第156話 査問と激高
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王都の中央にそびえる王城。その最奥にある執務室は、重苦しい静寂に支配されていた。
リヒテンブール公爵は、機嫌が悪いからといって、すぐに声を荒らげるような男ではない。むしろ逆だ。
公爵は今、机に肘もつかず、静かに手元の書類から目を上げないでいた。
その静けさが長引くほど、部屋の空気はじわじわと冷えていった。
分厚い絨毯の上に立つ側近は、報告書を手にしたまま、余計な言葉を差し挟まず、上がってきた事実だけを淡々と並べていく。
「北部貴族の三名は、村外からの接触を試みましたが、夜間の移送は果たせずに終わっております。その後は白昼、公印を掲げて踏み込みましたが、結局、一人も確保できぬまま退いたとのことです」
公爵は書類から目を上げなかった。
北部貴族のしでかしたことが一つずつ積み上がっていく。それでも公爵がぴくりとも動かないのが、かえって側に控える者たちには恐ろしかった。
「……それで?」
公爵が、机上の書類からゆっくり目を上げ、ひどく低い声で促した。
「現場には目撃者が多数。差し出した文書の写しも残っているようです」側近は一つ息を継ぎ、それから一番重い事実を口にした。「帝国側にも、確実に把握されているものと見てよろしいかと」
その時、机を叩く鈍い音が、室内に鋭く響いた。
「あの、考えなしの馬鹿共がッ!」
突然の怒声が、部屋の空気をびりびりと震わせる。
羽ペンが転がり、インク壺が小さく跳ねる。
公爵が忌々しげに立ち上がる。
「これでは、帝国に協定を持ち出されても文句が言えんではないか!」
問題は失敗したことではない。失敗するにしても、もっとやりようがあった。
北部の連中はそれを全部すっ飛ばして、帝国に介入させる口実だけ残して帰ってきたのだ。
「それで、北部の連中はどうした?」
公爵が血走った目で側近を睨みつける。
「はい。こちらに向かわせております」
「余計なことをしくさりおって……!」
公爵は苛立たしげに窓際へ歩き寄り、王都の街並みを見下ろした。
「すでに城に到着し、別室に控えております。いかがなさいますか」
公爵は振り返らずに、吐き捨てるように言った。
「通せ」
◇
呼び入れられたランデル伯爵、クレマン子爵、ボルドー男爵の三人は、揃って肩をすぼめるようにしていた。
昨夜までは、いや、この部屋の前に立つ直前までは、言い訳の余地がまだあると思っていたのだろう。文書の解釈を曲げれば、あるいは現場の護衛に責任を押し付ければ、と。
だが、公爵の前に立った途端、その見込みがどれほど甘かったかを嫌でも思い知らされることになった。
公爵の机の上には、すでに彼らの失態を詳細に記した報告書の束が並んでいた。こちらが口を開く前に、判断を下すための材料はすべて揃っている。そんな場で、何をどう取り繕えというのか。
ランデルがたまらず一歩前に出て、震える声で口を開いた。
「閣下、まずはお詫びを――」
「詫びなどいらん」
氷のような声が、その言葉をばっさりと切り捨てた。
公爵は椅子に深く腰掛けたまま、三人を這い回る虫でも見るような目で見下ろしている。
その一言で十分だった。三人の顔色が、目に見えて悪くなる。
クレマンが、すがるように横から口を挟んだ。
「我らも、まさかあそこまで事が大きくなるとは思わず――」
「分からなかったのか?」
公爵の目が、すっと細められた。
「これだけのことをやっておいて、分からなかっただと? ふざけるな!」
その一喝に、クレマンの肩がびくりと跳ねた。
ボルドーが、早口で弁明を試みる。
「あの書類は、あくまで体裁を整えるためのものでした。現場であのような使い方をされるとは、我々も予想だに――」
「黙れ」
公爵は短く切った。これ以上聞く価値もないと言わんばかりに。
「お前たちは揃いも揃って……」
公爵はそこで言葉を切り、深く、重い溜息を吐いた。
激しい怒りがふっと引いた。公爵は深く息を吐き、机の上の書類へ視線を落とした。その目はもう、怒りより先に損得勘定を始めていた。
「もう良い」
「ランデル伯爵、クレマン子爵、ボルドー男爵」
三人の名が、冷たい石室のような部屋に響く。
「今回の件については、改めて中央で調べを入れる。それまでは独自に動くな。いかなる名目であっても、だ」
三人が同時に息を呑む音が聞こえた。
「家名と領地がどうなるかは、調べの結果次第だ。それだけは覚えておけ」
公爵は手元の書類へ視線を戻し、彼らから完全に興味を失ったように言った。
「下がれ」
即刻処刑を言い渡されたわけでも、領地を召し上げられたわけでもない。だが、公爵の言葉は、その先をはっきり見せた。
ランデルの口が開いたが、声にはならなかった。
クレマンは完全に顔色を失い、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えている。
ボルドーは何か法的な理屈を言い返そうとして、しかし喉だけをひくつかせて黙り込んだ。
三人とも、ここへ来るまでの馬車の中で、最悪の事態をいくつも思い浮かべていたはずだった。それでもなお、弁明の一つも聞いてもらえぬまま「調べが終わるまで動くな」と縛られ、家名の行く末を宙吊りにされるところまでは、想像できていなかったのだ。
三人は、誰も口を開かないまま、礼もそこそこに部屋を出た。
扉が静かに閉まった。その背中を、公爵は見なかった。
◇
三人が退室し、重い扉が閉められた後も、部屋にはしばらく沈黙が続いた。
ただ単に、爵位を剥奪して切り捨てれば済むような話ではなかった。北部を切れば、北部は中央を恨み、王国内部にさらに深い亀裂が走る。だが、ここで彼らを切らずに庇えば、今度は帝国に王国ぐるみの越権と受け取られるだろう。もはや、どちらへ転んでも傷は残る。
公爵はその傷の深さを測るように、机上の書類を指先で静かに揃えた。問われているのは、もはやウルムをどうするかではない。王国中央がここからどう主導権を取り戻すかだった。
「北部は、これで沈黙するでしょうか」
側近の一人が、恐る恐る沈黙を破った。
「さあな。愚か者の考えることは分からんからな」
公爵は窓の外、遠く北の空へ目を向けた。
別の側近が一歩進み出る。
「今一度、体制を見直す必要がありますな」
「……分かっている」
公爵は低く応えた。
「だが、下手に動けば今度こそ帝国が口を挟んでくるやもしれん。派手に勝ちたがる馬鹿は多いが、その後まで考えられる者が少なすぎる」
窓辺に立つ公爵の背中に、夕暮れの光が赤く差し込んでいた。その背中は、強大な権力者というより、崩れかけたものを一人で支えている者のようにも見えた。
側近は少し間を置いてから、言った。
「使える駒は、まだ残っております」
公爵の視線が、ゆっくりと側近へと戻る。
「……あれのことか」
公爵の顔に、苦虫を噛み潰したような、ひどく嫌なものが浮かんだ。
だが、それを完全に否定することはしなかった。
北部を切ったところで、盤面が整うわけではない。汚れた手のまま、次の駒を選ぶしかなかった。
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