第二話
「論文のここ、この本読むといい」
最初に私に声をかけてきたのは、二条先輩だった。二条先輩を知る人なら、あの二条くんが? と驚くことだろう。
二条誠侍。ゼミの研究室の片隅で、本を読むかパソコンを触っている人。銀縁眼鏡で神経質そうで、あまり人と関わり合わない……そんな印象だ。
同じゼミの先輩で、教授が忙しいときには私たち後輩の指導をしてくれる……のだけれど、二条先輩に聞きに行くクラスメイトはあまりいなかった。とにかく、とっつきにくそうなのだ。そうして二条先輩本人も、後輩に進んで関わる人ではなかった。たまに教授主催の飲み会があっても、二条先輩は参加したことがないくらいには。
だから二条先輩に話しかけられるなんて、思ってもみなかった。本のタイトルを書いたメモを渡されて、驚いた私は反応が遅くなってしまった。
「ありがとうございます」
二条先輩は私の顔をじっと見て、ほんの少しだけ、表情を和らげた。
──なんだ、今の。
呆然とする私をよそに、二条先輩は手早く自分の荷物を片付けると、研究室から出て行った。私の周りにいたゼミ仲間がざわついた。
「真理子ー! 知らなかったよ! 二条先輩といい感じなの?」
「違うよ!」
「でも明らかに、他の後輩と扱いが違うじゃん!」
「知らないし!」
「え、じゃあ二条先輩の片想いってこと!? ひゅー!」
「これは恋愛の気配がしますなぁ!」
「やめてよ。先輩に迷惑じゃん。二条先輩、あんまり人付き合い得意じゃなさそうだし」
騒ぎたてるゼミ仲間に釘を刺しながら、私は二条先輩から渡されたメモを大切にしまいこんだ。
二条先輩がもしも私のことを好きだとしたら──好きじゃなくても、ちょっとは気にしてくれているのだとしたら……彼は私に、何を求めているのだろうか。
【Whose doll am I ? Where does the shelf lie?】
街を歩いていると、よく声をかけられる。道を教えて欲しいとか、日本語がわからないとか、そういうものだ。私も外国語にはあまり詳しくないから、スマホの翻訳機能を使って答えるようにしている。
でもたまに、ナンパだったり、「3万円でどう?」なんて声をかけられたりすることもある。私はそれを拒否しない。
彼らの相手をしていても、気持ちいいとは思わない。彼らはお客さんだから、気持ちいいふりはする。甘い言葉も吐く。けれども、そこに本心はない。お客さんを満足させるためのものだ。
そういった関係──世間でいうところの援助交際をしたあと、私は必ず吐く。
なんでこんなことをしているのか、自分でもよくわからない。性欲が強いとか、身体を持て余しているというわけでもない。
私は無類の寂しがり屋だ。誰かに私を見ていて欲しい。たとえ本心でできた関係でないとしても、人間なんて大なり小なり装うもので、友達にだって、恋人にだって、隠している部分がある。だったら、援助交際みたいな即席の関係だって、隠している部分が多いだけで、そんなに変わらないんじゃないか──。
そんな理屈をつけてしまうけれど、おそらく単に恋愛体質なんだろう。
だからどうしても、二条先輩がふと見せたあの表情が気になってしまうのだ。
「二条せんぱーい」
大学のキャンパスで二条先輩を見かけたので、声をかけてみた。いつもより一歩だけ近づいて、いつもの二倍は二条先輩の目を見る。この人が何を考えているのか、知りたかった。
二条先輩はちらりと私を横目で見て、会釈しただけだった。つれない。私は二条先輩の周りをぐるぐると付きまといながら、「この前のメモ、ありがとうございました」とか「あのあと、周りの子に二条先輩と付き合ってるの? って聞かれちゃって大変でした」とか「先輩って好きな人いるんですか?」とかちょっかいを出した。
「恋愛で?」
「そう、恋愛で」
「……一人いたよ。今は友達だけど」
「どんな人でした?」
いつもはそんな質問に答えないはずなのに、珍しい。二条先輩は嫌そうに顔をしかめてから、スマホの画像フォルダを私に見せた。
神前式の結婚式の画像だった。これじゃあ白無垢だから、二条先輩の好きな人の顔がよくわからない。
「ええー、もっと顔のわかる画像はないんですか? 白無垢じゃないですかー」
「こっち」
二条先輩は画像の新郎を、そっと指でなでた。
私はひそかに息を飲んだ。画像の中の新郎は、二条先輩の唯一の恋の相手は、私に少しだけ似ている。
二条先輩が私を見てくれてたわけじゃないってことは悔しいけれど、心のどこかで納得してしまった。こんなにガードが固くて他人を寄せ付けない人が、私のことを簡単に受け入れるはずがなかった。
私は二条先輩の腕にするりと腕を絡ませた。二条先輩はすぐに、私の腕を振り払う。
「好きだった人に似てたから、私に優しくしてくれたんですね」
二条先輩は何も答えなかった。ただじろりと、冷たい目で私を見た。そうして会釈すると、踵を返した。
「……身代わりでも、いいですよ」
私は自分の口をついて出た言葉にわずかに驚き、納得した。援助交際と大した違いはない。誰かの身代わり、誰かの理想──そういうものを演じてきた私は、二条先輩が好きだった相手を演じることもできるんじゃないかと思ったのだ。
振り向いた二条先輩の目は、これまで見たことがないほど険しかった。銀縁眼鏡の奥の目が、とても嫌そうに歪んでいた。そうして私を一瞥すると、彼は何も言わずに歩き出した。
取り残された私は、失言だったな、と反省した。
二条先輩みたいな人が、かつてただ一人恋をした相手は、とても特別な人だったはずだ。きっと、性別さえ越えて恋をするくらいに。
そんな人の身代わりになろうなんて、思い上がりだった。




