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第4話 落ちる先だけ変えればいい

 穿孔台をもう少し動かす。


 荷車の後ろから工房の入口へ渡した厚板の上を、鋳鉄の台は半分ほど滑り出していた。


 ユアンは荷車の左側。俺は右後ろにいる。


 空気が冷たい。雨の匂いが近い。


「先に中へ入れよう」


「はい!」


 ユアンが綱へ手をかけた、その時だった。


 ごり。


 左の車輪が沈んだ。


 敷石が割れ、車輪が穴へ落ちる。


 荷台が左へ傾いた。


 その上の穿孔台も、同じ方向へ滑る。


 低い側にいるのはユアンだ。


「離せ!」


「え――」


 ユアンは反射的に穿孔台へ手を出した。


 鋳鉄の脚が厚板を外れ、彼のほうへ落ち始める。


「手を離せ、ユアン!」


 今度は届いた。


 ユアンが飛び退く。


 俺は反対側――高く残った右後ろから、荷車と工房口の間へ踏み込んだ。


 全部を支える必要はない。


 落ちる向きだけ変えればいい。


 左の義手を荷車の横木へ入れ、肘を固定する。肩を引いた瞬間、鋼索が張り、傾きがほんの一息ぶん鈍った。


 重い。


「ぐっ……」


 左肩に、まともに返ってくる。


 だが、その一息で十分だった。


 右足で木片を蹴る。


 からん、と転がった木片が、まだ高い右輪の前へ噛んだ。荷車の前進が止まる。


 右手の鉄棒を、穿孔台の奥側の脚穴へ差し込む。


 今、重さは左へ落ちている。


 なら、俺が変えるのは先だけだ。


「――こっちだ」


 鉄棒を工房の入口へ引く。


 ごっ。


 鋳鉄の台が鈍く回った。


 ユアンへ向いていた脚が外れ、穿孔台の正面が入口へ振れる。


「ユアン、板! 入口側!」


「は、はい!」


 返事は速い。


 ユアンが厚板を蹴り込む。今度は、人の足元ではなく、穿孔台が落ちる先へ。


 板の端が鋳鉄の脚の下へ滑り込んだ。


「下がれ!」


 ユアンが離れる。


 俺も左腕の固定を解いた。


 がくん、と荷車がさらに左へ沈む。


 穿孔台が落ちた。


 ごんっ!


 鋳鉄の脚が厚板を叩く。


 そのまま一気に滑り、工房の入口へ突っ込んで止まった。


「…………」


「…………」


 雨が一滴、鼻先に落ちた。


「降ってきたな」


「いや」


 ユアンが俺を見る。


「今の、何ですか」


「落ちる先を変えただけ」


「だけって」


 俺は左肩をゆっくり回した。


 痛む。


 さっき横木から返ってきた力が、まだ残っている。


「キーラさん、最初にどこ見てたんです?」


「左の車輪。次にお前」


「荷物じゃなくて?」


「荷物は勝手に重いからな。お前は勝手に逃げない」


「……俺、手ぇ出してましたね」


「ああ」


「止められる気がしたんですよ」


「……覚えがある」


「何ですか、それ」


 すぐにむっとした。


 俺は割れた敷石を見る。石の下に、古い排水路の空洞がのぞいていた。雨で土が流れたらしい。上からではわからない。


「俺のせいじゃないですよね?」


 ユアンが聞く。


「違うよ」


「荷の積み方も?」


「問題ない」


「よかった……」


 肩の力が落ちた。


 そこは気にしていたらしい。


「でも、次から古い路地では車輪の下も――」


「ほら、始まった」


「まだ何も言ってないだろ」


「次から気をつけろって言うつもりでした」


 先回りまでしてくる。


「俺、こういうの嫌なんですよ。何かあるとすぐ、若いからとか経験がないからとか」


「若いから言ってるんじゃない。急いでるから言ってる」


「急いでますよ。来月までに銀貨二枚なんです」


 ユアンは割れた石を靴先でつついた。


「日雇いで呼ばれて、値段も時間も向こうに決められるの、もう嫌なんです。自分で荷主を取って、自分で道を決めて、自分の名前で運びたいんです」


 俺は返事の前に、空になった荷車を一度見た。何も載っていないのに、ユアンの声だけは妙に先へ走っていた。


「うん」


「だから旧染工場も受けます。設備を触る人と俺の仕事は分ける。解体が終わった荷だけ上げる。待たされた時間と階段の分も先に話す」


「そのほうがいい」


「取り分も交渉します」


「そこは頑張れ」


 ユアンが少しだけ眉を寄せた。


「……止めないんですね」


「止めてほしかったのか?」


「違います」


「なら、自分で決めればいい。無茶した時に小言を言うのも、こっちで勝手にやる」


「それは要らないです」


「そうか」


「でも仕事は取ります」


「ああ」


 返事は、もう許可をもらう声ではなかった。


 それでいい。


     ◇


 雨が本格的に来る前に、残りの荷物を工房へ入れた。


 穿孔台に滑車、鉄板、雑材。


 これで工房はさらに狭くなった。


 もともと広くない。


 作業台と棚と寝床、炭、修理待ちの道具。


 そこへ鋳鉄の塊が一つ増えた。


「寝られます?」


 ユアンが聞いた。


「たぶん」


「たぶんなんですか」


「夜になれば考えるよ」


 先に仕事をする。


 未来の俺には悪いが、いつものことだ。


 荷運びの分は廃材屋から出るらしい。


 ただ、雨の前に全部中へ入れてもらったので、俺からも追加で銅貨を三枚出した。


「いいんですか?」


「手伝ってもらったからな」


「でも、これ」


「少ない?」


「いえ! もらいます!」


 速かった。


「登録の受験料にするのか」


「はい」


「なら使うなよ」


「飯は?」


「飯は食え」


「ですよね」


 そこは大事だ。


 ユアンはもらった銅貨をもう一度数えた。


「今日のこれ、雨前の急ぎで積み下ろしまでやったでしょう」


「やったな」


「次から、最初に急ぎ分も言います。積み下ろしまで入るなら、その分も」


「急に商売人みたいだな」


「請負で食うなら要るでしょう?」


「まあな」


「廃材屋の親父にも言います。急ぎは高いって」


「俺からもらった三枚を値上げの根拠にするのか」


「実績です!」


 返事が速い。


 こういう勘定なら、俺より向いている気がした。


「じゃあ、行きます!」


「ああ」


「ありがとうございました!」


「こっちこそ」


 ユアンは空になった荷車を引いて、路地を戻っていった。


 角まで行ったところで、細い下り坂のほうへ車輪を向ける。


「そっち、雨だと滑るぞ」


 背中へ言うと、ユアンが振り返った。


「空荷ですよ」


「聞いてない」


「近いんです」


「それも聞いてない」


 ユアンは二歩だけ坂へ入り、さっき割れた敷石のほうを見た。


 それから、露骨に嫌そうな顔で荷車を引き戻す。


「……今日は大通りにします!」


「好きにしろ」


「次は近道使いますからね!」


「それも好きにしろ」


 言い返してから、今度は大通りのほうへ消えていった。角を曲がる直前まで、荷車の車輪はきちんと乾いた側を通っている。


 俺は左肩をゆっくり回した。


 まだ痛い。


 滑る坂を避けろと人には言って、自分は鋳鉄台を受けた。次に顔を合わせた時、そこまで思い出されたら面倒だなと思って、少し笑った。



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