第21話 明日の昼
足踏み板を切る。
鋸を引いて、戻し、また引く。乾いた木の粉が、作業台の下へぱらぱらと落ちた。
板自体は、昔使っていた棚の一部だ。棚としては歪んで使えなくなったが、足で踏む板なら多少曲がっていても困らない。
世の中には、使えなくなったものと、別の使い道が見つかっていないものがある。
機工師を長くやっていると、後者ばかり増える。だから工房が狭い。
捨てずに取っておく俺にも、少しは責任がある。
板を合わせ、足で踏めるところまで組む。
最後に戻しのばねを掛けて踏んだ。
途中で、足裏へ強く押し返してくる。
「……強いな」
ばねを外す。
少し位置を変えて、もう一度。
今度は踏んだぶんだけ素直に沈み、足を離すと板が戻った。革帯が走り、上の刃が回る。
「お」
もう一度踏む。
戻る。
もう一度。
今度も同じだ。
強く踏めば少し癖は出る。直すところはまだある。
それでも、材料を押さえたまま刃を回せる。
俺は少し離れて穿孔台を眺めた。買ってきた時より、ちゃんと道具らしくなっている。
「……悪くないな」
誰に聞かせるでもなく言って、それからもう一度だけ踏んだ。
意味はない。
動くものは、動かしたくなる。
◇
翌日。
穿孔台は朝から働いた。
ベルダから預かった罠の軸を作るためだ。四本頼まれているが、期限は来週で、急ぎではない。
だから二本だけ削った。残りは明日でもいい。
急ぎではないものまで今日終わらせようとすると、結局どこかで無理が出る。最近になって、ようやく少しだけ学んだ。
昼を過ぎてからは古い鍋の取っ手を直し、夕方には近所の男が持ってきた荷紐の留め金を一つ交換した。
銅貨が何枚か増えた。それくらいの日だった。
陽が傾き、そろそろ夕飯のことを考えるかと思った頃、扉がどんどんと鳴った。
「開いてるよ」
少し間があって、扉が開く。
「こんばんは、キーラさん」
リリエラだった。
「こんばんは」
仕事帰りらしい。髪は肩へ下ろしているが、胸元には職員章がある。片手に検査鞄、もう片方には小さな紙袋を持っていた。
「今日は南部出張所じゃなかったんだろ?」
「はい。本部でした」
「聞いたよ」
「昨日、来てくださったんですよね」
「納品にな」
「会えなくて残念でした」
素直にそう言われて、俺は少し返事に困った。
「……そうか」
「はい」
リリエラが笑い、それから壁へ目を向けた。以前、彼女の検査鞄用につけた鉄の鉤がある。
「使っていいですか?」
「そのためにつけたんだよ」
「そうでした」
鞄を掛ける。何度か使っただけなのに、もうそれが自然に見えた。
「それで、今日は何か用事か?」
「ああ、これです」
リリエラが紙袋を少し持ち上げる。
「お茶菓子です」
「仕事じゃないのか」
「違います。来たかったので」
また普通に言われた。
この女は、こういうところが強い。
俺なら、もう少し余計な言葉をつける。近くまで来たからとか、ついでだとか、何となくだとか。
大人だからそうするのだと思っていた時期もあったが、結局は逃げ道を用意していただけなのだろう。
「じゃあ、茶にするか」
「はい」
湯を沸かす。
俺の家では魔導湯沸かし器は使えないので、炭に火をつける。朝の火種がまだ残っていた。少し炭を足して風を送り、鍋に水を張る。
こういう時、魔力があれば起動板へ触れるだけで済む。リリエラなら数秒だが、俺は何分かかける。
彼女は手を出さなかった。
手伝えないわけではない。ただ、俺がいつもこうしているのを知っているからだと思う。
椅子に座って、紙袋を開いていた。
「何それ」
「焼き菓子です。胡桃が入ってます」
「高そうだな」
「二つだけですから」
「二つ?」
「キーラさんと私の分です」
「ああ。そういう数え方か」
湯が沸いた。
茶葉を入れ、二つの杯へ注ぐ。リリエラの前へ一つ、俺の前へ一つ。焼き菓子も二つ。
しばらく、二人で食べた。
「おいしいですか?」
「うまいよ。お前が作ったの?」
「買いました」
「そうか」
リリエラが俺の顔を見て、少し笑った。
「少し残念そうですね」
「そう見えた?」
「はい」
「じゃあ、少しだけ」
「ふふ」
胡桃が多く、甘さは控えめだ。確かにうまかった。
「明日は休みなんです」
リリエラが言った。
「そうなのか」
「はい。本当は今日も少し早く上がれたんですけど、棚卸しが残ってしまって」
「もう終わった?」
「終わりました」
「ならよかった」
「明日は洗濯して、買い物をして……それくらいです」
「休みの日まで忙しいな」
「キーラさんは、お休みの日は何してるんですか?」
聞かれて、少し考えた。
「……仕事?」
「それ、お休みじゃないですよ」
「依頼がなければ、自分のものを直したりするな」
「今日もですよね」
リリエラが穿孔台を見る。昨日つけた足踏み板が、そのまま残っている。
「完成したんですか?」
「一応な」
「見てもいいですか?」
「いいよ」
リリエラは立ち上がり、穿孔台の前へしゃがんだ。
革帯、連結棒、足踏み板、ばね。一つずつ目で追っていく。
前なら、すぐに触っていた気がする。最近は先に見るようになった。仕事のせいかもしれない。
「これ、踏むと回るんですよね」
「うん。こうだ」
俺が踏むと、軸が回る。
「わあ」
その声は、仕事中の彼女のものではなかった。
「これならお一人で使えますね」
「前も一人で使ってたよ」
「すごく忙しそうでしたけど」
「見てた?」
「雨の日に」
「ああ。そうだったな」
「便利になりましたね」
「少しな」
「よかったです」
なぜか本人より嬉しそうだった。俺も悪い気はしない。
「リリエラ」
「はい?」
呼ぶと、彼女がすぐこちらを見る。
明日は休み。洗濯と買い物くらい。さっき聞いた予定が、妙に頭へ残っていた。
今日は、用事があるから来たわけじゃないと本人に言われたばかりだ。
なら俺も、用事を待たずに呼べばいい。
「明日、昼ここで食わないか」
リリエラの手が止まった。
「……私が来てもいいんですか?」
「来てほしくなければ聞かないよ」
一拍置いて、表情がぱっと明るくなる。
「行きます」
「即答だな」
「キーラさんが誘ってくださったんですよ?」
「そうだけど」
「行きます」
二度目は少しゆっくりだった。
その返事を聞いたら、明日の昼が急に具体的になった。
「じゃあ、昼前くらいに。買い物するなら少し早くてもいい」
「一緒に行っていいんですか?」
「俺はそのつもりだけど」
「……はい」
今度の返事は小さかった。頬が少し赤い。
俺も少し笑う。
「じゃあ決まりだな」
「はい」
リリエラが焼き菓子の残りを口へ運ぶ。
俺も茶を飲んだ。少し熱かった。




