ねた板を叩いて埃を払いながら同意する。
アシュランは、木炭の粉で汚れた手を払いながら、深々と溜息をついた。
「……面倒だな」
「師匠!?」
エレノアが目を見開くが、アシュランは眉間にシワを寄せたままだ。
「面倒だが、放っておくともっと面倒になる。読み書きや計算でつまずく奴が増えれば、結局は俺たちの仕事が増えるんだ。今のうちにまとめた方が、あとが楽だ」
カインが、眼鏡の奥の目を光らせた。
「つまり、学舎が必要だと?」
「名前はなんでもいい。雨の日でもやれて、年ごとに分けられて、誰が何を教えるか決まってりゃそれでいいんだよ」
「まあ! 立派な学び舎ですわ! 子供たちが集い、知恵を育む場所……!」
エレノアがうっとりと両手を組む。
「だから名前はあとでいいって言ってるだろ」
アシュランはそう言い捨てて、ふと広場の端に目を向けた。
少し離れたところで、キドが年少組に板を重ねる向きを教えていた。
「違うって、裏っ返しに重ねたら炭がつくだろ。表同士を合わせるんだよ」
言われた小さな子供たちは、文句を言いながらもキドの言う通りに手を動かしている。
その様子を見て、アシュランは小さく息を吐いた。
青空の下で始めた教室は、もうそれだけでは足りなくなっていた。
「……そろそろ、ちゃんと作るか」
面倒くさげにこぼしたその一言が、ウルムの次の形を決めることになる。
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