第152話 急使と前触れ
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まだ薄暗い北部街道筋の宿場町。
静寂を破って、蹄の音が石畳を荒々しく打った。
半ばまでしか開いていない関所の門へ、一騎の馬が泥を跳ね上げながら駆け込んできた。馬は白い泡を吹き、乗り手の外套は夜露と土埃にまみれて、ひどく汚れていた。
ウルム村の客舎から夜通し馬を飛ばしてきた、補佐官の配下である後方要員の一人だった。
男は馬から転げ落ちるように降りると、関所の詰所へ駆け込み、当直の役人へ封蝋付きの書状を突きつけた。
「急使だ。関所の責任者を出せ」
男は懐から封蝋付きの書状を引き抜いた。
番所の責任者が渋々出てきて受け取り、蝋を割って中身を読んだ。
王国民保護を名目とした追加人員の要請。街道警護の経験があり、腕の立つ者と荷馬車要員を至急回せ。王都の正式な照会は待つな。これは北部の名のある方々による共同判断である。
責任者は書状をひっくり返し、裏を確認した。
裏書きに並ぶのは、この地を実質的に動かしている北部貴族たちの名だった。一介の宿場役人に無視できるものではない。
「しかし、何か妙だな」
責任者は呟いたが、その呟きは誰にも拾われなかった。
「北部貴族の連名による至急案件だ。速やかに処理しろ、との命だ」
「……承知いたしました。街道警護の詰所と、関係する領館へ急ぎ回します」
王都の中央が知らぬところで、強硬派の独断による実力行使の準備が、静かに、だが恐ろしい速さで始まっていた。
◇
場面は変わり、ランデル伯爵領の小領館。
家令のモリスが、早朝から執務室の扉を叩いた。
「旦那様。ウルム村方面より、私的な急使が参りました」
窓辺に立っていたランデル伯爵が、忌々しげに振り返る。
「保護移送の件か。結果はどうなった」
「昨夜の件は未遂に終わったとのことです。村の自警団の妨害を受け、実行は難航。……至急、追加人員と護衛、ならびに荷馬車を求む、とのことです」
ランデルは舌打ちをし、書状を机に放り投げた。
「たかが難民の寄り合い所に、正規の護衛が後れを取ったというのか。王都からの返答はまだ来ていないのか」
「来ておりません。急報が届き、中央が判断を下すにはまだ日数がかかります」
モリスは冷静に事実だけを告げた。
「ですが、ここで手を引けば、越権の記録だけが残ります。一件も通せなかった、という結果だけが、……あちらの補佐官は、それを何より恐れているのでしょう」
「なら、どうする」
「先に既成事実を作った方が勝ちです」
モリスの冷徹な進言に、ランデルは目を細めた。
正式な軍は動かせない。王都の許可が下りていない。だが、近場の私兵なら話は別だ。街道警護は平時から動かしている。宿場に詰めている荒事向きの連中に声をかければ、二日もあれば頭数は揃う。荷馬車と御者も、伯爵家の持ち分から出せる。
ランデルは椅子から腰を浮かせ、低い声で命じた。
「私兵と街道警護の腕利きをかき集めろ。宿場にいる荒事慣れした連中も、金で動かせ」
モリスは一礼し、その場で必要な手配を頭の中で組み始めた。
「王都の公爵閣下が動くのを待っていては、我が領の人も物資も吸い上げられるだけだ。ここは我々の手で片を付ける」
クレマン子爵領でも同様の動きが起きていた。
ボルドー男爵は、あくまで正式に見える封蝋付き文書の文面を急いで整えた。
王都の返答を待っていては遅い。
だからこそ、近場の戦力で先に既成事実を作る。強硬派は最初から、そのつもりだった。
◇
同じ日の朝。ウルム村の客舎。
バートンは机に向かい、本国へ送るための公式な報告書を口述していた。
「……相談所周辺において、偶発的な衝突が発生した。保護希望者との接触に際し、現場に一部誤解が生じ——」
「荷馬車についてはいかがなさいますか。」
「記載しない」
「では、裏の導線については?」
「相談所周辺の移動として処理する」
「抜刀は……」
「一部護衛の過剰反応と記せ」
書記官は冷静に指摘した。
「荷馬車、裏の導線、夜明け前の接触、抜刀――そのうえ、彼らが差し出した書類の文言まで、すべて村側に記録され、証拠として押さえられています。完全に揉み消すのは不可能です」
「分かっている。正直に報告すれば、王国側の明白な越権行為として私が責任を問われる」
バートンは重く息を吐いた。
「今は、事を小さく見せて時間を稼ぐしかない」
報告書を書き上げた書記官が、静かに問いかけた。
「これで通るでしょうか」
バートンは書き上がった報告書を見下ろした。
「通さなければならんな」
ふと、バートンは窓の外を見た。朝から補佐官と護衛長の姿が見えない。
「……連中、どこへ行った」
「昨夜から姿が見えません。馬の口取りをしていた後方要員も、何人かいなくなっているようです」
書記官は淡々と答えた。
バートンは目を細めた。
部下たちが自分の指示を超え、別筋で何かを動かそうとしていることに薄々感づいていた。だが、もはや彼らを縛る権限はバートンにはない。主導権は、現場で既成事実を急ぐ強硬派へと移りつつあった。
◇
その朝、迎賓館の小部屋に五人が集まった。
「昨夜、北の街道へ急使が二人走りました。方角から見てランデル伯爵領方向と、クレマン子爵領方向です」
ロイルが報告した。
カインが眼鏡の位置を直した。
「王都中央への正規急使なら、往復でどんなに急いでも十日はかかります。指示が戻る頃には今の状況はとっくに変わっている。バートン側が動くなら、近場が先です」
「どのくらいで来られるんじゃ?」
ギードが聞いた。
「早ければ三日。遅くとも五日以内でしょう。」
カインが断言する。
王都から本隊が来るわけではない。来るとすれば、近場からかき集めた手勢だ。ウルム側は、その到着までの時間も、おおよその規模も読んでいた。
「見張りを厚くする」
俺はロイルを見た。
「ただし、住民の行動は阻害するな。村境と街道の人の流れは、すべて記録しておけ。相談所だけでなく、その先の動きまで見ろ」
「了解しました」
ロイルが短く頷く。
「マスター。スマートゴーレムはどうしますか?」
「引き続き待機させておいてくれ。いざという時の切り札として伏せておく」
俺は次にロッテを見た。
「ロッテは窓口で住民への説明を続けるように。迷っても戻れると、何度も繰り返して伝えてくれ。それから、人を使って良いから、聞き取り書や押収した書類の整理を進めてくれ」
「はい。いつでも証拠として提出できるように整えておきます」
最後に、ギードがゆっくりと立ち上がった。
「村の空気は、わしが受け止めよう。皆の不安も、覚悟もな。お前たちは、外から来るものを確実に弾き返す備えに集中してくれ」
来るべき衝突に向け、ウルムは盤面を冷徹に整え終えていた。
◇
それから、二日が経ち、三日が経った。
その間、ウルムは淡々と動いていた。
村人たちの話題からは、夜の移送未遂も次第に薄れていった。
代わって増えていったのは、冬支度のことばかりだ。
ただし、見張りの目だけは一度たりとも緩まなかった。
ロッテは窓口で、不安げに訪れる村人たちに書類の意味を説明し続けた。
「焦らなくていいです。迷ったらここへ来てください」
その言葉が、村人たちの心に少しずつ守りを形づくっていった。
ロイルたち自警団は、交代で村境と街道の監視を強化した。
夜間も休むことなく、誰が外へ出たか、外から何が近づいているかを記録し続ける。
街道の人の流れを記録する用紙が、一枚また一枚と増えていった。
村の中では、昨日のような直接的な衝突は起こらなかった。
だが、その静けさがかえって、嵐の前の息苦しさを濃くしていた。
近場から手勢が集まるのに必要な日数が、静かに、確実に消化されていく。
◇
四日目の夕方。日が傾き始めた頃、村境の監視所に立っていた自警団員が、街道の向こうへ鋭い視線を向けた。
夕日を背にして、長い影が近づいてくる。
「……おい」
団員が隣の仲間に声をかけた。
人影が、以前より明らかに多い。
大きな箱を積んだ荷馬車も、何台も連なっていた。
しかも武装が重い。私兵や街道警護、あるいは宿場の荒事に慣れた連中らしい、質の悪い動きの者たちが大勢混じっている。
連絡を受けて、ロイルが監視所へ駆けつけてきた。
「来ます。前よりずっと多いようです」
見張りの団員が、緊張で強張った声で言った。
ロイルは目を細め、街道の砂煙の奥を見据えた。
「数は……十や十五じゃ利きませんね」
「ああ。上へ知らせろ。総員、配置につけ」
ロイルは手首の皮当てを締め直し、低く命じた。
相談所という建前は、もう終わっていた。街道の向こうから、保護の名目を重武装で塗り潰した護送隊が、土煙を上げてウルムの境界へ迫っていた。
◇
同じ頃。
街道の向こう、ウルム村の手前で陣を張った強硬派の指揮所。
補佐官と護衛長、そして近隣領から派遣されてきた荒事慣れした指揮役が、地図を前に顔を突き合わせていた。
「今度は、必ず連れ出す」
補佐官が、血走った目で低く言った。
「相談でも誘導でも書類でも駄目だった。なら、今度は護送という形で通す。それさえ一度通ってしまえば、あとは王国の仕事になる」
近隣領から来た指揮役が、太い腕を組んで笑う。
「任せておけ。これだけの数と腕利きを揃えたんだ。あの村の素人自警団がいくら束になろうと、押し通ってやるさ」
護衛長が剣の柄を叩いた。
「公印は、ボルドー男爵が整えた。あくまで体裁だが、見た目は正式だ」
「中央の耳に入る前に片を付けられるか」
「試すだけの価値はある。中央の返答が届く前に通してしまえば、既成事実のほうが先に立つ」
指揮役が腕を組んで頷いた。
「明日の朝、行動するぞ」
強硬派のその冷たい決意が、夕闇に沈む街道に響いた。
境界線を挟んだ睨み合いは、そう長くは保たない。後戻りのできない朝が、すぐそこまで迫っていた。
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