第154話 余波と防壁
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朝の治療小屋。血と薬草の匂いは薄れていたが、昨日の騒ぎの名残はまだそこにあった。
額を割った若い団員、打撲で肩の上がらない者、浅い裂傷を負った者。自警団員たちが順に手当てを受けている。
エレノアは手際よく傷口を洗い、布を替えていった。浅い傷は、そのまま包帯を替えるだけで済ませた。
「エレノア様、治癒魔法は使ってくれないんですか……?」
額を縫われた団員が、少し情けない声で聞いた。
「免疫? 抵抗? んーっと……とにかく、ご自身で治ろうとする力が鈍るって、師匠が言ってましたわ」
「そ、そんなもんですか……」
「そんなものですわ。ですから、これくらいの手当てで十分ですの」
エレノアは隣に移り、腕を深く裂かれた団員の傷口を覗き込んだ。
「あら、あなたは駄目ですわね。これは魔法で治した方が早いですわ」
エレノアが手をかざすと、淡い光が傷を瞬時に塞いだ。
「えっ、ずるくないですか、エレノア様!」
額を割った団員が声を上げる。
「四の五の言いませんの。怪我の深さが違いますわ」
エレノアは得意げに胸を張った。
部屋の入り口に立っていたロイルが、口を開いた。
「立てるか」
全員の視線が向く。
「痛ぇなら痛ぇって言え。昨日のことより、今日の身体の方が大事だ」
団員たちは黙って頷いた。張り詰めていた顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
彼らの傷が、昨日の刃が脅しだけでは済まなかったことを、何より雄弁に物語っていた。
◇
治療小屋の外、広場の端。
ロイルは、手当てを終えて動ける団員たちを集めた。
団員たちの顔には、まだ昨日の恐怖が残っていた。足が止まりかけたことも、持ち場を離れなかったことも、誰も忘れていない。
「よく崩れなかった」
ロイルはそれだけを短く口にした。殊更に褒め立てるつもりはなかった。
「怖ぇのは当たり前だ。次はまず声を出せ。あの場を守れたのは、お前らが踏ん張ったからだ」
若い団員の一人が、少し照れたように、それでも目を逸らさずに言った。
「次は、もっと上手く立ちます」
「そうしろ」
ロイルは表情を変えずに返した。
「昨日より少しでも前に進めてるなら、それで十分だ」
彼らは、まだ未熟だ。だが、怖さを抱えたまま持ち場に立つことだけは、昨日ひとつ覚えた。
◇
管理窓口には、朝から人が並んでいた。
「王国からの書類は、もう来ないんでしょうか」
「街道へ荷を出す商人は、これからどうすればいいんですか」
「村境に近づくときは、どうすれば……」
「名指しされた職人班は、この先どうなるんですか」
ロッテは一つずつ記録を取り、必要なものは世話役へ回し、判断を要するものはカインへ繋いだ。曖昧なまま置いておくことはしなかった。
列が途切れた時、元職人の男が家族を連れて窓口の前に立った。
男は深く頭を下げた。
「俺のせいで、村を危険に巻き込んだ。本当に、申し訳ない」
男が謝罪と礼を続けようとしたのを、ロッテは静かに遮った。
「謝るより、これからは必ず窓口を通してください。それだけ守っていただければ十分ですから」
男が顔を上げる。
ロッテは少し間を置いて、続けた。
「もし、まだ村に残られるのであれば、ここで暮らすための手続きを整えましょう」
男の妻が、堪えきれないように口を開いた。
「逃げるつもりじゃなかったんです。ただ、家族と仕事を失うのが怖くて……」
「分かっていますよ」
ロッテは真っ直ぐに彼女の目を見た。
「だからこそ、次は一人で決めないでくださいね」
◇
迎賓館の小部屋の机には、押収書類、聞き取り書、街道図、夜間記録、目撃証言が順に並べられていた。
カインはそれらに目を通しながら、内容を整理していた。
「北部強硬派の独断と見て差し支えないでしょう」
カインは眼鏡を押し上げ、淡々と告げた。
「王都中央の正式な命令ではないはずです。ですが、公印を使い、重武装の護送隊まで動かした以上、もはや地方の独断では済みません。この件は、いずれ必ず中央の耳に入ります」
ギードが腕を組んで深く息を吐いた。
「村の連中は怖かったじゃろうな。じゃが、自警団が村を守り切ることも知った。村が一段、締まったな」
俺は肩をすくめた。
「静かに暮らしたいだけなんだがな。どうしてこう、面倒ばかり寄ってくるんだ」
カインが真顔で返す。
「マスターが静かに暮らしたがる時ほど、だいたい大きなことが起きますね」
ギードが鼻で笑った。部屋の空気が少しだけ緩んだ。
俺は机の上の書類を見下ろした。
「以前のウルムなら、もっともらしい理屈をつけられて、押し切られていたかもしれない。だが、今は違う」
俺は目を細めた。
「ここまで積み上げたものを、そう簡単に渡すわけにはいかないからな」
◇
昼の広場。
昨日までの張り詰めた空気が、少しずつ緩み始めていた。
子供たちは、また元気に走り回り始めていた。
女たちは長屋の裏で洗濯物を干し、商人は荷車のそばで積荷を数えている。
元職人の家族も、昨夜よりはいくらか落ち着いた顔で、配給の列に並んでいた。
エレノアが水場の近くを歩いていると、何人かの村人が頭を下げて通り過ぎる。
「ありがとうございます、エレノア様」
「礼より、ちゃんと食べて休んでくださいまし」
エレノアは微笑んで返す。
ふと、エレノアは立ち止まり、空を見上げた。隣を浮遊していたリナが、不思議そうに首を傾げる。
「昨日より、精霊たちも落ち着いてますわね」
エレノアが小さく呟いた。
「うん。昨日、ピリピリしてた。今日はすこし、ぽかぽか」
リナが同意するようにふわりと回る。
「でも、エレノア、まだちょっと重い」
「分かっていますわ」
エレノアは少しだけ苦く笑った。
「でも、昨日よりはましですの」
◇
夕方。
俺は迎賓館のバルコニーから村を見ながら、コーヒーを一口飲む。
煙は細く空へ昇り、遠くでは水場の音が響いている。その向こうから、子供たちの声が聞こえてきた。
ロッテとロイルが、少し遅れてバルコニーへ上がってきた。
三人で村を見ていた。しばらく誰も何も言わなかった。
ロイルが最初に口を開いた。
「今度はもっと上手くやります」
俺は短く息を吐いた。
「次が来ないのが一番なんだがな」
ロッテが少しだけ柔らかい声で言った。
「それでも、来た時は対処できますよ」
俺は黙って村を見た。
もうここは、ただの難民の吹き溜まりではない。
守る者がいて、支える者がいる。窓口も、自警団も、世話役も、それぞれの持ち場を崩さなかった。
しかし、街道の先には、重武装の護送隊が残した深い轍がまだ消えずに残っている。
村境の見張りも、まだ解かれてはいない。
戻りつつある静けさの上に、まだ見えない影だけが薄く差していた。
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