第6話 鞄の置き場所
湯が沸いた。
火から外し、左の義手でやかんの持ち手を挟む。
強く握りすぎないように位置を決める。こういう丸い持ち手は少し苦手なので、右手で底を支えれば安定する。
「持ちますよ?」
リリエラが言った。
「大丈夫」
「熱くないですか?」
「左は熱くない」
「あ」
そう言ってから、彼女が少し困った顔をした。
「便利ですね、と言っていいのか迷います」
「俺もたまに迷う」
熱い鍋を持つ時には便利だ。
指を挟んでも痛くない。
その代わり、痛くないので傷んでいても気づかないことがある。
便利なのか不便なのか。
どっちもだろう。
茶葉を入れて、少し待つ。
リリエラが持ってきた紙袋を開けた。
小さな焼き菓子が四つ入っている。
「四つもあるのか」
「二人なので」
「一人二つ?」
「はい!」
豪勢だ。
「高くなかった?」
「大丈夫です」
「そうか」
「今日はお給料日なので」
「それならいいか」
人の金の使い方に口を出すほどでもない。
俺は茶を注ぎ、リリエラの前へ一つ、自分の前へ一つ置いた。
「いただきます!」
「いただきます」
焼き菓子を一つ食べる。
少し甘い。中に乾燥した果物が入っている。
「うまいな」
「本当ですか?」
「うん」
「よかったです!」
彼女が作ったわけではない。
だが、嬉しいらしい。
窓の外で雨が強くなる。屋根を叩く音と、排水路を流れる水の音。
工房の中では、炭の火が小さく鳴っている。
しばらく、特に話さなかった。
リリエラは茶を飲み、俺も飲む。
仕事の話をしなくても、意外と間が持つ。
これは少し不思議だった。
昔の仲間ならともかく、まだ知り合って半年ほどの女と、黙って茶を飲んでいる。
何か面白いことを話したほうがいいのかもしれない。
だが、面白い話などそんなに持っていない。
昔の冒険の話ならいくらでもある。
ただ、今はあまりしたくなかった。
「雨、すごいですね」
リリエラが言った。
「そうだな」
「しばらく帰れなさそうです」
「そうだな」
「……困りました」
言いながら、少しも困っている顔ではなかった。
俺は茶を飲み、窓の外を見る。雨脚はさっきより強い。
向かいでは、リリエラが二つ目の焼き菓子へ手を伸ばしていた。
「困ってる人の食べ方じゃないな」
「雨宿りが長くなりそうなので」
「そうか」
「はい」
俺も少し笑った。
「止むまでいればいいよ」
そう言うと、リリエラが顔を上げた。
「いいんですか?」
「帰れと言っても帰らないだろ」
「帰りますよ!」
「そうか」
「でも」
少し笑う。
「今日は、います」
「うん」
俺は炭を一本足した。
◇
茶を飲み終える頃になっても、リリエラの検査鞄はまだ膝の上にあった。
「重くないか?」
「少し重いです」
「置けば?」
「油が」
「ああ」
そうだった。
工房を見回す。
棚も机もいっぱいで、床は駄目。
壁には、何もない場所が少しある。
俺は立ち上がった。
「キーラさん?」
「ちょっと待って」
雑材の袋を探る。
薄い鉄帯が一本出てきた。端が曲がっているが、まだ使える。
万力へ挟み、右手で金槌を持つ。左手で鉄帯を固定して、叩いて曲げる。
「何を作ってるんですか?」
「置き場所」
「置き場所?」
鉄帯を鉤の形にし、角をやすりで丸める。
壁の柱へ合わせて、ねじを二本。
右手で締め、がたつきを見る。
「よし」
鞄を指差す。
「掛けてみて」
「これを?」
「うん」
リリエラが立ち上がり、検査鞄の肩紐を今つけた鉤へ掛けた。
ぴたりと収まった。
「おお……」
「落ちないな」
「はい」
リリエラは鉤を見る。
それから俺を見る。
「これ、私の鞄の置き場所ですか?」
「他に今、鞄持ってる人いないからな」
「そうじゃなくて」
わかっている。
「また来た時、床に置かれると油がつくだろ」
「また来た時」
「うん」
「来てもいいんですね?」
そこまで確認するのか。
俺は少し考えた。
考える必要もない気はした。
「来るつもりなんだろ?」
「はい!」
「じゃあ、そこ使えばいいよ」
ぱっと笑った。
その顔は、やはり綺麗だと思う。
困ったものだ。
「ありがとうございます!」
「鞄掛けただけだよ」
「でも、私の場所です」
「鞄のな」
「はい!」
何だか嬉しそうなので、訂正するのはやめた。
壁に小さな鉄の鉤が一つ増えただけだ。
工房が狭くなったわけでもない。
金もほとんどかかっていない。
なのに、少しだけ前と違って見える。
気のせいということにしておく。
外では雨が降っている。
穿孔台は入口に置いたまま。
明日はこれを奥へ動かさなければならない。粉挽き器の軸も直すし、油も買う。
籠も、そのうち作る。
やることは多い。
「キーラさん」
「うん?」
「もう一杯、お茶いいですか?」
やかんを見る。
まだ湯はある。
「いいよ」
「私、淹れます!」
「そうか」
「はい!」
リリエラが立つ。
検査鞄は壁に掛かったままだ。
俺はそれを見てから、炭を一本足した。
雨は、まだしばらく止みそうになかった。
……まあ。
今日はそれでいい。




