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第20話 風呂、酒、寝床

 市場の端の食堂は、朝の人波が引いて昼の客が来る前だった。


 ベルダは羊肉の煮込みと黒パン、それに小さな香辛酒を頼んだ。


「酒も?」


「契約取れた」


「祝いか」


「喉が乾いた」


「そっちか」


 俺は豆の煮込みとパンにした。


「肉なし?」


「値段」


「知ってる」


 ベルダは厚い仕事上着を脱いで、長椅子の背へ掛けた。腰の道具帯も外し、肩を一度ゆっくり回す。


 さっきまで倉庫の壁際で張っていた背中が緩み、低い声も少しだけ柔らかくなる。


「生き返る」


 香辛酒をひと口飲んで言う。


「まだ昼前だぞ」


「私には昼」


 夜から働いていたのだから、そういうものかもしれない。


 煮込みが来る。


 俺の皿には、豆と根菜、それに赤い辛漬けが少し。ベルダのほうは羊肉が多い。


 俺が辛漬けを皿の端へ寄せると、ベルダの匙が伸びてきて、そのまま自分の皿へ持っていった。


「取るのか」


「食わないだろ」


「今日は食うかもしれない」


「七年見てる」


「長いな」


 代わりに、ベルダは自分の煮込みから脂の多い肉を一切れ、俺の皿へ落とした。


「これは?」


「いらない」


「そうか」


 もらう。


 礼を言うほどのことでもない。俺も次にパン籠が来た時、焼き色の濃いほうをベルダの前へ置いた。ベルダは何も言わず取る。


 そんな調子で食事が進んだ。


 仕事着を脱いだからといって、別人になるわけではない。愛想が急に良くなるわけでも、口数が増えるわけでもなかった。


 ただ、匙を運ぶ手が少しゆっくりになり、香辛酒を飲むたび肩の位置がわずかに下がる。仕事場では革と泥に紛れていた真鍮の耳飾りや首筋も、今は普通に目に入った。


 見慣れた相手なのに、こういう時だけふと目が止まることがある。


 俺は自分の皿へ視線を戻した。


「部屋、今日から使う?」


「午後に罠箱だけ移す」


「そのあと仕事?」


「しない」


 珍しい。


「寝る?」


「風呂」


「寝ろよ」


「風呂入って、酒買って、寝る」


「今飲んでるだろ」


「これは飯」


「違いがわからん」


「ある」


 ベルダは酒杯を持ったまま、片方の口角を上げた。


「屋根も直すんだろ?」


「来週。家主に言った」


「動いたな」


「一年分あるって言ったら動いた」


「現金だな」


「大家だから」


 それで済ませる。


「仕事、減らす?」


「夜の呼び出しは減らす」


「嫌になった?」


「罠師はやめない」


 ベルダはパンを煮込みへ浸した。


「仕掛けて、次の日に何が掛かったか見るのは好き」


「そこなんだ」


「でも、寝ようとした時に呼ばれるのは嫌」


「それはわかる」


「月に何回かは、夜に仕事入れない」


「何するんだよ」


「風呂。酒。寝る」


「今日と同じじゃないか」


「いいだろ」


「いいけど」


 そこでベルダが小さく笑った。声は上げない。


 こういう暮らしを欲しがっていたのなら、一年分の仕事を取った意味もわかる。金だけではない。明日の夜を空けるかどうか、自分で決められる。


 俺は肉を食べた。


「うまいな」


「それ、私のだった」


「くれたんだろ」


「うん」


「じゃあ俺のだよ」


「そうだな」


 七年付き合っていても、会話は大体こんなものだった。


     ◇


 食べ終えると、ベルダは仕事上着を着直した。道具帯を締め、短槍を肩へ掛ける。


 さっきまで長椅子で酒を飲んでいた女が、また市場の罠師になる。


「罠箱移したら風呂?」


「うん」


「寝ろよ」


「二回言った」


「寝てないからな」


「キーラも肩休めろ」


「もうだいぶいいよ」


「三回目やったら笑う」


「何を」


「痛めるの」


「笑うなよ」


 ベルダは答えず、少しだけ口元を上げた。


「じゃあ来週。軸」


「ああ。四本な」


「忘れるな」


「昨日の留め具も四つだったんだよ」


「知らない」


「そうだな」


 ベルダは片手を上げ、市場の風呂屋がある通りへ歩いていった。


 仕事上着も短槍もいつものままだが、さっきより肩は少し落ちて見えた。罠箱を移したら、今度こそ風呂と酒と寝床だろう。


 俺は平鉄の店へ行った。


 値段を見る。


 高い。


 買わなかった。


 細いばねだけ買う。


 足踏み板に使う木材は、工房にある端材で何とかなりそうだ。


 帰り道。


 籠の中にはばねと、ベルダから預かった曲がった軸。


 財布には今日の納品代が入っている。


 朝より少し重い。


 ただし、帰りに野菜を買う予定なので、また軽くなる。


 財布というのは忙しい。


 俺よりよく出入りしている気がする。


 無光街へ戻る。


 共同井戸では誰かが水を汲んでいた。


 ポンプは動いている。


 ぎい、ぎい、と鳴りながら、水が出る。


 俺は少しだけ見て、そのまま通り過ぎた。


 動いているものは、放っておけばいい。


     ◇


 工房へ帰る。


 留め具の置いてあった場所が空いている。


 朝まで四つあったものは、もうない。


 納品したからだ。


 代わりに、ベルダの罠の軸が二本ある。


 また仕事が増えた。


「……よし」


 悪くない。


 細いばねを穿孔台の横へ置く。


 今日は足踏みの続きを少しやろう。


 その前に、曲がった軸を見る。


 期限は来週。


 急ぎではない。


 材料箱を開けると、同じ太さの鋼棒があった。


「あるな」


 これなら材料を買い足さずに済む。鋼棒を一本出して、曲がった見本へ重ねる。太さは合う。


 俺は二本まとめて作業台の端へ置いた。期限は来週だ。今日やる理由はない。


 穿孔台の前へ座り、足踏み板に使えそうな木を出した。


 少し長い。


 切ればいい。


 位置を合わせて、右足を置いてみる。


「……こんなものか」


 もう少し前。


 こっちのほうが踏みやすい。


 印をつけ、鋸を持つ。


 外はまだ明るい。


 夕飯までは時間がある。


 急ぎの仕事も、今日はもうない。


 だから、自分の道具を直す。


 誰かの来月が少し決まって、俺の明日もだいたい決まっている。


 そういう日だった。


 悪くない。


 鋸を引く。


 乾いた木の音が、工房に響いた。




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