第15話 何でもない話
それから、無光街を回るたびに顔を合わせるようになった。
毎回ではない。
工房が閉まっている日もあれば、キーラが誰かの家へ修理に出ている日もある。会っても、挨拶だけで終わる日もあった。
それでも、何度か続くと話すことが増えた。
最初は、ただの顔見知りだったはずなのに。
いつの間にか、姿を見つけると自然に声をかけるようになっていた。
ある日は、昼休みに買った平パンが予想より辛かった。
「辛いです」
井戸の脇で水を飲んでいると、キーラが工具箱を持って通りかかった。
「何食ったの?」
「南門の近くの平パンです。職場の人がおいしいって」
「おいしくない?」
「おいしいです。辛いです」
「じゃあ合ってるんじゃないか」
「口が痛いです」
「水いる?」
「あります」
「なら大丈夫だな」
何も解決していない。
ちっとも大丈夫ではない。
それなのに、そう言われると妙におかしくて、また笑ってしまった。
どうしてだろう。
キーラは、別に面白いことを言おうとしているわけではない。
むしろ、本人はごく真面目に話しているように見える。
なのに、この人と話していると、どうでもいいことまで面白くなる。
辛い平パンに負けた昼休みが、何となく楽しい時間になってしまう。
不思議な人だった。
別の日には、出張所で同じ番号札のついた貸出箱が二つ出てきた話をした。
「同じ番号?」
「はい。箱は別なのに」
「片方、札を替えるしかないんじゃない?」
「そうしました」
「解決してるじゃないか」
「でも聞いてほしかったんです」
「そうか」
それだけだった。
あっさりした返事。
けれど、不思議と物足りなくはなかった。
何がすごい話でもない。
役に立つ助言が欲しかったわけでもない。
ただ、聞いてほしかった。
今日、こんなことがあったんですよ、と。
それをキーラに話して、いつものように返事をもらいたかった。
そのことに気づいたのは、言ってからだった。
……あれ。
どうして、わざわざこの人に聞いてほしかったんだろう。
少し考えたけれど、答えは出なかった。
まあ、いいか。
話せて、何だかすっきりしたのだから。
キーラは知らないことを知っているふりはしなかった。ギルドの魔道具管理について聞けば「それはわからん」と言う。逆に、知っていることは短く答えた。
話を大げさに広げることも、無理に気の利いたことを言おうとすることもない。
けれど、こちらが話せば、ちゃんと聞いてくれる。
その気負わなさが、リリエラには心地よかった。
仕事の時間も、いつの間にかいくつか覚えていた。
「今日は午後も仕事だろ?」
「はい」
「じゃあ昼、食う時間あるな」
「あります」
「よかった」
「どうしてキーラさんが安心するんですか」
「前に食い損ねたって言ってたから」
そんなことまで覚えている。
リリエラは、少しだけ言葉に詰まった。
確かに、そんな話をしたことはある。
けれど、何気なく話したことだった。
自分でも忘れかけていたような、そんな小さなこと。
それが、キーラの中には残っていた。
昼ご飯を食べ損ねた、と言ったこと。
午後にも仕事があること。
今日は、ちゃんと食べる時間があること。
そんな些細なことを気にかけてもらえるのが、何だかくすぐったかった。
大事に扱われている、と大げさに思ったわけではない。
きっと、この人にとっては何でもないことなのだろう。
ただ、自分が話したことが相手の中に少し残っている。
それが、嬉しかった。
自分でも不思議なくらいに。
◇
雨の日、リリエラは軒下で足止めされた。
その日の魔道具点検は終わっていたが、出張所へ戻るには少し強すぎる雨だった。
工房の向かいの軒下に立っていると、キーラが中から出てきた。炭の灰を捨てに来たらしい。
「濡れてるな」
「まだ濡れてません」
「走る気か」
当たっていた。
「……いけませんか?」
「俺なら行かない」
「キーラさんなら?」
「昔なら行った」
「今は?」
「靴が乾くまで面倒だから待つ」
それが妙に現実的だった。
工房へ入れとは言わなかった。代わりに、軒下の端へ古い木箱を持ってきて、座れる向きへ裏返した。
「ここ、雨入らないよ」
「ありがとうございます」
「俺のじゃないけど」
「誰のですか?」
「廃材屋のだと思う」
「返してくださいね」
「見つかったらな」
キーラは自分も入口の段差へ腰を下ろした。
近くで見ると、思っていたより細い人ではなかった。服の上からはすっきり見えるのに、右肩から背中、腰へかけて、長く身体を使ってきた人の厚みがある。立ち上がる時も腕で身体を押さず、脚と腰で静かに重さを運んだ。
目尻には細い皺があり、ぼんやり雨を見ている時は少し眠そうだった。
ところが、通りで荷車の車輪が石に乗り上げた瞬間だけ、灰緑の目がそちらへ鋭く向いた。
荷は崩れなかった。
キーラも何もしなかった。
すぐにまた、雨へ視線を戻す。
「今、何かありました?」
「いや。荷が少し傾いただけ」
「見えてたんですか?」
「見えるところにいたから」
本人にとってはそれで終わりらしい。
そのあと、ネサが紙包みを持ってきた。
「昨日の残り。二人で食べな」
「何?」
「揚げ芋」
「昨日の?」
「今日中なら平気だよ」
キーラが包みを開け、匂いを嗅いだ。
「……匂いは平気そうだな」
「そこから確かめるんですか?」
「大事だろ」
「食う?」
「食べます」
少し冷えていたが、おいしかった。
二人で雨を見ながら、昨日の揚げ芋を食べた。
特別なことは何もなかった。
だから、よく覚えている。
◇
キーラが昔、冒険者だったと知ったのは、その少し後だった。
ネサが何気なく言ったのだ。
「あの人、昔は随分遠くまで行ってたらしいよ。冒険者で」
リリエラは驚いた。
確かに、身体の使い方や、危ないものを見る時の目つきには、機工師だけでは説明しにくいところがある。
次に会った時、つい聞いた。
「キーラさん、昔、冒険者だったんですか?」
「元だよ」
「すごかったんですか?」
「どうだろうな」
「ごまかしました?」
「今は鍋の取っ手直してるから、それでいいだろ」
ちょうど本当に鍋の取っ手を直していた。
格好がつかない。
でも、リリエラはその答えが好きだった。
昔の話をもっと聞きたい気持ちはあった。どんな場所へ行ったのか。何と戦ったのか。左腕を失ったことと関係があるのか。
けれど、聞きたいことはそれだけではなかった。
今朝何を食べたのか。
あの保冷庫は直ったのか。
ネサから卵を二個取れたのか。
そんなことのほうが、次に会った時には先に口から出た。
年上の元冒険者を、少し格好よく見ているだけなのかもしれない。
一度はそう考えた。
それなら、そのうち落ち着くと思った。




