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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第10章 名分と境界

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幕間10-2:観測と協定

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

風の強い夜だった。

帝国辺境寄りにある黒鴉の観測拠点は、一見するとただの古い宿屋にしか見えなかった。


裏口から、真っ黒な外套に身を包んだ男が音もなく滑り込んできた。現地での観測を終え、夜通し馬を飛ばしてきた黒鴉の一人だった。

男は無言のまま、油紙で厳重に包まれた記録の束を拠点の責任者へ差し出した。


数分後、その束は拠点の一室で机に向かっていたベアトリクスの手元へ届けられた。

彼女は黒い手袋を外すこともなく、手慣れた動作で封を切り、中身の書類を素早く、かつ正確に分類していく。


机の上には、現地の目撃記録、押収された文書の写し、王国北部強硬派の布陣、協定境界付近の位置関係、抜刀や護送具、荷馬車の確認記録、そしてスマートゴーレム投入の正確な時刻までが並んでいた。


書類を追う彼女の目に、余計な感情はなかった。少なくとも仕事中は、それで十分だった。



だが、書類を綺麗に並べ終えたところで、彼女の指先がピタリと止まった。


一枚だけ、現地観測員の書いた報告書の上下が逆になっていた。


「……あら」


ベアトリクスは小さく呟き、誰に見られているわけでもないのに、ほんのわずか気まずそうに書類の向きを直した。

次の瞬間には、何事もなかったように仕事の顔へ戻っている。


「ご苦労でした」

ベアトリクスは、控えていた部下へ視線を向けずに言った。

「報告は簡潔で結構です。主観や余計な形容は要りません」


彼女はそこで一度言葉を切り、綺麗に並べ直した書類の束をトントンと揃えた。


「……まあ、今回は愚かという余計な形容をつけたくなる気持ちは、痛いほど分かりますが」


ほんのわずかな皮肉。部下は声を出さずに深く頭を下げ、静かに部屋を退出した。



帝都ヴィンデル。


皇帝へ上奏する前夜、ベアトリクスは自室で一人、膨大な情報を突き合わせながら、ばらばらに見える事実の奥にある一つの事態の全体像をまとめ上げていた。



聖教国の干渉失敗。王国側による再登録要求。村外に設けられた相談所。夜間の移送未遂。そして、公印付きの護送隊による越権まがいの強行。


「偶然ではなさそうですね。」


ベアトリクスは、誰に聞かせるでもなく静かに結論づけた。


「保護だの再登録だのと、形は変えていますが、狙いはずっと同じですね」


彼女の指先が、地図上のウルム村を軽く叩く。


「住民と流通、その両方……」


あそこはもう、ただの難民の吹き溜まりや寒村では済まない場所になっている。

物資と人の流れが確実に集まり始めている。何より、そこには聖女エレノアがいて、賢者カインがいて、アシュランがいる。


王国北部から見て、自国のすぐ傍にあるその特異点を放置できないのは、政治的にも軍事的にも自然なことだった。


だが、自然だからといって、帝国と結んだ不可侵の約定を踏みにじる越権が許される道理はない。


ベアトリクスは、まとめ上げた報告の草稿をひとつに綴じた。


彼女は深く椅子に背中を預け、少しだけ肩の力を抜いた。


「本当に……段取りよく、悪手ばかり重ねてくれたものです」


誰もいない部屋に、呆れを含んだ小さな溜息が静かに落ちた。



翌日の午前。帝都ヴィンデル、皇帝の執務室。


「以上が、ウルム村周辺における王国側の動向です」


ベアトリクスは、一切の淀みなく報告を終えた。


「王国北部強硬派による越権行為が確認されております。公印および武装の使用、さらに協定境界付近における護送強行についても、これを裏づける記録と目撃情報が複数残存しております」


執務机の奥で、皇帝ヴァレリアンは組んだ手の上に顎を乗せ、静かに聞いていた。


その目にあったのは、他国への怒りではなかった。盤面全体を見渡す者の、冷えた興味だった。


「王国中央の正式命令とは、まだ断定できないのだな」


ヴァレリアンの低く響く声に、ベアトリクスは即座に頷いた。


「はい。連名にあるのは北部貴族のみです。ですが、公印を用いた重武装での越境未遂である以上、もはや王国内部の紛議や地方貴族の暴走として処理できる段階は過ぎております」


ヴァレリアンは薄く笑った。


「愚かだな。村一つを力で押し潰すつもりで、こちらが口を差し挟んでも反論できぬ形だけを、丁寧に残して帰ったか。目先の強行に気を取られ、後に残るものを見ていなかったのだろう」


「はい」


ベアトリクスは短く同意し、事実のみを付け加えた。

「ウルム村では、人の出入りも経緯も丁寧に押さえられています。加えて目撃者も多く、王国側が形式上の弁明のみで収めるのは極めて困難です」


ヴァレリアンは机の上の地図へ視線を落とした。


怒りに任せて軍を動かすような真似を、この皇帝は決してしない。動かすのは、感情ではなく、国家の利益と大義名分だ。


「まだ兵は越境させるな」


ヴァレリアンは冷徹に命じた。


「だが、辺境軍には準備をさせておけ。外務卿と法務卿にも話を通しておけ。次に王国側がもう一歩踏み越えた時、協定を盾にいつでも動けるよう整えておくのだ。黒鴉は引き続き監視を強化しろ」


「御意に」


ベアトリクスは深く頭を下げた。


帝国はまだ静観を崩していない。だが、その備えは確実に一段深くなった。


踵を返し、退出の扉へ手をかけたベアトリクスの背中に、ヴァレリアンの静かな声が降ってきた。


「それと、ベアトリクス」


「はっ」


「次は、報告書の三枚目を逆さに綴じたまま持ってくるな」


ベアトリクスの背中が、一瞬だけピクリと硬直した。

彼女はゆっくりと振り返り、ほんのわずかに目を瞬かせた。


「……大変、失礼いたしました」


鉄壁のプロフェッショナルが見せた、ほんの一瞬の綻び。皇帝はそれを見抜きながらも不問に付し、静かに手元の書類へ目を戻した。

ベアトリクスはもう一度深く頭を下げ、足音一つ立てずに執務室を後にした。



皇帝の命を受け、帝国の各所が静かに、だが急速に動き始めた。


外務局では、ウルム村との間に結ばれた『相互不可干渉協定』と『防衛協定』の条文が改めて洗われ、解釈の確認が夜を徹して進められていた。


法務官たちは、境界付近への他国の武装介入が国家間の盟約に反する越権行為であることを、一つずつ条文に照らして書面へ起こしていた。


辺境軍の実務者たちに下されたのは、連絡網の確保、監視体制の強化、そしていつでも動ける態勢の完成の三つの命だった。


帝国は兵を動かすより先に、文書と条文、そして制度を動かした。


感情で剣を抜いた王国強硬派とは対極に、帝国の歯車は冷徹に、そして論理的に動き始めていた。


黒鴉の拠点でも、観測地点をもう一段増やす手配が慌ただしく進められていた。

ベアトリクスは、次々と上がってくる報告書を捌き続け、息をつく暇もなかった。


「……あなた」


ベアトリクスは、書類を提出し、帰ろうとしていた部下を呼び止めた。


「はっ」


差し出された報告書を一瞥し、彼女は静かに言う。


「急ぐのは結構ですが、字まで急がせないでください。少々、解読が必要です」


「も、申し訳ありません!」


「次は気をつけること。……下がってよし」


軽く釘を刺すように言うと、ベアトリクスはすぐに別の書類の束へ目を落とし、何事もなかったように仕事へ戻った。



帝都ヴィンデルの夜は深い。


執務室の窓辺に立ったベアトリクスは、冷たい夜風に当たりながら、次に下す命令と状況を静かに頭の中で整理していた。


王都へ向かった急報の行方を追う。

北部強硬派の内部の動きと責任逃れを拾う。

ウルム周辺の監視は最高警戒のまま続ける。

王国中央、とりわけ公爵がどう出るかを見極める。


やるべきことは山積みだった。


ベアトリクスは小さく息を吐き、誰も見ていない窓ガラスの前で、ほんの数秒だけ肩の力を抜いた。


「……書類の上下、気をつけませんと」


誰にも聞こえない独り言を呟き、彼女は小さく首を振った。


そしてきびすを返し、再び机の上に積み上げられた情報の山へと向き直る。

その顔にはもう、先ほどまでの綻びはなかった。


帝国は、まだ表立っては動いていなかった。

王国領へ兵を踏み入れたわけでもなく、正式な抗議の使者を送ったわけでもない。


だが、境界の向こうで次に何が起きても、即座に動けるだけの大義名分となる理由と実務的な準備は、既に揃いつつあった。


王国北部の拙速な強行は、帝国をもはやただ静観しているだけでは済ませられない位置へ押し出しつつあった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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