❨ Act. Ⅷ
こちらへと進む軽い足音が止む。
「────こんなところで、何をしているかと思えば……」
眩い光の中から聞き覚えのある声が響いた。
「────許可などしては、いない」
幼さが残る声音に突き刺さすような冷たさをウィルは感じ取った。思わず、ウィルは名を呟いた。
「ユ、ユフェ……」
繋がれた首を必死に向ける。チャリと鎖同士で擦れ合い音を立てる。光の中にいるであろう少年の姿を探し求めた。
また、足音が空間に反芻する。白き光から、か細い足が迷いなく地を踏み付けた。姿が顕になる。俯いた顔が少し傾き上を向く。伏せられた睫毛がゆっくりと開けられ、腰を抜かしてあるマレットを見下ろす。
マレットはその目に心臓を掴まれた感覚に襲われた。歯をガタガタ鳴らし、そのまま後退ろうとするが身体がいうことを利かない。震える唇が発する言葉は、あっけなかった。
「な、に、何者だ……ここは、神聖なる月神の……」
眉が吊り上がり、目を見開いた。その眼に射抜かれたマレットは、呼吸を忘れた。
「な、なんで……君が、こんなところに……?」
ウィルはユフェに投げ掛けた。
ユフェは目元を和らげると、そっとウィルの目元に手を添えた。
冷たい指先が瞼に触れた。その冷たさが、今のウィルには心地良く思えた。
「────ウィル、寝てて。次……きる……」
ユフェの言葉が紡ぎ終わる前に、ウィルの意識は徐々に薄れていった。
瞼に残る冷たさを残して───
「ッハ、ハア、ハア……、キサマ、ここをどこだと……思っているんだ!」
大きく息を吐きながら、マレットは大声で得体の知れないユフェを威嚇するが、ユフェは何も語らずにウィルに施された悪業を眺めていた。
手の平に突き刺さる小刀。潰された指先から血が滲み出ていた。
首に食い込んだままの首輪を外す。息苦しさで喉を強く掻いたようで、爪で引っ掻いた痕が残っていた。突き刺さった小刀の柄を指先だけで、いとも簡単に抜き去った。
「そんなすぐに抜ける、はずは……」
目の前の奇跡のような出来事が、到底信じられない。マレットはポカンと口を開けたまま、食入るように見つめていた。
ウィルをひと通り、確認し終わったユフェは再度、マレットと対峙した。
その途端────
風がユフェの背後から吹き、ユフェの髪が乱れた。更にユフェが眼光を鋭くする。
棚に置かれていたマレットのコレクションが、次々と地面へと落下していく。ツンと突き刺す鋭い痛みが鼻を襲う。
すでに壁まで追い詰められた逃げ場のないマレットは、これが夢ではなく現実だと思い知らされる。
「お前は決して赦さぬ。
───もがき苦しむが良い」
手にしていた小刀の刃を片手で強く握る。血が拳の隙間から溢れている。ピシャンとユフェの手から落ちて行く。
握っていた小刀を玩具のように弄ると、シュッとマレットを目掛けて投げ付けた。右頬を掠めた。小刀はマレットのすぐ後ろの壁に突き刺さった。
切られたことに気付いていない様子のマレットは、少しずつ近寄ってくるユフェに釘付けられた。
歩みが止まる。ユフェの瞳が、マレットを捉えた。
ビクッと身体を震わせた。それが合図だというように、マレットの身体は勝手にユフェの前で膝を付け、天を仰いだ。
「なん、なんですか!……この状況は────?!」
自由を奪われたマレットはひたすら逃れようと、身を捩るが幸をなさなかった。
勝手に口が開いてしまう。声を上げるが、言葉にならない。ただの音が虚しく響くだけだった。
ユフェの腕が上がる。血に塗れた腕は肘を伝い血を垂らす。
マレットの開いた口の中へとユフェは血を垂らした。指先から落ちた血の雫を、声にならない叫び声で喉を震わせた。辛うじて動かせる指先が激しく乱れた。
一滴、一滴とマレットの口へと落ちる紅き血が体内へと染み込む。
叫び声が変わった。まるで獣の声だった。
身体が痙攣を起こした。
白目を向いたマレットは口から泡を吐き出した。目からは血色の涙が幾重も筋を作り、鼻や耳からも吹き出した。
ユフェは血が滴る腕を、力無く下ろすと指を鳴らす。
バタンとマレットは地へと倒れ込んだ。
指や足、肩と身体が電気が走ったかのように、ビクッビクッと震えている。
ユフェはマレット一瞥すると、ウィルのもとへと足を運んだ。
久しぶりに見たウィルは、あの日とは全くの別人のような風格になった。ユフェはそっと、ウィルの額へと触れる。
「……ボク、──────」
小さく囁いた声は誰の耳にも届かなかった。
重たい瞼を少し押し上げると、見えた世界は薄明るい。鼻に染み付いた血の香りを感じない。
身体を包む、柔らかい寝具。
ウィルは勢い良く飛び起きた。
「ユフェっ!!」
窓についた白いカーテンが僅かに揺らぐ。
周りを見回す。人の気配はない。
あの暗い虚無の空間ではなく、マレットに連れていかれた儀式の間でも無かった。
綺麗に整えられた客室のベッドの上にいた。
不意に視界に入った指と手の平には、傷跡どころか、傷がさっぱり消えていた。
ガラスに映る自分の姿はまるで骸のよう。
その姿を見てあの出来事は現実だったと証明させた。
久しぶりに見た外の景色は、どんよりとした雲が空を覆っていた。
また、僕だけが
─────助かった。
指輪が震えた。
その瞬間。
部屋が大きく揺れ、テーブルに置かれていた燭台がカーンとけたたましい音を立てる。
ガラスが振動するほどの轟音が何度も鳴り響いた。
ウィルはベッドから足を投げ出すと、笑う足を一歩ずつ前へと出した。
ドアノブを掴み、ウィルはこの部屋を後にした。




