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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第10章 名分と境界

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第152話 急使と前触れ

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

まだ薄暗い北部街道筋の宿場町。

静寂を破って、蹄の音が石畳を荒々しく打った。


半ばまでしか開いていない関所の門へ、一騎の馬が泥を跳ね上げながら駆け込んできた。馬は白い泡を吹き、乗り手の外套は夜露と土埃にまみれて、ひどく汚れていた。

ウルム村の客舎から夜通し馬を飛ばしてきた、補佐官の配下である後方要員の一人だった。


男は馬から転げ落ちるように降りると、関所の詰所へ駆け込み、当直の役人へ封蝋付きの書状を突きつけた。

「急使だ。関所の責任者を出せ」

男は懐から封蝋付きの書状を引き抜いた。


番所の責任者が渋々出てきて受け取り、蝋を割って中身を読んだ。


王国民保護を名目とした追加人員の要請。街道警護の経験があり、腕の立つ者と荷馬車要員を至急回せ。王都の正式な照会は待つな。これは北部の名のある方々による共同判断である。


責任者は書状をひっくり返し、裏を確認した。

裏書きに並ぶのは、この地を実質的に動かしている北部貴族たちの名だった。一介の宿場役人に無視できるものではない。


「しかし、何か妙だな」

責任者は呟いたが、その呟きは誰にも拾われなかった。


「北部貴族の連名による至急案件だ。速やかに処理しろ、との命だ」


「……承知いたしました。街道警護の詰所と、関係する領館へ急ぎ回します」


王都の中央が知らぬところで、強硬派の独断による実力行使の準備が、静かに、だが恐ろしい速さで始まっていた。



場面は変わり、ランデル伯爵領の小領館。

家令のモリスが、早朝から執務室の扉を叩いた。


「旦那様。ウルム村方面より、私的な急使が参りました」


窓辺に立っていたランデル伯爵が、忌々しげに振り返る。

「保護移送の件か。結果はどうなった」


「昨夜の件は未遂に終わったとのことです。村の自警団の妨害を受け、実行は難航。……至急、追加人員と護衛、ならびに荷馬車を求む、とのことです」


ランデルは舌打ちをし、書状を机に放り投げた。

「たかが難民の寄り合い所に、正規の護衛が後れを取ったというのか。王都からの返答はまだ来ていないのか」


「来ておりません。急報が届き、中央が判断を下すにはまだ日数がかかります」

モリスは冷静に事実だけを告げた。

「ですが、ここで手を引けば、越権の記録だけが残ります。一件も通せなかった、という結果だけが、……あちらの補佐官は、それを何より恐れているのでしょう」


「なら、どうする」


「先に既成事実を作った方が勝ちです」


モリスの冷徹な進言に、ランデルは目を細めた。


正式な軍は動かせない。王都の許可が下りていない。だが、近場の私兵なら話は別だ。街道警護は平時から動かしている。宿場に詰めている荒事向きの連中に声をかければ、二日もあれば頭数は揃う。荷馬車と御者も、伯爵家の持ち分から出せる。


ランデルは椅子から腰を浮かせ、低い声で命じた。

「私兵と街道警護の腕利きをかき集めろ。宿場にいる荒事慣れした連中も、金で動かせ」

モリスは一礼し、その場で必要な手配を頭の中で組み始めた。


「王都の公爵閣下が動くのを待っていては、我が領の人も物資も吸い上げられるだけだ。ここは我々の手で片を付ける」


クレマン子爵領でも同様の動きが起きていた。

ボルドー男爵は、あくまで正式に見える封蝋付き文書の文面を急いで整えた。


王都の返答を待っていては遅い。

だからこそ、近場の戦力で先に既成事実を作る。強硬派は最初から、そのつもりだった。



同じ日の朝。ウルム村の客舎。

バートンは机に向かい、本国へ送るための公式な報告書を口述していた。


「……相談所周辺において、偶発的な衝突が発生した。保護希望者との接触に際し、現場に一部誤解が生じ——」


「荷馬車についてはいかがなさいますか。」


「記載しない」


「では、裏の導線については?」


「相談所周辺の移動として処理する」


「抜刀は……」


「一部護衛の過剰反応と記せ」


書記官は冷静に指摘した。

「荷馬車、裏の導線、夜明け前の接触、抜刀――そのうえ、彼らが差し出した書類の文言まで、すべて村側に記録され、証拠として押さえられています。完全に揉み消すのは不可能です」


「分かっている。正直に報告すれば、王国側の明白な越権行為として私が責任を問われる」

バートンは重く息を吐いた。

「今は、事を小さく見せて時間を稼ぐしかない」


報告書を書き上げた書記官が、静かに問いかけた。

「これで通るでしょうか」


バートンは書き上がった報告書を見下ろした。

「通さなければならんな」


ふと、バートンは窓の外を見た。朝から補佐官と護衛長の姿が見えない。


「……連中、どこへ行った」


「昨夜から姿が見えません。馬の口取りをしていた後方要員も、何人かいなくなっているようです」

書記官は淡々と答えた。


バートンは目を細めた。

部下たちが自分の指示を超え、別筋で何かを動かそうとしていることに薄々感づいていた。だが、もはや彼らを縛る権限はバートンにはない。主導権は、現場で既成事実を急ぐ強硬派へと移りつつあった。



その朝、迎賓館の小部屋に五人が集まった。


「昨夜、北の街道へ急使が二人走りました。方角から見てランデル伯爵領方向と、クレマン子爵領方向です」

ロイルが報告した。


カインが眼鏡の位置を直した。

「王都中央への正規急使なら、往復でどんなに急いでも十日はかかります。指示が戻る頃には今の状況はとっくに変わっている。バートン側が動くなら、近場が先です」


「どのくらいで来られるんじゃ?」

ギードが聞いた。


「早ければ三日。遅くとも五日以内でしょう。」

カインが断言する。


王都から本隊が来るわけではない。来るとすれば、近場からかき集めた手勢だ。ウルム側は、その到着までの時間も、おおよその規模も読んでいた。


「見張りを厚くする」

俺はロイルを見た。


「ただし、住民の行動は阻害するな。村境と街道の人の流れは、すべて記録しておけ。相談所だけでなく、その先の動きまで見ろ」


「了解しました」

ロイルが短く頷く。


「マスター。スマートゴーレムはどうしますか?」


「引き続き待機させておいてくれ。いざという時の切り札として伏せておく」


俺は次にロッテを見た。

「ロッテは窓口で住民への説明を続けるように。迷っても戻れると、何度も繰り返して伝えてくれ。それから、人を使って良いから、聞き取り書や押収した書類の整理を進めてくれ」


「はい。いつでも証拠として提出できるように整えておきます」


最後に、ギードがゆっくりと立ち上がった。

「村の空気は、わしが受け止めよう。皆の不安も、覚悟もな。お前たちは、外から来るものを確実に弾き返す備えに集中してくれ」


来るべき衝突に向け、ウルムは盤面を冷徹に整え終えていた。



それから、二日が経ち、三日が経った。

その間、ウルムは淡々と動いていた。


村人たちの話題からは、夜の移送未遂も次第に薄れていった。

代わって増えていったのは、冬支度のことばかりだ。

ただし、見張りの目だけは一度たりとも緩まなかった。


ロッテは窓口で、不安げに訪れる村人たちに書類の意味を説明し続けた。

「焦らなくていいです。迷ったらここへ来てください」

その言葉が、村人たちの心に少しずつ守りを形づくっていった。


ロイルたち自警団は、交代で村境と街道の監視を強化した。

夜間も休むことなく、誰が外へ出たか、外から何が近づいているかを記録し続ける。

街道の人の流れを記録する用紙が、一枚また一枚と増えていった。


村の中では、昨日のような直接的な衝突は起こらなかった。

だが、その静けさがかえって、嵐の前の息苦しさを濃くしていた。

近場から手勢が集まるのに必要な日数が、静かに、確実に消化されていく。



四日目の夕方。日が傾き始めた頃、村境の監視所に立っていた自警団員が、街道の向こうへ鋭い視線を向けた。

夕日を背にして、長い影が近づいてくる。


「……おい」

団員が隣の仲間に声をかけた。


人影が、以前より明らかに多い。

大きな箱を積んだ荷馬車も、何台も連なっていた。

しかも武装が重い。私兵や街道警護、あるいは宿場の荒事に慣れた連中らしい、質の悪い動きの者たちが大勢混じっている。


連絡を受けて、ロイルが監視所へ駆けつけてきた。


「来ます。前よりずっと多いようです」

見張りの団員が、緊張で強張った声で言った。


ロイルは目を細め、街道の砂煙の奥を見据えた。


「数は……十や十五じゃ利きませんね」


「ああ。上へ知らせろ。総員、配置につけ」


ロイルは手首の皮当てを締め直し、低く命じた。

相談所という建前は、もう終わっていた。街道の向こうから、保護の名目を重武装で塗り潰した護送隊が、土煙を上げてウルムの境界へ迫っていた。



同じ頃。

街道の向こう、ウルム村の手前で陣を張った強硬派の指揮所。

補佐官と護衛長、そして近隣領から派遣されてきた荒事慣れした指揮役が、地図を前に顔を突き合わせていた。


「今度は、必ず連れ出す」

補佐官が、血走った目で低く言った。

「相談でも誘導でも書類でも駄目だった。なら、今度は護送という形で通す。それさえ一度通ってしまえば、あとは王国の仕事になる」


近隣領から来た指揮役が、太い腕を組んで笑う。

「任せておけ。これだけの数と腕利きを揃えたんだ。あの村の素人自警団がいくら束になろうと、押し通ってやるさ」


護衛長が剣の柄を叩いた。

「公印は、ボルドー男爵が整えた。あくまで体裁だが、見た目は正式だ」


「中央の耳に入る前に片を付けられるか」


「試すだけの価値はある。中央の返答が届く前に通してしまえば、既成事実のほうが先に立つ」

指揮役が腕を組んで頷いた。


「明日の朝、行動するぞ」

強硬派のその冷たい決意が、夕闇に沈む街道に響いた。


境界線を挟んだ睨み合いは、そう長くは保たない。後戻りのできない朝が、すぐそこまで迫っていた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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