第8話 肉一切れと中古の籠
ベルダは市場の駆除報告の窓口へ寄った。
木戸を二回叩く。
「駆除報告」
内側から声が返る。
「ロウか。入れ」
「うん」
七年もこの辺りで罠師をやっていれば、顔も仕事も知られている。
俺は用がないので外で待つことにした。
「すぐ終わる?」
「報告だけなら」
「それだけじゃないんだろ」
「さっきの仕事の話もする」
「長いな」
「朝飯食べてていいよ」
「そうする」
「肉、残しといて」
「自分で頼め」
「そうする」
ベルダが木戸の向こうへ消える。
俺は市場の食堂へ向かった。
◇
朝飯には少し遅く、昼飯には早い。この時間の食堂は、朝に売り切れなかったものが残っていて安いので、俺は嫌いではない。
「豆粥。卵はいくら?」
「一枚。肉なら二枚」
「じゃあ粥だけ」
「今日は景気悪いな」
「革買ったから」
「知らんよ」
当然だ。
豆粥を一口食べる。薄くて塩も少ないが、温かい。革帯を買ったあとの財布には、これくらいがちょうどいい。
半分ほど減ったところでベルダが来た。木箱を足元へ置いて向かいに座り、厚い上着の襟を少し緩める。夜通し働いたせいか、低い声はいつもより掠れていた。
「報告は終わった?」
「そっちは。仕事の話は来週もう一度。向こうは安くしたいらしい」
「受けるのか」
「減らす仕事があるなら、その分は下げる。丸ごとは下げない」
「道具置き場も?」
「それも言う」
そこまで決めると、ベルダは店の人間を呼んだ。
「豆粥。肉も」
「今日は食うな」
「食わないと持たない」
徹夜明けの腹は、俺より正直らしい。
やがて薄切り肉が三枚、焼いた玉葱と一緒に運ばれてきた。脂の匂いが湯気に混じる。俺の前には相変わらず豆粥しかない。
ベルダが一枚食べる。
「欲しそうだな」
「肉だなと思ってる」
「それを欲しいって言うんだよ」
「言わないよ」
二枚目もなくなった。
……うまそうだな。
人の皿を気にするくらいなら最初から頼めばよかった。そう思った頃、ベルダが最後の一切れへ箸を伸ばし、途中で止めた。
頬へ落ちた黒髪を、汚れた指を使わず手首の甲で耳へ払う。小さな真鍮の輪と、その下の首筋が一瞬だけ覗いた。仕事場では革と泥の匂いに紛れているが、こうして朝飯を前に座っていると、七年知っている相手でも、ちゃんといい女だと思う。
「食う?」
「……いいのか?」
「さっきから肉ばっかり見てる」
「見てないよ」
「じゃあ戻す」
「一口なら食う」
肉が俺の皿へ置かれた。ベルダはそれ以上何も言わず、自分の粥へ戻る。
「悪いな」
「革紐、今度安く回して」
「取引なのか」
「ただでやるよりいい」
「わかった」
塩は強かったが、うまい。
ベルダは何事もなかったように粥を食べている。飯一切れでも、そのまま借りにしておかない。革紐でも板ばねでも、獣脂でも金でも、大体あとで何かと入れ替わる。
そのほうが、あとで余計な気を遣わずに済む。
◇
「そういえば」
ベルダが俺の左肩を見た。
「肩、どうした」
「わかる?」
「左だけ動きが浅い」
「昨日、荷車が傾いてな。一瞬受けた」
「馬鹿」
「そうかもしれん」
「変わらないな」
「前よりはましだよ」
「前はもっと馬鹿だった」
「そこまで言う?」
「言う」
ベルダは粥を一口食べてから、まだ俺の肩を見ていた。
「でも、治ってない」
「全部は無理だよ」
「そう」
それで肩から視線を外し、匙を皿へ戻した。
休めとも、昨日何をしたとも聞かない。俺も説明しない。
粥をもう一口食べる。
こういうところは楽だった。
「ユアンって若いの、知ってる?」
「茶髪の荷運び?」
「そう。昨日来た」
「何か壊した?」
「何も」
「なら偉い」
「旧染工場の回収運搬、狙ってた」
ベルダの匙が止まる。
「地下に入る?」
「設備を外すのは別の資格持ち。本人は、外れた荷を上げて運ぶだけ」
「ならいい」
ベルダは食事に戻った。
「お前も前にあそこ行った?」
「駆除で呼ばれた」
「やった?」
「やらない」
「即答だな」
「地下が安全か聞いたら、誰も知らなかった」
「それで?」
「帰った。鼠を捕る前に私が落ちたら意味ない」
「そりゃそうだ」
「金はよかった」
「惜しかった?」
「惜しかった」
「だよな」
「でも、仕事は選ぶ」
「ああ」
その言い方ならよくわかる。若い頃の俺なら、危ないと聞いても行った気はする。ユアンへ偉そうなことばかりは言えない。
「キーラ」
「何だ?」
「そっちの革帯、見せて」
買ったものを出すと、ベルダは端を曲げて確かめた。
「これならいい」
「よかった」
「油は?」
「半瓶」
「けちった?」
「必要な分だけ買った」
「同じこと」
「そうかもしれん」
彼女が少し笑った。
愛想がいいほうではない。
でも、不機嫌というわけでもない。
笑う時は笑う。
ただ、声を上げないだけだ。
◇
飯を食べ終え、代金はきっちり別々に払った。店を出ると、市場はさらに混んでいる。ベルダには罠の餌を買う用事が残っていた。
「……そうだ。籠」
「何」
「買おうと思ってたのを忘れてた」
「何に使う」
「卵。義手で袋を持つと潰しそうだから」
「ああ」
「作ろうとは思ってたんだけど」
「買え」
「そうだよな」
しばらく後回しにしていたので、市場の端の籠屋へ寄ることにした。
小さい籠、大きい籠、背負うもの、腕に掛けるものまで並んでいる。俺はまず持ち手を見た。細いものは義手で挟みにくい。
「これ」
ベルダが取った籠は、持ち手に平たい革が巻いてあった。左手で挟んで少し振ってみても落ちない。
「いいな」
値札を見る。
「……高いな」
「作れ」
「そうなるよな」
戻すと、ベルダが今度は編み目を一か所補修した中古を取った。
「中古」
「安い?」
「半分」
持ってみる。底も抜けていないし、義手でも扱える。
「これにする」
「作らないんだ」
「作る時間で粉挽き器直したほうが金になる」
「正しい」
銅貨数枚で、長く後回しにしていた問題が終わった。
「もっと早く買えばよかったな」
「うん」
「そこは少し否定してくれてもいいだろ」
「何で」
「いや。いいよ」
◇
市場の出口でベルダと別れる。
「次どこ?」
「肉屋。餌買う」
「高いんだろ」
「交渉する」
「勝てそう?」
「勝つまでやる」
「店の人が気の毒だな」
「商売」
「そうだな」
「キーラは?」
「帰って穿孔台」
「肩使うなよ」
「今日は磨くだけ」
「本当に?」
「そのつもり」
ベルダが少し目を細める。
「壊したら、革紐の値段上げる」
「何でだよ」
「面倒だから」
「わかった。肩も革紐も大事にする」
「うん」
ベルダは縄を肩に掛け、木箱を持ったまま人混みへ入っていった。このあと餌を買い、仕事があれば罠を見に行くし、なければ寝るのだろう。まとまった仕事の話が取れれば受けるし、条件が合わなければ別を探す。
俺とは違う仕事で、違う暮らしをしている。同じ世捨てでも、生き方まで同じになるわけではない。
買った籠へ油と革帯を入れ、左手で持つ。具合はいい。今なら卵も入れられる。
「……よし」
荷受け口へ戻ると、係の男が扉を開けてくれた。
「買ったな」
籠を見て言う。
「うん」
「似合わんな」
「卵入れるんだよ」
「もっと似合わんな」
「そうか?」
外へ出る。雨上がりの空は少し明るくなっていた。
肩はまだ痛み、財布は少し軽い。その代わり、油と革帯と籠がある。腹には豆粥と肉が一切れ。工房へ戻れば穿孔台を直せるし、粉挽き器も待っている。
十分だ。
俺は中古の籠を左手に掛け直した。今度は、卵を潰さず持って帰れそうだった。




