第14話 地図の人
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半年前、南部出張所で魔道具管理を任されて間もない頃、リリエラは無光街で道に迷った。
冒険者へ出している貸出魔道具の状態を見に来たのだが、地図に描かれている角のパン屋がなくなり、代わりに古着屋が入っていた。目印が消えると、急に全部同じ路地に見える。
午前の予定はまだ残っている。遅れるほどではないが、このまま同じ角をもう一度曲がるのは少し悔しい。
通りの先で、男が木箱を地面へ下ろした。
短い焦げ茶の髪。前髪に白いものがほんの少し混じっている。褪せた濃い色の仕事着は、左肩だけ革帯に引かれて線が違った。
左腕は義手だった。
木と鉄の指で箱の持ち手を挟み、右手で中のねじを探している。
「あの、すみません」
声をかけると、男は顔を上げた。
灰色に少し緑を混ぜたような目だった。黙っている時は目尻の細い皺のせいか、少しくたびれて見える。けれど視線がこちらへ合うと、思っていたよりずっとはっきりした目をしていた。
「うん?」
「この辺りの、ハドルさんのお宅を探しているんですけど」
「ハドル……何してる人?」
「ええと、ギルドの魔道具を使っている方で」
「この辺なら、番地わかる?」
「はい」
「じゃあ聞かせて」
番地を伝えると、男は少し考え、路地の奥を指した。
「古着屋の角を右。井戸を過ぎて、赤い戸の二軒先。そのはず」
「地図だと、パン屋さんが角にあるんですが」
「去年閉めた」
「そうなんですか」
「地図、古いな」
少しだけ口元が動いた。
笑われたのかと思ったが、地図のほうを笑ったらしい。
「ありがとうございます。助かりました」
「間に合いそう?」
リリエラは時刻を確かめた。
「はい。まだ大丈夫です」
「ならよかった」
男は話を終えると、何事もなかったように木箱へ目を落とした。
引き留められもしない。
名前も聞かれなかった。
こちらが困っていたから道を教えて、間に合うとわかったから、それでおしまい。
なんともあっさりした人だった。
少しだけ変な人だと思った。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、最後の「ならよかった」という声が、妙に耳に残っていた。
その日の最後の仕事先で「あそこの機工師に聞いたのか」と言われて、初めて名前を知った。
キーラ。
無光街で、魔力を使わない機械を直している人。
名前を聞いた時、ああ、あの人か、とすぐに顔が浮かんだ。
灰緑の目と、ほんの少し動いた口元。
覚えようと思ったわけではないのに、覚えた。
◇
次に会ったのは、数日後だった。
今度は迷っていなかった。
リリエラは貸出魔道具を一つ回収し、その帰りに路地でキーラを見つけた。
ネサの店先で、壊れた保冷庫の蓋を持ち上げている。
「そこ、押さえて」
「金取るよ」
「自分の修理代を値上げする気かい」
「俺が押さえるなら作業だろ」
「卵一個」
「二個」
「一個と葱」
「……葱か」
何の交渉なのかわからなかった。
ただ、キーラが妙に真面目な顔で葱について考えているのが、少し面白い。
初めて会った時の、どこか近寄りがたい印象とはずいぶん違った。
立ち止まって見ていると、ネサが先に気づいた。
「ギルドの子。何か用かい」
「いえ。通りかかっただけです」
キーラも振り向く。
「ああ。地図の人」
「地図の人ではありません」
思わず言い返してしまった。
けれど、覚えていてくれたのだと思うと、ちょっとだけ嬉しい。
ちょっとだけ、である。
「そうだった。職員の人」
「リリエラです」
「キーラ」
「知ってます」
「そうか」
そこで会話が終わりそうになった。
……本当に、あっさりしている。
せっかくまた会えたのに。
せっかく、というほどのことでもないけれど。
何となくこのまま立ち去るのも惜しくて、リリエラは保冷庫へ目を向けた。
「直るんですか?」
「見た感じは。蓋の蝶番が歪んでるだけだと思う」
「じゃあ卵は直ってからだ」
「葱は?」
「それも」
「厳しいな」
本気で困っている声ではなかった。
どこか楽しそうですらある。
リリエラは思わず笑った。
キーラがこちらを見る。
「何?」
「いえ。卵と葱で修理するんだなと思って」
「金でもいいよ」
「そっちのほうが普通では?」
「ここだと卵のほうが来る時がある」
あまりにも当たり前のように言うものだから、また可笑しくなった。
何だろう、この人。
話していると、調子が狂う。
初対面の時は少しくたびれた、寡黙な人だと思ったのに。
実際には卵と葱の数で真剣に交渉するし、こちらが何を面白がっているのか、まるでわかっていない顔をする。
それが何だか、可笑しくて仕方がない。
後で出張所へ戻ってからも、伝票を書きながら一度思い出した。
卵一個と葱。
あの、ほんの少し困ったような声。
思い出したら、また口元が緩んだ。
……いけない。
仕事中なのに。




