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第16話 会わない日の焼き菓子

 ところが、しばらく無光街方面の仕事を外れた。


 人手が足りず、リリエラは本部で別の冒険者向け魔道具を受け持つことになった。


 無光街へ行く用事がなくなる。


 最初の数日は忙しかった。


 扱う道具も人も違い、一日があっという間に終わった。


 慣れない仕事を覚えるだけで精一杯だった。


 だから、最初はあまり気にならなかった。


 ……はずだった。


 それでも、変なことが起きるたびに思った。


 返却された箱の中から、なぜか乾いた豆が一粒出てきた時。


 ――キーラさんに話したら、何て言うだろう。


 昼に買った焼き菓子が予想以上に固くて、歯が負けそうになった時。


 ――これ、キーラさんなら何て言うかな。


 通りの店で、持ち手だけ妙に立派な中古の籠を見た時。


 ――あの人なら、どうして持ち手だけ立派なのかわかるだろうか。


 そんなふうに、何かあるたびに思い出す。


 そして、思い出してから気づく。


 ……ああ。


 今日は、会わないんだった。


 少しだけ、つまらなかった。


 何か大事な用事があるわけではない。


 わざわざ話すほどのことでもない。


 豆が一粒入っていたとか、焼き菓子が固かったとか。


 そんな話、誰にしたところで大して面白くもないだろう。


 実際、キーラだって、きっといつものように短く返事をするだけだ。


 それでも。


 あの人なら、何て言うだろう。


 そう考えてしまう。


 そして、考えた分だけ、実際に聞けないことが少し残念だった。


 無光街へ行こうと思えば、仕事がなくても行ける。


 王都の中だ。遠くはない。


 けれど、今までリリエラがキーラに会うのは、いつも仕事の途中だった。


 巡回の道で。


 井戸のそばで。


 店先で。


 雨の軒下で。


 どれも、偶然だった。


 仕事のついでに顔を合わせて、何となく話をして、それぞれの仕事に戻る。


 それが当たり前だった。


 けれど、今は違う。


 仕事がなければ、会う理由もない。


 用もないのに工房の扉を叩くことは、まだできなかった。


 ……まだ。


 そんな言葉が、自分の中にあることにも気づかないまま。


 ただ、思っていたより残念だった。


 あの人と話す時間が、いつの間にか自分の日常の一部になっていたのだと、会えなくなって初めて知った。


 ある日の昼休み、同僚に焼き菓子を半分もらった。


「これ、南通りの店。最近人気なんだって」


 果物が入っていて、甘すぎない。


 食べた瞬間、キーラはこれをうまいと言うだろうか、と思った。


 あの人なら、どうだろう。


 甘いものは好きだろうか。


 それとも、別のもののほうが好きだろうか。


 そういえば、そんな話はまだしたことがなかった。


 ……今度、聞いてみようかな。


 そこまで考えて。


 ふと、手が止まった。


 今度。


 今度、会った時。


 自分は今、ごく当たり前のように、次に会うことを考えていた。


 会う予定なんて、ないのに。


 仕事で無光街へ行く用事も、まだないのに。


 それでも、また会うつもりでいる。


 また顔を見て。


 また、どうでもいい話をして。


 また、あの少し眠そうな灰緑の目がこちらを向くのを、何となく楽しみにしている。


 ……あれ。


 リリエラは、焼き菓子を見つめた。


 どうしてだろう。


 会えなくなってから、何度もあの人のことを考えている。


 仕事の途中で変なものを見つけると、話したくなる。


 何かおいしいものを食べると、あの人ならどう思うか気になる。


 たった一度、昼ご飯を食べ損ねた話を覚えていてくれたことが、今でも少し嬉しい。


 雨の日に一緒に食べた、冷めた揚げ芋の味を覚えている。


 そして何より。


 あの人が笑った時の顔を、妙にはっきり思い出せる。


 目尻の細い皺。


 ほんの少し緩む口元。


 普段はくたびれて見える灰緑の目が、ふっと柔らかくなる瞬間。


 ……ああ。


 そうか。


 ようやく、わかった。


 昔の冒険者だったから会いたいわけではない。


 すごい人だから話を聞いてほしいわけでもない。


 義手だから気になるのでも、魔力がなくて不便そうだから放っておけないのでもない。


 今のキーラに会いたかった。


 仕事をして。


 安い飯を食べて。


 卵の数で値段を決めて。


 知らないことは知らないと言う人に。


 何でもない話をして。


 また、少し笑ってほしかった。


 あの人の笑った顔を、もう一度見たかった。


 できれば、自分と話している時に。


 ……あ。


「……ああ」


 小さく声が出た。


 同僚が顔を上げる。


「何?」


「いえ。何でもないです」


 何でもなくはなかった。


 全然、何でもなかった。


 むしろ、今まで気づかなかったことのほうが、不思議なくらいだった。


 恋だった。


 リリエラは、手元の焼き菓子を見下ろした。


 思ったより、普通だった。


 もっと大きな出来事で気づくものだと思っていた。


 胸が高鳴るような何かがあって。


 忘れられないような言葉をもらって。


 その瞬間、はっきりと恋に落ちるものなのだと。


 けれど、違った。


 何でもない会話を、少しずつ重ねて。


 何でもないことを、少しずつ覚えて。


 何でもないはずの時間が、いつの間にか楽しみになっていた。


 そして、会えなくなって。


 ようやく気づいた。


 自分は、あの人と話すのが好きだったのだ。


 あの人が笑ってくれるのが、嬉しかったのだ。


 ……あの人が、好きだったのだ。


 実際には、固い焼き菓子を半分食べた昼休みだった。


     ◇


 無光街方面の仕事へ戻る日が決まった時、リリエラは予定を二度見た。


 別に珍しい場所ではない。前にも行っていた地区へ戻るだけだ。


 それでも、その日の朝は少し早く支度をした。


 仕事は仕事だ。


 キーラに会えたとしても、まずはいつも通りでいい。


 それから。


 仕事が終わったあとにも、まだ話したいと思ったら。


 その時は、自分から聞いてみようと思った。


 また来てもいいですか、と。


 まだ一度も、仕事と関係なくあの工房の扉を叩いたことはなかった。


 でも、叩いてみたいとは、もう思っていた。


     *


 本部へ向かうリリエラを見送って、俺も工房へ向かう。


 しばらくして、自分が少し笑っていることに気づいた。


「……何だかな」


 俺なんかと一緒になれば、苦労は増えるだろう。


 魔力のない人間との暮らしは、今の王都では面倒が多い。扉一つ、水一杯。家を借りるにも、仕事をするにもだ。


 俺一人なら、まあ何とかなる。


 七年やってきた。


 誰かを巻き込むとなると、話は別だ。


 そこは今も変わらない。


 ただ、その心配を理由に、彼女の気持ちまで俺が先回りして決めてしまうのは少し違う。


 困ったものだ。


     ◇


 工房へ戻る。


 扉を開けると、穿孔台が相変わらず邪魔をしていた。


「……まだでかいな」


 一晩で小さくなる機械ではない。


 工具袋を作業台へ置き、中から追加で頼まれた留め具の見本を出す。四つ。明後日の昼まで。


 寸法を取り、材料箱を見る。ちょうど使えそうな鉄板がある。穿孔台を使えば、穴開けも少し早い。


 朝は納品だけのつもりだったが、金物の修理と次の仕事まで増えた。


 悪くない。


 革帯を手に取り、長さを合わせる。


 切る前に、一度だけ手が止まった。


 仕事着のリリエラを思い出した。


 髪をまとめて働いていた。工房で見る時より少しきりっとした顔で、それでも俺と話す時はいつものリリエラだった。


 綺麗だった。


 ……まあ。


 それくらいは、思うだけなら別にいいだろう。


 俺は革帯へ印をつけた。


 明後日までの仕事がある。今日の夕飯を買う金もある。


 リリエラはまだどこかで、自分の仕事をしている。


 俺は革帯へつけた印を確かめた。


 次に会うのは、明後日の納品になる。


 それ以上のことは考えず、穿孔台の手回し輪を動かした。


 ごり、ごり。


 昨日より少し軽い。


「よし」


 まずは、こいつからだ。


 工房に小さな作業音が響いた。




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