第17話 受験料の革袋
革帯に印をつけたあと、少し長めに切った。
短いものは伸ばせないが、長いものなら詰めればいい。
若い頃は、こういう当たり前のことを何度か失敗して覚えた。剣の鞘紐だったり、荷を吊る鋼索だったり。
たぶん、人間は何でも一度くらい無駄にしないと覚えないのだと思う。
俺だけかもしれない。
穿孔台へ昨日買った革帯を掛ける。
一度留めて輪を回すと、張りが甘い。
「……ここか」
留める位置を一つ詰める。
もう一度。
今度は革帯が素直に走り、上の刃まで一緒に回った。昨日より音も軽い。
「よし」
まだ足で回せるところまではできていない。
続きはある。
でも、明後日の昼までに出張所へ留め具を四つ納める仕事もある。
今はそっちが先だ。
仕事というのは、やりたい順にできるとは限らない。むしろ、できないことのほうが多い。
俺は材料箱から薄い鉄板を出し、昨日、出張所から持ち帰った古い留め具を置いた。
形を写して切る。曲げて、爪を起こす。
一つ、二つ。
三つ目の途中で手が止まった。
「……足りないな」
鉄板が終わった。
端材を寄せれば小さいものなら作れるが、今回の留め具には幅が足りない。
必要なのは四つ。
今あるのは二つと半分だ。
明日の朝に材料を買いに行けば、期限には十分間に合う。無理に継いで作るものでもない。
俺は途中まで切った板を材料箱へ戻した。
今日はここまでにする。
肩も少し重い。
昨日よりはましだが、よくなってきた時に余計なことをすると長引く。それも昔、何度かやった。
若い頃の俺は、休めと言われると「動けるから大丈夫だ」と答えた。
今ならわかる。
動けるのと、動いていいのは別だ。
……年を取ったものだ。
悪い意味ばかりでもない。
炭を起こすのも面倒だったので、夕飯はパンと塩漬け野菜で済ませた。
明日は鉄板を買う。
できれば安いやつ。
それだけ決めて、寝た。
◇
翌朝。
南市場は、朝から金属の音がしていた。
荷車の車輪が鳴り、鉄材が積み下ろされ、店を開ける板戸が軋む。食材を扱う通りより声が低く、油と錆と濡れた木の匂いがする。
俺は中古の籠を右手に提げ、鉄材屋の前で立ち止まった。
「薄い平鉄。これくらい」
持ってきた古い留め具を見せる。
店の男が棚を探し、少し厚い板を一本出した。
「薄いのは昨日出た」
「明日までに要るんだよ」
「なら削れ」
「簡単に言うなあ」
「機工師だろ」
「客でもあるよ」
言っても薄くはならなかった。
必要な幅へ切ってもらうことにして待っていると、通りの向こうから荷車の音が近づいてきた。
「キーラさん!」
声でわかる。
ユアンだった。
空に近い二輪車を引いている。荷台には縄と古い布、それに短い銅管が二本だけ残っていた。
「おはよう」
「おはようございます。買い物ですか?」
「鉄板。そっちは?」
「旧染工場の地上分、今朝ので終わりです」
少し胸を張る。
「地下は?」
「解体の人が外してからです。俺は外れた荷だけ運びます」
「ああ」
それで十分だった。
ユアンは荷車の取っ手を持ち直した。今日は妙に機嫌がいい。
「何かあった?」
「わかります?」
「声がいつもよりでかい」
「いつもでかくないですよ」
「そうか?」
「そうです」
否定してから、結局自分で口元を緩めた。
「受験料、貯まりました」
「お」
「今から払ってきます。荷運び組合、南市場の向こうなんで」
上着の内側をぽん、と叩く。
「持ってるのか」
「何日か分まとめて。今日は絶対使いません」
「飯は?」
「別です」
「ならいい」
「そこ心配します?」
「飯抜いて荷車引かれても困るだろ」
「誰が困るんですか」
「荷主」
「俺じゃないんですか」
「倒れた本人も困るな」
「順番おかしくないです?」
そんな話をしていた時だった。
人混みの間から、小柄な影が一つ抜けた。
肩がユアンの脇へぶつかる。
「うわっ」
謝る声もない。
少年だった。まだ背の低い、煤けた上着の子供だ。
そのまま二歩、三歩。
ユアンが上着へ手をやった。
「……あ」
次の瞬間、声が裏返った。
「おいっ!」
少年の手に、小さな革袋があった。
「待て!」
ユアンが荷車の取っ手を離した。
「馬鹿、荷車――」
言い終わる前に走っていた。
空荷の二輪車が少し動き、鉄材屋の男が足で車輪を止める。
「追うなら行け! これは見とく!」
「悪い!」
俺は籠を店先へ置いた。
少年は露店の間へ飛び込んでいる。ユアンも同じ隙間へ入った。
人の肩と肩の間を縫い、卓を避け、積んだ木箱の横を抜けていく。
速い。
若いだけはある。
俺は二人の背中を追わなかった。
あの先は香辛料屋の通りで、そのまま走れば人が増える。逃げるなら途中で右へ折れて、荷揚げ場へ抜けるはずだ。
市場の端へ向かう荷車が一台、ちょうど目の前を横切った。
荷台は低い。
一歩乗る。
「おい!」
御者の声を背中で聞き、反対側へ降りる。その勢いのまま柱へ右手を掛け、身体を振った。
市場を区切る低い柵を越える。
左の義手は柱へ添えただけだ。
それでも着地の衝撃が肩へ少し返った。
「……痛いな」
昨日よりはましでも、治ったわけではない。
走る。
荷揚げ場へ続く細道には、木箱と空樽が積んである。正面からなら避けて通るしかない。
低い箱へ右足を乗せ、次の樽の縁を踏む。高いところへ上がる必要はない。向こう側へ身体が落ちるだけの高さがあればいい。
右手を梁へ掛ける。
足を送る。
木箱の列を一つ飛ばして、反対側へ降りた。
その先で、少年が飛び出してきた。
「えっ」
向こうも驚いたらしい。
俺も少し驚いた。
予想より早かった。
少年は一瞬止まり、すぐ左へ向きを変えた。
だが、そっちは荷揚げ場の縁だ。
「そっち行くと落ちるぞ」
聞かなかった。
後ろからユアンの声も来る。
「待てって!」
少年が濡れた板を踏んだ。
足が滑った。
「――っ!」
身体が横へ流れる。
革袋が手から飛んだ。
荷揚げ場の下は、荷車一台ぶんほど低い。死ぬ高さではないが、頭から落ちれば笑えない。
ユアンはすぐ後ろにいた。
右手を伸ばせば、革袋にも届いたと思う。
だが、掴んだのは少年の腕だった。
「うおっ……!」
勢いのまま片膝をつく。
少年の身体が縁の外へ落ち、ユアンの肩ががくんと引かれた。
「離すなよ」
「離しませんよ!」
俺は飛んできた革袋を右手で受けた。
軽い。
中で硬貨が鳴る。
少年は空いた手で板の縁を掴み、靴先を下の横木へ掛けた。
「上がれるか!」
「……っ」
「足、そこ! そう!」
ユアンが腕を引く。
少年の膝が板の上へ戻る。
最後は自分で転がるように這い上がった。
三人とも、その場で一度息をついた。
「……はあ」
最初に声を出したのはユアンだった。
それから少年を見る。
「お前なあ!」
怒鳴った。
少年が肩をすくめる。
「金盗るなよ! こっちは何日働いたと思ってんだ!」
そこは普通に怒るらしい。
俺は革袋を軽く振った。
「これ?」
ユアンが振り向いた。
「あっ!」
「中、見ろ」
投げずに渡す。
今度は両手で受け取った。
口を開き、硬貨を数える。速い。二度数えた。
「あります。全部」
「よかったな」
「本当に……」
そこで少年を見て、また眉を寄せる。
「だからって落ちるなよ。寝覚め悪いだろ」
少年は何も言わなかった。
荷揚げ場の荷役人が二人、騒ぎを聞いてやって来る。そのうち一人が事情を聞き、少年の襟を軽くつかんだ。
「市場番へ連れてく。お前らは?」
「俺はいいです。金、戻ったんで」
ユアンは答えてから、すぐ付け足した。
「いや、よくないです。盗られてます。でも俺、受付行くんで。お願いします」
「わかった」
怒ってはいるが、少年の事情まで聞き出す気はないらしい。
荷役人に任せて、俺たちは元の通りへ戻った。




