後編
私は決して児童相談所を悪く言うつもりはありません。
冷静に考えれば、千秋のやったことは二十八条を持ち出されても仕方のないことでしたし、人と人との関わりですから、どうしても感情が先に立ってしまって回らなくなることもある。
子どもの立場からの福祉を考える児童相談所ならば、適切な判断と処置であったと認めるところであります。
実際、その後も児童相談所にはお世話になりましたし、隼人が中学の時にちょっとやんちゃになりすぎて指導を受けた時には、逆に児相と繋がっていて良かったと思ったものです。
児相が児童福祉法第二十八条の申し立てを行う前に各行政に働きかけ、制度の矛盾を突いたほうがよいとアドバイスを下さいましたのも、元児童相談所の職員の方でした。この方のお力添えがなかったら、真っ向から児相と二十八条と戦って、判決に時間だけがかかって本末転倒という事態になったかもしれません。
千秋は、生活面で確かに困窮し、そのために時間を惜しんで働くしかなく、夜間に子どもを置いて出てしまうという事態に陥った。
それ以外では、保育園等に問い合わせているだろうが、身体的虐待の事実など一切ない。
保育所や、血の繋がりのない近所の人や、友人知人の善意の手によって、隼人が健全に育っていることは誰の目から見ても明らかである。
では、不安な点は、千秋が金銭的に余裕がないために子どもを育てられるとは思えないという一点のみか。
それによって今回のように、不安要素が噴き出してくる、それはもちろん分かる。金が全てを解決してくれるわけではないが、金がなければマイナス要素が生じ、なし崩し的に悪くなるのも分かる。
ではなぜ、あなた方は、最初に隼人が孤児になった際、引き取ろうとした千秋に金銭的支援の存在を教えなかった?
それを教えることができたのだ、児童相談所は。
金銭的に余裕のない親族に孤児となった子どもを引き取って育ててもらう。
そのための、金銭的支援を保証する。
それが、親族里親制度である。
親権者を失った児童に対し、親族は、扶養義務がある。子どもは全く見知らぬ他人よりも、できることなら身内で育ててもらった方がいい。でも金銭的に子どもを育てる余裕がない。そういった家庭に対し、月々の生活費を保証し、子どもが十八歳になるまでスムーズに養育できるように支援する、その制度が、児童相談所を窓口とする親族里親である。
東京都は当時、この親族里親に対するハードルが高かった。
余程困窮している家庭か、困窮していたとしても、親権者が亡くなる前から児童と一緒に同居している祖父母の場合などは、もともと一緒に育てていたのだからという理由で除外した。
そういうわけで、児相側がこれの存在を千秋にあえて教えなかったのも当然のことでした。
叔父という立場での一人親世帯では、シングルマザーやシングルファーザーのように、受けられる支援がほぼありません。
一切の補助が出ない。あるのは子どもの権利である児童手当だけです。普通の一般家庭よりも支援がなかった。これを補えるのは、親族里親の制度しかありませんでした。
里親の手当として様々な支援が受けられる。これがあったら、どれだけ生活がマシになるか分からない。私は、親族里親を申請し、金銭的援助や社会的支援を受けた方がいいと千秋にアドバイスをしました。
だが千秋は、私と児相の前で、こう言いました。
ちゃんとした親になって、責任をもって面倒をみる形にしたほうが、方が隼人だって安心する、その覚悟があれば、児相側だって社会だって分かってくれる。
お金をもらったりしたら、逆に金目当てだったんだろうなんて、世間に言われてしまうとも限らない。
だから、自分は親族里親の申請はしない。
その経緯を、知らない、記録に残っていませんなどと一言でもぬかしたら許さない。
あの言葉を、あの想いを無にするというのなら、こちらは行政に、法に、その経緯を訴える。
児相よりも東京都がこの事態を知って動いてくれたことが、私たちの光となりました。
本当に、私の友人や同期やかつての職場の上司や、福祉の立場の方々、今にして思えばあの短い期間の間に、どれほどの方が、慎重に、されど力強く動いて下さったことか。
児童の、一時保護所での滞在期間は、最長二カ月。
延長を決定するのは児童相談所所長であり、その場合、二十八条の申し立てを行う可能性がある。
二十八条を出されてしまったら、千秋と隼人はまた会えない期間が長引いてしまう。児相の時間稼ぎを止めるためには、なんとしても行政を動かさなければならなかった。
児相のやることには基本的に口を出せないとしながらも、水面下で動いてくださった方々は、後ろ指をさされることもあったのではないかと思います。
あの頃の皆様とは、その後長い長いお付き合いをさせていただくことになりました。
無我夢中で駆け抜けたあの二か月、終わってみれば、ちゃんと周りにお礼を言えたかどうかすら、記憶が定かではないのです。
児童相談所に隼人を引き取りに行った時の、大泣きする千秋と、犬の子のように喜んでいる隼人の姿は、昨日の事のように思い出せるのですが、その後気を失うように眠りについてしまったので、事務処理をどうしたのか、皆様のところにお礼に伺ったかどうかすら、すっぽり記憶から抜け落ちております。
俺のところには何の事後報告もなかった、と文句を言いたい方もいらっしゃると思いますので、この場をお借りして、あの時のことを心より御礼申し上げます。
おかげさまで、あの時四歳だった息子は、まあ多少やんちゃな時期もありましたが、今は私の事務所を正式に継ぎまして、父親以上に金にならない法律相談を引き受けております。
ご覧のとおり、千秋に似たのかやたら泣き虫で、これでちゃんと所長をやっていられるのかと思ったりしますが、彼の伴侶はビジネスの才覚に溢れた辣腕弁護士でありますので、私としては何も心配はしておりません。
隼人が一時保護から戻ったのと同時に、千秋と私は一緒に暮らすことになりました。
私と千秋は、周りから事実婚状態にあるという理解を得られた上で、生活をすることができました。
男二人で子どもを育てているのですから、当然奇異な目で見られましたし、私達はいいとしても、隼人はそれなりに傷ついてきたと思います。
中学の頃から私達を避けだしたのもやむを得ないことだったでしょうし、逆にそれが自然な成長かもしれないと思いました。
同性婚がようやく日本で認められ、数多くの同性カップルが日本中どの役所でも婚姻届を出せるようになった時、私と千秋がマスコミに大きく取り上げられましたのは、単に三十年以上連れ添った同性カップルであったからではありません。
婚姻届を出すと同時に、日本で初めて、同性同士の子どもとして、隼人との養子縁組が成立したからです。
今までは、千秋一人の養子だった隼人が、私と、千秋と、男二人の子どもとして、戸籍に名前が刻まれたからでした。
家裁の調査官でなく、直接裁判官が、二人の養子として名を戸籍に連ねることの異議を、隼人に問いました。
「ありません」と、凛とした息子の声が、響きました。
その声こそが、私と千秋の、婚姻の誓いに聞こえました。
私と千秋は、結婚式はもちろん、指輪を交わしたこともありませんでした。
出会った当初から様々な困難に当たり、必死でそれをなんとか解決しながら、なし崩し的に始まった事実婚でしたから、周りが私を千秋の夫と、隼人のもう一人の父親と認識してくれているのをいいことに、その意味を深く考えずにここまで来てしまいました。
日本でようやく同性婚に関する改正案が通り、異性間とほぼ同等の保証が得られることになった時に、その証明として隼人が私たちの子どもとしてどう戸籍に記されるか、確かめるのにいい機会だから結婚届を出そうなどと、周りの持ち上げによって結婚したようなものです。
ただの一度も、プロポーズをしたことなんてなかった。
私は還暦を過ぎていましたし、今更という思いでもありました。
隼人が私の子どもとして、同じ戸籍に載ったことこそが、何よりも強い婚姻の証しだと思ったし、事実、千秋もそう思ってくれておりました。
千秋はあの性格ですから、長い結婚生活の中で何度愛の言葉を伝えてくれたか分かりません。
ですが私が、千秋にそれを返したり、伝えたりすることができたのは、千秋が私にくれたものの百分の一、いや千分の一だったかもしれません。
男社会の家長制度の根が深かった日本が、ようやく同性婚を認め、マスコミにはその先駆者として持ち上げられたにもかかわらず、私の頭には、古い古い日本男子のDNAがこびりついたままでした。
病院で千秋がふと、私の手を取りながら、男と結婚したことに、後悔はしなかったかと訊いてきました。
私は、茫然といたしました。
これまで苦楽を共にして、個人としての時間より、伴侶として生きてきた時間の方が長かったにもかかわらず、こんな言葉が千秋の口から出たことに、驚愕したのです。
千秋は、もともとゲイではなかった私に対し、心のどこかで、引け目のようなものを感じていたのだろうか。
私の人生が、自分と巡り合わなかったら、他の人生があったはずだと、心の奥底にそんな澱を沈めていたのだろうか。
本当に私は、弁護士なんぞしておりますが、口下手極まりない野暮な日本男子です。
何を言っているんだ。そんな言葉しか、千秋に告げることができませんでした。
千秋は、そんな私を見て、いつものように、優しく微笑みました。
そして、私の手を、その温もりが染み込むように、いつまでもいつまでも握っておりました。
……私は、私の手を最期まで握りしめていた千秋の左手に、生前、指輪をはめてやることができませんでした。
求婚の言葉一つ、婚姻の誓い一つ、贈ることができなかったこの愚かな夫のために、私の最愛の伴侶の告別の儀を、結婚の儀とすることを、皆様にお許しいただきたいと思います。
……千秋。
死がふたりを分かつまでと誓うことはできなかったけれど。
死がふたりを分かつともと誓うことはできそうだ。
私がそちらに行くのは、そう遠い未来ではないだろうから、君が遺してくれた温もりがこの手の中に残っているうちに、私はもう一度、君の手を取りに行けるだろう。
目印の銀の指輪はないけれど、君の温かさを、私は絶対に捕まえる自信があります。
そして無事君を見つけ出すことができたら、来世でも、私を君の夫にしてください。
そしてもう一度私に、素晴らしい人生を与えてください。
……本日は、私たちのためにお集まりくださってありがとうございました。
これをもって、喪主並びに、新郎挨拶とさせていただきます。