第2話 もう一本の炭
弁を戻し、蓋を閉める。ここが少し面倒だった。
新しい紙パッキンを合わせて右手でねじを入れたいが、そうすると蓋を持つ手がない。左手は蓋を支えられても、パッキンと蓋を別々に細かく押さえることまではできない。
「リリエラ」
「はい?」
「蓋を持ってくれるか」
「はい!」
彼女がすぐ隣にしゃがんだ。
俺が義手でパッキンを押さえる。
その上に、リリエラが蓋を重ねる。
「もう少し上」
「このくらいですか?」
「少し右」
「はい」
「ああ、そこ」
穴が合ったところで、右手でねじを一本入れる。続けて二本目、三本目。
これで落ちない。
「もう大丈夫」
「はい」
リリエラが手を離す。
その指先が、義手の甲に少し触れた。
何も感じない。当然だ。俺の左手には触覚がない。
彼女も一瞬だけ義手を見た。
でも、何も言わなかった。
それでいい。
俺は残りのねじを、締めすぎないように留めていく。
昔、一度やりすぎて翌月の自分が随分苦労した。ああいうのは、腹を立てる相手が自分しかいないので困る。
「よし」
最後に補助器を戻す。
「試すか」
起動板を見る。魔力を流せば動くが、俺にはできない。
「私がやります!」
リリエラが手を上げた。
「ゆっくりな。最初は弱く」
「はい!」
起動板に手を置くと淡い光が走り、内部の補助機構が低く唸った。
最初に出た水は濁っていたので捨てる。もう一度動かすと、今度は太い水がごぼっ、と吐出口から出た。
「あっ」
リリエラが笑った。
「出ました!」
「うん。出たな」
もう一度試す。今度は最初から水が続いた。
ネサがすぐに桶を差し出した。
「前より出てないかい?」
「前が悪かったんじゃないか」
「前もあんたが直したんだけど」
「……そうか」
では、前の俺が悪かったのかもしれない。
まあ、今出ているならいい。
桶が満ちると、待っていた人間たちが動き始めた。洗濯物が洗い場へ運ばれ、誰かが鍋へ水を汲む。
ネサも桶を持って店へ戻っていった。しばらくすると、包丁の音が聞こえ始める。
ただ、水が出ただけだ。
だが、水が出ると朝が始まる。
止まっていた人間が、それぞれ勝手に自分の仕事へ戻っていく。
俺はこういうのを見るのが、わりと好きだった。
「キーラさん」
「うん?」
「私、そろそろ戻ります。残りの点検もあるので」
「ああ。調整器も持っていかないとな」
リリエラは検査鞄を持ち直した。
「あ、さっきの調整器なんですけど」
「うん」
「出張所では、何て言えばいいですか?」
「止めたあとに機械側が噛む。現物も持ってくだろ」
「はい」
「なら、それで伝わるよ」
「わかりました」
「では、行ってきます!」
「ああ」
「また後で来てもいいですか?」
「後で?」
「検査が終わったら」
少しだけ考える。
別に、困ることはない。
「……まあ、いいよ」
「本当ですか?」
「工房にいると思う」
「はい!」
嬉しそうに笑う。
俺だって、その笑い方をただの仕事相手に向けるものだとは思っていない。
だから少し困る。嫌ではないから、なおさらだ。
「じゃあ、終わったら寄ります」
「ああ。無理に急ぐなよ」
「はい!」
リリエラは今度こそ路地の奥へ向かった。走り出しかけて、鞄が揺れるとすぐ少し早足に直す。
角へ消える前に一度こちらを振り返ったので、右手を軽く上げる。向こうも手を上げ、そのまま行った。
俺は工具箱へ目を戻した。
◇
「さて」
工具を片づけていると、ネサが戻ってきた。
小さな巾着を右手に落とされ、軽い音がした。
中身を見ると、細かい硬貨が何枚か入っている。
「これだけ?」
「共同設備だよ。みんなからまともに取れると思うかい」
「思わないけど」
「ならいいだろ」
「はいはい」
数えてみると、材料費を引けば大した額ではない。朝飯が少し良くなるくらいだ。
まあ、そんなものだろう。
俺が直さなければ、この辺りの誰かが困る。
かといって、別に善人というわけではない。
俺もここで暮らしているし、水が出ないと困る。
それに。
「ほら」
ネサが紙袋を差し出した。
「卵四つ。葱。昨日の鶏」
「昨日の?」
「今日食べるなら平気だよ」
「……本当か?」
「火を通しな」
受け取る。
こうして食い物になるのだから、金にならない仕事と言っても完全に何も残らないわけではない。
無光街では、金の代わりに卵が動くこともある。
野菜だったり、パンだったり、たまに酒だったりする。
そういうので結構暮らせる。
「保冷庫、早めに直したほうがいいんじゃないか」
「だから冬までに頼むって言ってるだろ」
「部品代はかかるよ」
「貯めてる」
「そうか」
「あんたへの修理代を値切ってね」
「……まあ、いいか」
巡り巡って、俺が損をしている気がする。
気のせいかもしれない。
紙袋を左手で持とうとして、やめた。卵が入っている。
義手は握れるが、加減は得意ではない。卵四つを握るには向いていなかった。
「どうした?」
「いや」
工具箱を地面に置いて中に布を敷き、卵を一つずつ右手で入れる。葱は横へ、鶏肉は紙袋のまま収めた。
これなら運べる。
ネサが見ていた。
「籠を買えばいいだろ」
「そうなんだけどな」
「前も言ったよ」
「聞いた気がする」
「作るって言ってなかったかい」
「言った気もする」
「いつ作るんだい」
少し考える。
「暇になったら」
「一生作らないね」
そうかもしれん。
◇
工房へ戻る。
左手に工具箱を持つ。少し重くて肩にくるが、両手で何も持てなかった頃に比べれば随分ましだ。
工房に入る。
小さな作業台と古い棚。修理待ちの鍋や時計があり、奥には寝床がある。棚の裏には、長い油布の包みが一本、客から見えないように押し込んである。時々油だけ引くが、置き場所はもう何年も変えていない。
立派ではないが、雨漏りはしない。炭もあるし、水も出る。
俺には十分だった。
工具箱を机に置き、卵を一つずつ取り出す。
一つ、二つ、三つ、四つ。
全部無事だ。
「……よし」
何となく嬉しい。
朝からポンプを直した時より、卵四つを割らずに持ち帰ったほうが達成感がある気もする。
機工師としてどうなのか。
まあ、いいか。
炭を起こし、小鍋に水を入れる。ネサからもらった鶏肉と葱を切って放り込んだ。
水は、さっき直した共同ポンプのものだ。火が回ると、小さく湯気が上がる。
外から、誰かがポンプを使う水の音が聞こえた。
今度は途中で細くならない。ちゃんと出ている。
その向こうから、リリエラの声も聞こえた。
「はい! では、次にお湯を出しますね!」
検査を続けているらしい。
俺は卵を一つ、小鍋の縁で割った。
右手なら問題なくできる。白身が落ち、黄身もきれいに落ちた。
悪くない。
今日の稼ぎは細かな硬貨に、卵四つと葱と鶏肉。
大したものではない。昔の俺なら、一日の稼ぎとは呼ばなかったかもしれない。
冒険者をしていた頃は、一度の仕事で今の何十日分も稼ぐことがあった。
鍋が煮える。
外で、また水の音がした。
ネサの店は昼の仕込みに間に合ったらしい。近所の人間は洗濯を始め、少し向こうではリリエラが検査を続けている。
俺は椅子に座って、朝飯を食べ始めた。
卵は割れなかった。水も出ている。
昼過ぎになれば、リリエラがまた来るかもしれない。仕事が長引けば、来ないこともあるだろう。
来たら茶くらいは出そう。
炭から火を起こすので少し面倒だ。
それでも、もう一本くらいなら炭を使ってもいいと思った。




