第1話 水が出ない朝
朝、水が出ない。
それだけで、人間というのは結構困る。顔が洗えないし、飯も作れない。洗濯もできないし、店をやっている人間なら仕込みにも響く。
この世界では、水道にも魔力を使う。
蛇口に触れて魔力を流せば、地下の給水管から水が上がってくる。井戸まで桶を持って歩く必要もない。
便利なものだと思う。
俺には使えないが。
だから無光街には、今でも共同の井戸とポンプが残っている。
無光街というのは、この辺りの俗称だ。王都の魔導街灯を入れ替えた時、この古い外れだけ幹線から外れ、夜になると大通りの灯りがここで途切れた。それでそう呼ばれるようになった。
家賃が安く、手で動かす古い設備も残っている。世捨てには暮らしやすいが、魔力持ちも普通に住んでいる。共同ポンプもその一つだ。水道代が惜しい者や古い家に住む者、老人、何となくここに流れ着いた者も使う。
「キーラ」
工房の扉を開けると、ネサが立っていた。短い灰色の髪に太い前掛け。惣菜と食材を売っている女で、俺より十ほど年上だったと思う。
「水が出ない」
「おはよう」
「おはよう。水が出ない」
挨拶はした。
「まったく出ないのか?」
「出る。ちょろちょろ」
「それは一番面倒だな」
完全に壊れているなら、みんな諦める。
少し出ると、待てば何とかなると思って桶を並べる。
その結果、井戸の前に人が溜まる。
工房の外へ出てみると、案の定だった。
共同ポンプの前に桶が並んでいる。
洗濯物を抱えている人間もいた。
ネサが低い声で続ける。
「野菜が洗えない。鍋も洗えない。昼に間に合わない」
「はいはい」
「あと午後から雨」
「それは俺には直せないよ」
「知ってる」
工具箱を取り、木箱の持ち手を左手で挟む。
褪せた濃色の仕事着は、左肩だけ革帯に引かれて少し形が違う。邪魔になった前髪を右手でかき上げる。短くしている焦げ茶の髪には、最近、白いものが少し混じるようになった。
俺の左腕は義手だ。左肩から先が木と鉄と革、それに鋼索でできていて、肩や胸、背中の動きを鋼索に伝えて肘と手を動かす。
指はまとめて開くか閉じるかだけで、細かな加減は利かない。細いねじを回したり、小さな部品をつまんだりするのは右手の仕事になる。
魔力があれば、もっといい義手が使える。
考えただけで指が動くものもあるし、金をかければ触った感覚まで返してくれるらしい。
いい時代である。
俺には使えないが。
七年前に魔力回路を失ってから、この辺りの便利なものとはあまり縁がない。
魔力回路がない人間は、世捨てと呼ばれる。大半は生まれつきで、俺のように後から失うのは少ない。
ないのは魔力だけだ、と言えばその通りではある。
ただ、水道も扉も、仕事場の道具も、義手みたいな補助具まで魔力前提で作られている。使えないものが一つ増えるたび、住める場所や選べる仕事も少しずつ減る。
まあ、ないものは仕方がない。なければ別のやり方を考える。
今の仕事も、大体そんな感じだった。
◇
共同ポンプは、洗い場の脇にある。
鋳鉄製の古い揚水機に、後から魔力補助器を足したものだ。
魔力を持っている人間なら、起動板に手を当てれば軽い力で水を汲める。
世捨てなら、補助を切って手動で動かせばいい。どちらでも使える。
こういうものは好きだ。誰にでも使える道具は、だいたい性格がいい。
「昨日からか?」
「夕方には少なかったね。今朝はもっと悪い」
「変な音は?」
「知らないよ。水を出すものの音なんていちいち聞いてない」
「そうか」
まあ、普通はそうだろう。
機械の音をいちいち気にして飯を食っているのは、俺みたいな人間だけだ。
補助器を切り離し、手動の操作桿を差す。
一度動かすと軽い。二度目で、吸い上げが遅いのがわかった。
吐出口から出てきた水は、確かに細かった。
「補助器じゃなさそうだな」
「部品、高い?」
「まだわからん。安いところだといいな」
「それはこっちの台詞だよ」
ネサは金に厳しい。別にけちなわけではなく、必要なものには払うし、必要でないものには払わない。
それだけなので、俺としても同情で金をもらうより話が早い。
点検蓋の前にしゃがむ。前に開けた時についた傷がねじ頭に残っていて、他の誰かが触った様子はない。継ぎ目から水も漏れていなかった。
なら、内部だ。
右手でねじを緩めようとするが、固い。左の義手で蓋を押さえて力を入れても動かない。
もう少しやれば回りそうだったが、やめた。
こういう時に無理をすると、大抵あとで自分が困る。
壊れたねじを直すのも俺だからだ。
「油を使うか」
「持ってくる」
「食用じゃないぞ」
ネサが足を止めた。
「……わかってるよ」
「そうか」
たぶん今、食用油を持ってこようとしていた。
俺は工具箱から浸透油を出した。
◇
「キーラさん!」
聞き慣れた声に顔を上げると、路地の入口からリリエラが歩いてきていた。
肩までの金髪に、検査鞄と書類筒。朝からよく通る声だ。
「キーラさん! これ見てください!」
「おはよう」
「あっ」
立ち止まる。
「おはようございます!」
「うん。おはよう」
それから、また鞄を開けた。
最近、何度か仕事で顔を合わせているが、大体こんな感じである。
リリエラは二十七歳。冒険者ギルドの魔道具管理員で、ギルドが扱う魔道具の点検と使用判断をしている。
今日は地区境の出張所で備品を見ていて、その途中で俺のところへ寄ったらしい。
「これなんですけど」
取り出したのは、小さな金属筒だった。
「出張所の給湯器から外した調整器です。魔力側の検査は正常なんですけど、お湯を止めた後に一回だけ変な音がして」
「どんな?」
「カン、って」
「……カン」
「はい」
受け取ろうとして、左手を止める。細い部品だ。
義手でつかめないことはないが、落とす可能性がある。
「そこに置いてくれ」
「はい」
工具箱の蓋に置いてもらう。
右手で転がす。
外側に大きな傷はない。
接続口も曲がっていない。
「変な音がしたのは、止めた時だけ?」
「はい。一回だけです」
「じゃあ中を見る」
「封印は私が開けます」
「頼む」
リリエラが認証針を取り出す。先端に触れると淡い光が走り、封印帯が外れた。
外板が開く。
細い棒を差し込んで一度押す。二度目。
三度目へ行く前に、手が止まった。
戻ってくる力が、ほんの少しだけ片側へ逃げている。
同じところまで、もう一度。
今度も同じだった。
「ここだな」
「魔力側じゃない?」
「ああ。止める側が噛みかけてる」
リリエラが覗き込む。
「今は動いてるけど、このまま使うのは?」
「俺なら止める。止めたつもりのあとで熱湯が出たら嫌だろ」
「嫌です」
返事はすぐだった。
「交換にします。出張所で確認してもらいます」
「うん」
リリエラはもう金属筒を戻す手つきに切り替わっていた。
「まだ点検、残ってるんだろ?」
「あと二件です」
「昼過ぎまで?」
「はい。頑張りますっ!」
「そうか」
元気だな。
俺なら、あと二軒あると聞いただけで少し疲れる。歳のせいだろうか。
……いや。若い頃から、書類仕事は嫌いだった気もする。
◇
油が回ったところで、もう一度ねじを回す。今度は動いた。
四本のうち三本を外し、最後の一本を残す。左の義手で蓋を支えながら、右手で最後を抜いた。
「……よっ、と」
肩を引くと鋼索が張り、肘が曲がって重い蓋が外れた。
少し肩にくる。
義手そのものは痛くない。
ただ、力を受けるのは肩や胸や背中だ。
金属の腕だからといって、人間まで金属になったわけではない。
「大丈夫ですか?」
「うん。これくらいなら」
奥を照らすと、黒いものが見えた。
鉗子でつまんで引き抜く。先のねじれた細い鉄片だった。
「これ、何ですか?」
「桶か樽の箍だな」
いつの間に戻っていたのか、ネサも覗き込んだ。
「井戸の中に落ちたのかい」
「たぶん。ここへ噛んでた」
鉄片には新しい擦れ跡がついている。
ネサが桶の列を見ると、何人かが何となく別の方向を見た。
「まあ、いいよ。次から割れた桶は使わないことだな」
「店で箍を売ろうかね」
「商売が早いな」
「冬までに保冷庫を直す金を貯めなきゃならないからね」
「あれ、まだ使ってるのか」
「使ってるよ」
「よく保つな」
「だからあんたに頼むんだよ」
「……まあ、冬までなら」
……覚えておこう。
鉄片が当たっていた場所を指で確かめ、細いやすりを二度だけ当てる。
そこで止めた。
「もう終わりですか?」
「これ以上やると、俺が壊す」
リリエラは小さな傷と、もう工具を置いた俺の手を見比べた。
俺は蓋を戻すことにした。




