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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第10章 名分と境界

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第151話 証拠と余波

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

夜明けの治療小屋は静まり返っていた。


エレノアが腕を切られた団員の傷を治療していた。

傷は深くない。だが、確かに血は出ていた。

止血を終えて布を巻かれた若い団員の手は、まだ小刻みに震えていた。

剣を向けられ、本気の敵意をぶつけられた恐怖が、まだ体に張り付いたまま離れない。


元職人の男と妻が、入り口近くに立っていた。礼を言おうとしているのだが、言葉が出なかった。子供がまだ母親の服を握っていた。


扉が開き、ロイルが入ってきた。

部屋の空気が少しだけ引き締まる。


「どうだ」

ロイルが若い団員を見下ろして聞いた。


「……すみません。足の震えが、止まらなくて」

団員は青ざめた顔で自分の膝を握りしめた。


「それでいい」

ロイルは短く言った。

「本物の刃が来たんだ。怖くて当たり前だ。だが、お前たちは一歩も引かなかった」


団員が顔を上げる。


ロイルは団員の隣に腰を下ろした。

「よく持ち場を離れなかったな」


団員は何も言わなかった。ただ頷いた。



迎賓館の応接室。

ロッテとカインが卓に向かい、元職人の男とその妻、そして元部下たちから一人ずつ話を聞いていた。


「いつ、誰に声をかけられましたか」

ロッテが記録板に羽ペンを滑らせながら、静かに問う。


「夜明け前です。長屋の裏に、昼間相談所にいた従者が来ました」

元職人の男が、ゆっくりと話した。


最初に声をかけられたのは三日前だった。仕事口があると言われ、昨夜には家族ごと面倒を見るという話まで持ち出された。相談所ではなく、長屋の外での接触だった。

「王都の工房再建班として、特別枠で優遇すると言われました。家族も部下も一緒だと」


「それは、街道沿いの相談所へ来るようにという案内でしたか」

カインが眼鏡を押し上げて確認する。


「いいえ。村の目があるから、村境の奥へ来いと。行けば、荷馬車が二台待っていました」


「荷馬車は、話を聞く前から止まっていましたか」


「……はい。最初から、そこにありました」


「書類を渡されましたか」


「はい。名前を書くだけでいいと言われました。相談の記録だと。でも、毛布と縄も積んであって」


妻が身を乗り出して言った。

「私たちは、ただ話を聞くだけのつもりだったんです。でも、向こうの人は早く乗れと急かしてきて……」

妻の声が震えている。

子供を抱えたまま、無理やり荷馬車へ乗せられそうになった恐怖が蘇っているのだ。


「分かっています」


ロッテはペンを置き、彼らを真っ直ぐに見た。

「話を聞くことと、理解しないまま荷馬車に乗せられることは違います。不安になるのは当然です」

その声には、非難の色は全くなかった。

「ご家族の将来を想って迷われたことを、誰も責めません。ただ、何が起きたかを正確に残すためにお聞きしました。お話しいただき、ありがとうございます」


迷いを責めず、本人の口から出た事実だけを、文字として残していく。

ロッテは慰めの言葉で終わらせず、住民の口から出た事実を一つずつ記録板へ落としていった。



小部屋の机の上に、いくつかの書類が並べられた。


王国民保護申告書、自警団の夜間接触記録、荷馬車の特徴を記したメモ、そして、たった今まとめたばかりの調書が並んでいた。

アシュラン、ギード、ロイルがそれを見下ろしている。


カインが論点を整理するように口を開いた。

「事実は明白です。表の相談所とは別の、村境の奥まった場所でした。夜明け前の接触であり、荷馬車二台が事前に手配されていました」


カインは申告書を指差す。

「この書類は相談の記録ではなく、再登録および保護意思の記録として機能するものです。相手は、住民が十分に理解しないまま移送を強行しようとしていました」


全員の顔が険しくなる。

「さらに、護衛が住民および自警団に対して実力行使に及び、抜刀まで行っています……もはや相談の範疇を超えています」

カインは冷えた声で言い切った。

「計画的な移送目的であり、事実上の拉致未遂です」


ギードが腕を組んだまま唸った。

「言い逃れできんな」


「できません」


「わかった。記録は写しを取っておいてくれ」

俺は短く言った。


「書類の文面も全部だ。相談所と裏の導線の位置関係は図に落としておくように。あと、夜間の時刻記録も詳細に残しておいてくれ。今後の言い逃れを全部潰す」


ロッテがペンを走らせた。

「今日中に整えます」



客舎の一室。

バートンは、机を挟んだ先に立つ補佐官と護衛長に対して、あえて声を荒げなかった。だが、その目は冷たく据わっていた。


「なぜ相談所外で動いた」

低く、感情を押し殺した声が響く。

「なぜ荷馬車を出した。なぜ、剣まで抜かせた」


補佐官が顔をこわばらせながら弁明する。

「本人たちは自ら来たのです! 荷馬車も、あくまで安全に移送するための便宜でした。自警団が先に挑発してきたから——」


「黙れ」

バートンが一言で遮った。

「自発的来訪という建前を、お前たちが泥で塗り潰した。やっていることはただの夜盗と変わらぬ」


補佐官が唇を噛む。護衛長は目を逸らした。

バートンは、彼らが越えてはならない一線を完全に踏み越えたことを理解していた。

「ここで事実通りに報告すれば、我々側の越権行為として処理される。私まで巻き込むな」


バートンは天井を仰いだ。官僚としての計算が、頭の中でせわしなく巡る。

すべてを正直に報告すれば、自分もただでは済まない。だが、このまま放置すれば、証拠は向こうに残る。


バートンは書記官を見て、冷えた声で告げた。

「相談所周辺で偶発的な衝突が発生した。保護希望者との接触については、現場に一部誤解があった。……報告書は、その形でまとめる」

バートンは静かに言った。


書記官が筆を止めた。

「それで通りますか」


「通さなければならぬだろう」

バートンは窓の外を見た。街道の先で、相談所の天幕がまだ立っていた。


「荷馬車は、もう人目につかない場所まで下げろ。相談所の体裁は崩すな。それから、補佐官たちは表に出すな。今は、火種を小さく見せることだけに専念しろ」



朝。共同広場と水場には、いつにも増して多くの人が集まっていた。

村人たちの空気が、昨日とは明らかに違っている。


「昨夜、荷馬車で連れて行かれそうになったんだって」


「職人班の人たちが?」


「でも、自警団が止めたんだろ」


「なんでも、王国の護衛が剣まで抜いたらしいぞ」


話は水場から長屋へ、長屋から広場へ広がった。

それは、恐怖だけではなかった。

不安と戸惑いもまた、さざ波のように広がっていった。


「自警団の連中、騎士相手に体を張って止めに入ったらしいぞ」


「窓口で止めておけば、あんなことにはならなかったんだ。」


「一人で決めなきゃいいんだよ」


怖かった。だが、窓口と自警団が身を挺して守ってくれた。

迷っても、戻れる場所がある。

そんな感覚が、村のあちこちに静かに広がっていた。


この話が街道を行き交う行商人たちの口にのぼるのも、時間の問題だった。



その夜、林の陰で黒鴉の一人が手帳に書き留めていた。


相談所外での住民接触。夜明け前の荷馬車手配。護衛による抜刀。スマートゴーレムの投入。移送未遂。

短く、冷たい文字が並んだ。


「王国使節、協定境界付近で越権行為確認」


それ以上は書かない。干渉もしない。

帝国はまだ動かない。ただ、見ている。


王国側に協定違反の口実を与える政治的証拠だけが、冷ややかに蓄積されていく。


黒鴉は闇に紛れるように、再び姿を消した。



客舎の別室。

補佐官、監察見習い、そして護衛長が、バートンの部屋を出た後で顔を突き合わせていた。


「バートン殿は保身に走られた」

補佐官が忌々しげに吐き捨てた。


「書類には誤解と記した。だが、我々が結果を出せなければ、最終的には独断で騒ぎを起こした責任だけを負わされることになるぞ」


護衛長が腕を組んで凄んだ。

「もう後戻りできない。成果なしでは北部への報告が——」


監察見習いが青ざめた顔で問う。

「どうしますか」


「人を増やす」

護衛長が低い声で言った。

「後方要員ではなく、もっと腕の立つ連中を街道の向こうから回せ。相談所の看板も、もう必要ない。一気に押し切れるだけの数で来れば、ゴーレム程度では止めきれないだろう」


補佐官が暗い目で頷く。

「一度でも保護移送を通せなければ、ここまでやった全部が無駄になる。やり切るしかない」


一人の男が立ち上がり、部屋を出て夜の街道へ走っていった。


焦りと恐怖に追い詰められた強硬派は、取り返しのつかない実力行使へと突き進もうとしていた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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