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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第10章 名分と境界

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第154話 余波と防壁

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

朝の治療小屋。血と薬草の匂いは薄れていたが、昨日の騒ぎの名残はまだそこにあった。


額を割った若い団員、打撲で肩の上がらない者、浅い裂傷を負った者。自警団員たちが順に手当てを受けている。


エレノアは手際よく傷口を洗い、布を替えていった。浅い傷は、そのまま包帯を替えるだけで済ませた。


「エレノア様、治癒魔法は使ってくれないんですか……?」

額を縫われた団員が、少し情けない声で聞いた。


「免疫? 抵抗? んーっと……とにかく、ご自身で治ろうとする力が鈍るって、師匠が言ってましたわ」


「そ、そんなもんですか……」


「そんなものですわ。ですから、これくらいの手当てで十分ですの」


エレノアは隣に移り、腕を深く裂かれた団員の傷口を覗き込んだ。

「あら、あなたは駄目ですわね。これは魔法で治した方が早いですわ」


エレノアが手をかざすと、淡い光が傷を瞬時に塞いだ。


「えっ、ずるくないですか、エレノア様!」

額を割った団員が声を上げる。


「四の五の言いませんの。怪我の深さが違いますわ」

エレノアは得意げに胸を張った。


部屋の入り口に立っていたロイルが、口を開いた。

「立てるか」

全員の視線が向く。


「痛ぇなら痛ぇって言え。昨日のことより、今日の身体の方が大事だ」

団員たちは黙って頷いた。張り詰めていた顔が、ほんの少しだけ緩んだ。


彼らの傷が、昨日の刃が脅しだけでは済まなかったことを、何より雄弁に物語っていた。



治療小屋の外、広場の端。

ロイルは、手当てを終えて動ける団員たちを集めた。


団員たちの顔には、まだ昨日の恐怖が残っていた。足が止まりかけたことも、持ち場を離れなかったことも、誰も忘れていない。


「よく崩れなかった」

ロイルはそれだけを短く口にした。殊更に褒め立てるつもりはなかった。


「怖ぇのは当たり前だ。次はまず声を出せ。あの場を守れたのは、お前らが踏ん張ったからだ」


若い団員の一人が、少し照れたように、それでも目を逸らさずに言った。

「次は、もっと上手く立ちます」


「そうしろ」

ロイルは表情を変えずに返した。

「昨日より少しでも前に進めてるなら、それで十分だ」


彼らは、まだ未熟だ。だが、怖さを抱えたまま持ち場に立つことだけは、昨日ひとつ覚えた。



管理窓口には、朝から人が並んでいた。


「王国からの書類は、もう来ないんでしょうか」


「街道へ荷を出す商人は、これからどうすればいいんですか」


「村境に近づくときは、どうすれば……」


「名指しされた職人班は、この先どうなるんですか」


ロッテは一つずつ記録を取り、必要なものは世話役へ回し、判断を要するものはカインへ繋いだ。曖昧なまま置いておくことはしなかった。


列が途切れた時、元職人の男が家族を連れて窓口の前に立った。

男は深く頭を下げた。

「俺のせいで、村を危険に巻き込んだ。本当に、申し訳ない」


男が謝罪と礼を続けようとしたのを、ロッテは静かに遮った。

「謝るより、これからは必ず窓口を通してください。それだけ守っていただければ十分ですから」


男が顔を上げる。

ロッテは少し間を置いて、続けた。

「もし、まだ村に残られるのであれば、ここで暮らすための手続きを整えましょう」


男の妻が、堪えきれないように口を開いた。

「逃げるつもりじゃなかったんです。ただ、家族と仕事を失うのが怖くて……」


「分かっていますよ」

ロッテは真っ直ぐに彼女の目を見た。

「だからこそ、次は一人で決めないでくださいね」



迎賓館の小部屋の机には、押収書類、聞き取り書、街道図、夜間記録、目撃証言が順に並べられていた。

カインはそれらに目を通しながら、内容を整理していた。


「北部強硬派の独断と見て差し支えないでしょう」

カインは眼鏡を押し上げ、淡々と告げた。

「王都中央の正式な命令ではないはずです。ですが、公印を使い、重武装の護送隊まで動かした以上、もはや地方の独断では済みません。この件は、いずれ必ず中央の耳に入ります」


ギードが腕を組んで深く息を吐いた。

「村の連中は怖かったじゃろうな。じゃが、自警団が村を守り切ることも知った。村が一段、締まったな」


俺は肩をすくめた。

「静かに暮らしたいだけなんだがな。どうしてこう、面倒ばかり寄ってくるんだ」


カインが真顔で返す。

「マスターが静かに暮らしたがる時ほど、だいたい大きなことが起きますね」


ギードが鼻で笑った。部屋の空気が少しだけ緩んだ。

俺は机の上の書類を見下ろした。


「以前のウルムなら、もっともらしい理屈をつけられて、押し切られていたかもしれない。だが、今は違う」

俺は目を細めた。

「ここまで積み上げたものを、そう簡単に渡すわけにはいかないからな」



昼の広場。

昨日までの張り詰めた空気が、少しずつ緩み始めていた。


子供たちは、また元気に走り回り始めていた。

女たちは長屋の裏で洗濯物を干し、商人は荷車のそばで積荷を数えている。

元職人の家族も、昨夜よりはいくらか落ち着いた顔で、配給の列に並んでいた。


エレノアが水場の近くを歩いていると、何人かの村人が頭を下げて通り過ぎる。

「ありがとうございます、エレノア様」

「礼より、ちゃんと食べて休んでくださいまし」

エレノアは微笑んで返す。


ふと、エレノアは立ち止まり、空を見上げた。隣を浮遊していたリナが、不思議そうに首を傾げる。

「昨日より、精霊たちも落ち着いてますわね」

エレノアが小さく呟いた。


「うん。昨日、ピリピリしてた。今日はすこし、ぽかぽか」

リナが同意するようにふわりと回る。


「でも、エレノア、まだちょっと重い」


「分かっていますわ」

エレノアは少しだけ苦く笑った。


「でも、昨日よりはましですの」



夕方。

俺は迎賓館のバルコニーから村を見ながら、コーヒーを一口飲む。

煙は細く空へ昇り、遠くでは水場の音が響いている。その向こうから、子供たちの声が聞こえてきた。


ロッテとロイルが、少し遅れてバルコニーへ上がってきた。


三人で村を見ていた。しばらく誰も何も言わなかった。


ロイルが最初に口を開いた。

「今度はもっと上手くやります」


俺は短く息を吐いた。

「次が来ないのが一番なんだがな」


ロッテが少しだけ柔らかい声で言った。

「それでも、来た時は対処できますよ」


俺は黙って村を見た。


もうここは、ただの難民の吹き溜まりではない。

守る者がいて、支える者がいる。窓口も、自警団も、世話役も、それぞれの持ち場を崩さなかった。


しかし、街道の先には、重武装の護送隊が残した深い轍がまだ消えずに残っている。

村境の見張りも、まだ解かれてはいない。


戻りつつある静けさの上に、まだ見えない影だけが薄く差していた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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