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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第10章 名分と境界

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幕間10-1:敗走と責任

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

夕暮れが迫る、北部街道沿いの宿場町。

ランデル伯爵領に近いこの中継地に、疲れと重苦しさを引きずるような一団が流れ込んできた。


出立時の威勢の良さは、もはや見る影もなかった。

街道警護や私兵たちの顔には、濃い疲労と抑えきれない苛立ちが張りついている。

額に巻いた布へ血を滲ませた者、足を引きずる者、折れた剣の鞘を握りしめたままの者もいた。


彼らの後ろには、数台の荷馬車が続いている。

だが、荷台は空のままだった。人を縛るための太い縄や手枷といった護送具だけが、一度も使われぬまま無造作に転がっていた。

誇らしげに掲げていた「王国民保護相談所」の看板は、荷馬車の隅でみすぼらしく揺れていた。


宿場の男は何も言わなかった。ただ目を逸らし、何事もなかったように荷を数え直し始めた。

その仕草だけで、十分すぎるほどだった。


補佐官は苛立たしげに爪を噛み、護衛長は兜を目深にかぶったまま、不機嫌そうに黙り込んでいた。近隣領から連れてきた現場指揮役も、馬上で憮然とした顔を崩さず、誰とも視線を合わせようとしなかった。


彼らにあるのは、もはや敗北の悔しさではなかった。

この無様な結果を、上にどう言い訳するか。ただ、それだけだった。



数時間後。ランデル伯爵領の小領館、執務室。


「戻りました」

補佐官が重い足取りで部屋に入った。背後には護衛長が続いている。

執務机の奥にはランデル伯爵が座り、その斜め後ろに家令のモリスが静かに控えていた。


モリスは感情を表に出さぬまま、淡々と第一報を確かめ始めた。

「対象者を確保できましたか」


「……できていません」

補佐官が目を逸らす。


「文書は提示しましたか」


「はい」


「公印は使いましたか」


「……使っ…い、ました」


「荷馬車は出しましたか」


「出し、ました」


「護送具は積んでいましたか」


「はい」


モリスの問いが、一つずつ逃げ道を塞いでいく。

「抜刀はありましたか」


「……」

補佐官が沈黙する。


「抜刀はありましたか」


「護衛長が、やむを得ず……」


モリスは手元の羊皮紙にペンを走らせ、最後に一番重い問いを投げた。

「目撃者は」


「村人が……大勢いた…」


「書類は相手に記録されましたか」


「……一部は、記録された……と、思う」


補佐官の顔色が悪くなった。

「目撃者は多数いた。……差し出した文書の文言も…」


モリスはそこで初めて、手元の羊皮紙を机に置いた。


執務室に、重く冷たい沈黙が落ちた。

モリスがペンを置き、静かに総括した。


「つまり、王国民保護の名目で、公印を掲げ、武装して押し込み、一人も確保できず、数え切れない証拠だけを先方へ残して逃げ帰ってきた――そういう理解でよろしいですな」


補佐官は口を引き結んだ。反論したかったが、すべて事実である以上、言葉が出なかった。


「ふざけるなッ!!」

ランデル伯爵が立ち上がり、執務机を激しく叩いた。

「たかが辺境の村一つに、何たる無様か! お前たちは私の名を、北部貴族の連名を泥で塗りつぶしたのだぞ!」


伯爵の顔は朱に染まっていた。

だが、その怒りは正義感でも、領民を想ってのものでもない。


「公爵閣下の耳に入ったらどうなると思っている! 王都への報告はどうする! 誰の名で動かしたと思っているのだ!」


面子。そして、自分の首への危機感。

ランデルの怒りの根っこは、結局そこにあった。



翌日。ランデル伯爵領の小領館に、急遽早馬を飛ばしてきた者たちが集まった。

クレマン子爵、ボルドー男爵、そしてランデル伯爵。補佐官と護衛長もその場に引き出されている。

北部強硬派の緊急会合だった。


だが、そこにあったのは前向きな対策会議ではなかった。みっともない責任の押し付け合いだった。


「私は、正式な体裁を整えるために文面を用意しただけです」

ボルドー男爵が、冷たい声で口火を切った。彼は自分の作った文書が証拠として村に押さえられたことに、内心ひどく焦っていた。

「現場で愚かな使い方をして、力ずくで押し入ろうとしたのはそちらでしょう。文書にはそんな指示は書いていない」


補佐官が顔を上げる。

「現場の状況は刻一刻と変わるのです! そもそも、公印付きの文書を用意し、これで押し通せと背中を押したのは皆様ではないですか!」


「問題は、荷の流れが止まったことだ」

クレマン子爵は、苛立ちを隠そうともせずに言った。

「だから急げとは言った。だが、荷馬車に縄や手枷まで積んで、まるで奴隷狩りのように振る舞えなどとは一言も言っておらんぞ」


「結果として、こちらの連名で武装して押し込み、一人も取れずに帰ったのだ!」

ランデル伯爵が怒鳴る。

「挙句の果てに、ゴーレムまで出されて尻尾を巻いて逃げ帰るとは! 現場の指揮はどうなっていたのだ!」


護衛長が一歩前に出た。

「あの村が想定以上だったのです。素人同然の自警団が、血を流しても道を譲らなかった。それに、あのゴーレム……あれは異常です。我々の手勢だけでは——」


「言い訳など聞きたくない!」


怒声が交錯し、誰もが自分だけの責任ではないと言い立てる。

つい昨日までウルムを見下し、力で押し切れると思っていた連中が、今は足元ばかり見て責任をなすりつけ合っていた。


「お待ちください」


議論の外に立っていたモリスが、静かに、だがよく通る声でその場を制した。

全員の視線が家令に向く。


「今さら、誰がどこまで言ったかを連ねても意味はありません」

モリスは感情を交えず、事実だけを机上に並べるように告げた。

「皆様の連名で動き、失敗した。その事実は消せません」


全員が沈黙した。

一番痛い現実を突きつけられ、もはや誰のせいにする余裕すら彼らには残されていなかった。



会合の後。

ボルドー男爵とモリス、そして数名の書記官が、薄暗い部屋で報告書の作成に追われていた。


机の上には、二種類の書類が並んでいる。


一つ目は、王都の中央、すなわち公爵へ提出するための体裁を整えた報告書だった。

そこには、こう記されている。


『地方における保護対象者との接触に際し、小規模な混乱が発生』

『村側の過剰反応により、一時的な衝突へ発展』

『詳細については、現在確認中』


護送も抜刀も公印も荷馬車も、都合の悪い言葉はことごとく削られ、ただの小さな行き違いだったように書き換えられていた。


だが、二つ目の書類――北部内部で回すための実情を記したメモには、ごまかしようのない現実だけが箇条書きで記されていた。


『目撃者多数』

『公印付き文書の写しを押収される』

『住民の引き渡しを強要』

『護衛による抜刀および身体接触』

『護送具の持ち込み』

『スマートゴーレム投入』


ボルドー男爵が、疲れた顔で二つの書類を見比べる。

「……これで、王都の目は誤魔化せるか」


モリスは淡々と答えた。

「王都向けなら、いくらでも薄められます。第一報としては、これで通るでしょう」

モリスはインク壺の蓋を閉めた。

「ですが、向こうに確かな記録と証拠が残っている以上、いずれ照合されるでしょう」


ボルドー男爵の手が止まった。


「隠せるのは、この最初の一報だけです」

モリスの冷ややかな宣告に、ボルドー男爵は沈黙し、ただ自分の指先を見つめることしかできなかった。



その夜。

一騎の急使が、王都へ向けて小領館を出立した。

馬の背の鞄には、厳重に封を施した報告書が収められている。


どこへ届くのか、宛名を見るまでもない。

今この国の実権を握る公爵のもとへ、それは真っ直ぐ運ばれていく。


ランデル伯爵は執務室の窓から、遠ざかる蹄の音に耳を澄ましながら、冷や汗を拭っていた。

今夜はとても眠れそうになかった。


補佐官は自室にこもり、もし事態が悪化した時に自分だけは責任を逃れられないかと、見苦しい理屈を羊皮紙に書き連ねていた。


そしてモリスだけが、月明かりの下で冷徹に悟っていた。

王都へ送ったあの一報が、時間差で必ず自分たちを追い詰めることになると。


急使の背を見送る者たちは、誰一人として口を開かなかった。

もはや、地方の貴族や官僚が内々に握り潰せる話ではない。

本来なら地方で揉み消せたはずの話を、彼らは自らの手で中央案件へと押し上げてしまったのだ。


次に動くのは、もっと上だ。

街道の闇の中へ、急使の馬蹄の音が遠ざかっていった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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