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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第11章 綻びと傾き

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第155話 召喚と沈黙

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

前夜の醜悪な怒鳴り合いと責任の押し付け合いが嘘のように、ランデル伯爵領の小領館には、ひどく冷たく淀んだ静寂が落ちていた。


夜明け前の薄暗い時間帯。館の使用人たちは息を潜め、廊下を歩く足音すら遠慮がちになっている。


昨日まで彼らを支配していた「どうやって言い逃れるか」という焦燥の熱は、一晩の間にすっかり冷え切っていた。後に残ったのは、どう足掻いても消せない証拠と、致命的な失態という現実の重さだけだ。


モリスは夜明け前から起きていた。


厨房で湯を受け取り、書類を一枚ずつ確認する。


整えた報告書の写し、内部向けの実情メモ、北部三領の連名が入った書類の控え。それらを順番に重ね、封をする。


そこに、蹄の音が響いた。


統率の取れた、無駄のない複数の馬の足音が、迷いなく館の前で止まる。


玄関の扉が叩かれ、夜勤明けの護衛が慌ただしく扉を開ける。


質の良い外套に、公爵家の紋章を刻んだ胸当て。ひと目で、ただの伝令ではないと分かる出で立ちだった。


伝令がランデルの前に歩みでる。


「ランデル伯爵閣下でいらっしゃいますか」


「そうだが」


使者は懐から、重厚な真紅の封蝋が押された書状を取り出す。


その紋章を見た伯爵の顔が、わずかに強張った。


「公爵閣下よりの書状にございます。拝読いたします」


使者はランデルの返答を待たず、書状を開いた。


「ランデル伯爵、クレマン子爵、ボルドー男爵、ならびに関係者は、速やかに王都へ出頭されたい。北部街道沿いにおける越権行為および対外関係悪化の疑義につき、事情を聴取する。」


たったそれだけ。補足もなく、弁明の余地も与えられなかった。


朝の凍てつく空気が、さらに冷え込んだように感じられた。



書状を受け取った館の主たちの反応は、昨夜とはまるで違っていた。


誰も、もう怒鳴らなかった。怒鳴る気力も、責任を押しつけ合う意味も、すでになくなっていた。


応接室のソファに深く沈み込んだランデル伯爵は、手元の書状の写しを見つめたまま、黙り込んでいる。


クレマン子爵は親指の爪を噛むように口元へ当て、ただ貧乏揺すりを繰り返していた。


ボルドー男爵は、どうすれば少しでも自分の責を軽くできるのか、法的な理屈を頭の中で必死に考えているようだった。だが、その目の焦点はどこにも合っていなかった。


出立の段取りは、すべてモリスが整えた。


「馬は三台。替え馬も用意しております。余計な荷は不要かと。今は、一刻でも早く着くことだけをお考えください。遅れれば、それだけ疑義を深めます」


モリスの声は平静だった。


その平静さが、昨夜まで怒鳴り合っていた空気よりも、かえって空恐ろしく感じられた。


馬車に乗り込む前、ボルドーが小声で言いかける。


「こういう場合、先に書面で……」


「出頭の召喚に書面で返すのは、拒否と取られかねません」


モリスはボルドーの言葉を遮り、短く言った。


ボルドーは口をつぐみ、そのまま馬車に向かった。


補佐官が護衛長へ身を寄せ、「何か申し開きがあるなら、道中で整理できる」と小声で囁いた。


護衛長は何も答えなかった。


「……出せ」


ランデル伯爵が、ひどく掠れた声でそう言った。



三台の豪奢な馬車が、土煙を上げて北部街道を南へ急ぐ。


だが、その車内は重苦しいほど静まり返っていた。


ランデル伯爵、クレマン子爵、ボルドー男爵が乗る先頭の馬車では、誰も口を開かなかった。いや、開けなかった、という方が正しいだろう。


軋む車輪の音と、馬の蹄の音だけが、やけに耳につく。


小さな咳払い一つでさえ、車内の空気をさらに張り詰めさせた。


ボルドー男爵が何かを言いかけたが、クレマン子爵が視線だけで制した。


ランデル伯爵は、ただ窓の外を流れていく景色を虚ろな目で見つめている。




休憩のために馬車が宿場に停車した時のことだ。


御者が宿場の馬番と替え馬の手配をしているそのすぐ傍らで、たむろしている行商人たちの声が、窓の隙間から容赦なく入り込んできた。


「王都へ向かう荷の買値が、また下がったらしいぞ」


「北からの品が滞ってるせいだ。関所の検問も混乱したままらしいからな」


「それより、ウルムの村だ。あそこを通せば、確実に取り引きが保証されるって噂だ」


「ああ。あそこはもう、ただの村じゃない。街道の要になってる」


「そりゃそうだ。ゴーレムまで出るらしいからな」


窓際に座っていたクレマンが、忌々しげに顔をしかめた。


だが、外の行商人たちが馬車の中の苛立ちに気付くはずもなく、無遠慮な会話は続いていた。


休憩のために馬を休ませるわずかな時間にも、そんな会話が容赦なく耳に突き刺さる。


王国の統治は、もう末端から綻び始めていた。


荷の流れは滞り、領主の命令札よりも、辺境の村が出す札のほうが人々に信用されている。


彼らがウルム村を押し潰そうと躍起になっているあいだにも、王国という骨組みには、すでにあちこちへ亀裂が走っていた。


そして、その亀裂をさらに広げたのが、他でもない彼ら自身の護送強行という愚行だった。


その現実が、車内の沈黙をいっそう重くしていた。



数日の強行軍の末、彼らを乗せた馬車は王都の中心、巨大な公爵府の外縁へと到着した。


だが、そこに彼らを歓迎する空気は一切なかった。


地方の有力貴族が王都へ赴けば、普通は相応の出迎えと、例え、形ばかりであったとしてもそれなりの接待が用意される。


しかし今回、馬車寄せに立っていたのは、感情の一切を排した実務的な下級官僚数名いるだけだった。


「お着きになりましたか。お疲れのところ恐縮ですが、時間がございません。こちらへ」


官僚は一礼もそこそこに、淡々と告げた。


そうして案内されたのは、公爵の執務室でも、豪奢な客間でもなく、公爵府の奥まった場所にある、窓の少ない石造りの待機室だった。


公爵府の奥まった場所にある、窓の少ない冷たい石造りの待機室だった。


装飾品は何一つなく、壁際に固い長椅子が並ぶだけの、ひどく無機質な空間だった。


「ここでお待ちください」


官僚はそれだけを言い残し、茶の一杯も出さずに重い木扉を閉めて去っていった。


取り残された彼らは、冷たい長椅子に腰を下ろすこともできず、ただその場に立ち尽くした。


これは相談でも、中央への報告でもなかった。


そもそも、自分たちに弁明の口が与えられるかどうかすら、まだ分からなかった。


自分たちが待たされているのは、どれほどの損害として扱うかが決まるのを待たされているからだった。


その場に立たされて、彼らはようやく悟った。自分たちはもう、状況を説明できる立場ですらない。首を落とされるのか、それとも別の形で切り捨てられるのか、ただそれを待つだけの側へ落ちたのだと。



重い扉の向こう、石造りの廊下から、ときおり慌ただしい足音が響いてきた。


「法務官の見解はどうなっている! 帝国が協定を持ち出してきた場合の想定問答は、想定問答はできているのか!」


「外務局から、黒鴉の動きが活発になっているとの報告です!」


「馬鹿を言うな、たかだか保護で、なぜ帝国の介入を招くのだ!」


扉越しに漏れ聞こえる実務者や法務官たちの鋭い声。


そこに、ランデル伯爵やクレマン子爵といった彼ら個人の名は、一度も上がらなかった。


飛び交っているのは、『帝国』『協定』『越権』――そんな、国家を揺るがしかねない言葉ばかりだった。


自分たちが地方で燻らせていたつもりの火種は、もう彼らの手の届かない場所で、国そのものを焼きかねない火へと変わっていた。


公爵の側近たちは、その火消しに追われて慌ただしく走り回っていた。


その大きな流れの中では、地方貴族である彼らの存在など、ちっぽけな炭の欠片程度の価値しかなかった。


ランデル伯爵が、震える手で顔を覆った。


もはや、地方で握り潰せる話ではなかった。


つい数日前まで、彼らは辺境の村を力で押し潰す側にいるつもりだった。権力と公印を振りかざせば、自分たちの思い通りに盤面を動かせると信じていた。


冷えた待機室の中で、彼らはただ、自分たちの足元から王国が崩れ始めている気配に、声もなく身を縮めることしかできなかった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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