❨ Act. Ⅶ
ギィイイイ……
音が消失した空間に前触れ無く空気を震わす重低音。
この場に不釣り合いな歌を口ずさみ、軽快な足取りで誰かが石段を降りている。
それを肌で感じつつ、ウィルは身動きもせず、空虚な瞳を檻の外へ向けていた。
淡い火色が闇を打ち破るかのように迫り、その淡き光は檻の前で動きを止めた。
雑音でしかなかった歌が余韻を残し、歌い手は口を閉ざした。
蝋燭の火が照らし出す顔は、陰影をくっきりと際立つ。
今日の日のためにとでもいうような、豪華な衣装を身にまとうマレットが、厳かに頭を垂れた。
艶の良い顔がウィルへと向けられた。頬が上がる。薄く開いた目がウィルを捉えると、底に隠していた狂気が徐々に染み出してきた。
「おはようございます、ウィル様。本日は生憎の曇天でありますが、心地の良い日になるでしょう」
胸に手を当て、月神の教えを説くかのようだ。
蝋燭の火が揺らめき、陰が揺れた。
ウィルは地面に投げ出してある足を引き寄せた。
感情のこもらない瞳をマレットへ送る。
聖衣の合わせから、束になった鍵を取り出す。その中から、ひとつの鍵を指先でつまみ上げると大事そうに平で握る。
気が急いで身体が前のめりになる。
指先が小刻みに震え、なかなか鍵穴に入らない。
ガチャガチャと閉ざされていた鉄格子の扉が開け放たれた。
マレットの口端が吊り上がる。
檻の外へ誘うように手が差し出された。
「ウィル様、お待たせ致しました。さあ、」
ウィルはその場から動こうとはせず、ただマレットを気怠げに眺めているだけ。
「どうされました?───ああ!これから行う儀式に緊張なさっておられるのですね」
分かります分かりますと反芻し、マレットは淡々と言葉を羅列していく。
「ご心配は要りませんよ。まだ、いかせませんから」
眉尻を下げ、顔の堀が深くなる。にたっと嗤うマレットをウィルは瞬きもせず、傍観しているだけだった。
その態度にマレットの片眉がピクリと反応した。
檻へと一歩入る。また一歩と先を進む。
「まさか、感情を無くされてしまったのですか?」
ウィルの前に膝を地に付け、顔を覗き込む。蝋燭の火に照らされたウィルの顔は生気を失っていた。マレットの顔を映す瞳に光はない。ただこにいるだけ。まるで抜け殻。
「心を壊してしまったのですね。ああ、なんてお労しや……でも、ご安心下さい、ウィル様」
────すぐに、お心を取り戻すはずです。
痛みが、あなたを解き放つ。
「さあ、行きましょう」
穏やかな声音とともに、足に取り付けてあった鎖を外す。そのままマレットはウィルに温かみなど無縁な少し湿り気のある無機質な首輪を取り付けた。
首輪を繋ぐ鎖を手にし、マレットは容赦なく引き上げた。鋼の輪同士が怜悧な音を立てる。
「ヴッ……」
微かにウィルの口から息が漏れた。
眉にシワが寄り、顔を顰める。
その顔を見たマレットの瞳が潤む。
指で涙を払う。
「あぁ……そのお顔、とても良い。気が急いてしまいそうです」
鼻から出す息が小刻みになる。
鎖を掴む手が白を帯びた。
マレットは鎖を強く引く。
鎖はギリッギリと硬質な音をあげる。
鎖が宙に直線を描いた。
首に食い込む首輪へと伸びた爪を突き立てた。
息を吸うが、充分に肺へと入らない。
ウィルは楽を求め、立ち上がった。
「いい子ですよ。さあ、儀式の間へ参りましょう」
マレットは小さく頷くと、あの男が連れて行かれた扉のもとへ足坂を向けた。
ウィルの足取りは重い。マレットに引き摺られるように足を動かした。
「ウィル様、ようこそ!我が儀式の間へ」
扉が勢い良く閉められた。部屋に入るなり、まず先に感じたのは血と油の濃縮した強い匂い。檻でも感じた匂いより、明らかに段違いであった。
近くにある机には、剥ぎ取られた爪。そして、歯肉と血がついた歯が綺麗に並べられている。
拘束具がつけられた台の下には、まだ乾ききってない血溜り。
壁には、刃こぼれし斬れ味の悪そうな刃物、錆び付いた工具が血を拭かれぬまま吊るされている。
見たこともない、使用方法など理解できない拷問器具が所狭しと置いてある。
ウィルは奥の棚へと目を向けた。
心が一気に凍てつく。
無意識に後ろへと一歩下がった。
指先が激しく震え出す。
「な、なんてことを……」
思わず、口から言葉が零れた。
マレットはウィルの表情を見て、口角が半円を描く。
みるみるうちに顔が赤らんでいく。
持っていた蝋燭の火が吐き出した息で消え掛けた。
「見てください!私のコレクションたちを」
興奮したマレットは鎖を手繰り寄せた。そのまま、ウィルを棚の前へと引っ立てた。
何十いや、百近い大小のガラス瓶。ガラス瓶の中に液体とともに入れられた人の身体の一部。
指の多い手。頭がふたつある胎児。色素の薄い足……。ひとつずつ、きちんとラベリングされ、丁寧に並べられている。
端に置いてある空の瓶には
──────深紫の瞳
と書かれていた。
ウィルは咄嗟に退いた。
その足が何かを踏み、体勢を崩した。
偶然か、必然か、拘束台へ倒れ込んだ。
肘をつき、立ち上がろうとした途端、ウィルにマレットが覆いかぶさった。
激しい息遣いが掛かった。
「ああ。なんと美しいのでしょう?……やっと手に入るのですね。」
触れようと太い指がウィルへと伸びる。だが、恐れ多いというようにその手は空を漂う。
「待ち遠しかった。───アイツらがヘマをしなければ、既に私のモノであったのに」
ウィルの眉が微かに動いた。
「……アイツ、ら?」
マレットの重たくたるんだ瞼が一気に開き、眉に深い皺を刻み、眉が跳ね上がる。
「シャテリー村の、あなたのいた村の村長……ハンスと奴隷商の奴らですよ」
言葉に怒気を帯びた。だが、その熱は急速に冷えた。
マレットはウィルへと伸びる鎖を慣れた手付きで、拘束台へと括り付ける。首が少しずつ少しずつ締まっていく。マレットの瞳に苦しむ自分の顔が映る。
「お、お前が……」
喉に直伝わる圧迫感。目の前でほくそ笑むマレットを、睨めつけた。
「話を持ち掛けて来たのは、あちらですよ?瞳が変わった子どもがいると。その為にたくさんお金を渡したというのに……だが、そのアナタが私の聖域へと起こしになった」
抑揚もない声に段々と熱が籠っていく。マレットの腕はウィルの足へと伸びた。手を逃れようとバタバタと暴れるが、マレットにはそれは興奮を煽るだけだった。
「やっと、感情が戻って参りましたね。ウィル様」
ググッと鎖に力が籠る。
「ヴグッ」
一気に締め上げられ、呼吸が出来ない。必死に首へと手を伸ばし、外そうと何度も引っ掻く。伸びた爪が欠ける。
「苦しいですね。ああ──愉しい」
うっとりとした瞳でウィルを見下ろす。硬直した足に足枷を付けると、首の圧迫感が緩められる。
「アガッ、……はぁ、はぁ、」
大きく息を吸い上げた。身体に酸素を届けようと、必死に息をする。頭に溜まった血が全身を駆け巡る。
「ヤコブ助祭から聞きましたよ。ウィル様の特殊なお力。再生能力が異常だと」
「……そ、んな、……力なんて……な、い」
「ご謙遜を。確かに見たと聞きました」
壁に掛けてある小刀を手に取った。
刃を平に乗せ、ウィルへと向き直る。
「確かめても?」
軽くそう告げる。小刀の柄を握り直す。刃先を舐めるように見たマレットの瞳はギラついていた。その瞳が、ウィルへと移る。
ウィルは唯一自由な腕を振り回したが、意味はなかった。マレットはゆっくりと小刀を足の付けに当てた。
冷たい刃に一気に力を込められ、そのまま引かれた。
血が流れる。
「うぐあっ──?!」
目が見開き、口を大きく開く。
台の箸を指先が強く握る。指先がピクピク動く。
上半身が起き上がろうとするが、鎖に邪魔された。
「我慢なさらずとも、良いのですよ」
また次をと、マレットは狙いを定めようとする。が、マレットの目元が固まった。
信じられないというように、台に両手を叩き付け、ウィルの足へと顔を近付けた。
「助祭の言うことは、本当にだったんですね!これが月神様が、アナタを求めた理由なのでしょうか?!」
興奮が覚めやらぬマレットはツバキを飛ばしながら、早口で話し始める。
「あ、しかし、月神様は単に深紫の瞳が欲しいと仰った。なら……私と分け合うしかないですね」
マレットはそう結論付けた。天井を仰ぐ。
「月神様が望む、この瞳を私、マレットが取り出しましょう!そして、献上致します!!アナタの忠実な下僕───マレットが!!!」
息が絶え絶えになり、肩で呼吸する。
マレットはクルッとウィルへ迫った。
「この再生能力は瞳をくり抜いたらどうなるのでしょう?」
魅入られたマレットの瞳孔が開き、口は半開きのまま狙いを定めた。薄気味悪い笑みを浮かべながら、ウィルの瞳へと距離を詰める。
ウィルも、そうはさせないと手を伸ばしたが、もうマレットは止まらなかった。腕を捕らえたマレットは、そのまま台へと押し当て、次の瞬間、小刀を躊躇なく手の平に突き立てた。
「グハッ?!………や、め……」
苦痛に歪むウィルの顔を、恍惚とした顔が見下ろす。ウィルは片方の腕を伸ばし小刀を抜こうとするが、その手は無惨にもマレットに囚われる。
いつの間にか手にしていた万力を台に嵌め、ウィルの指を挟む。ギギッギギッと締め上げた。
「うぎゃああああああ────」
指先が一気に変色していく。ガタガタと身体を激しく揺らし痛みから逃れようとする。目の端から勝手に流れる涙。
僕は何も無せぬまま……
このまま、死ぬのだろう。
父さん、これは僕が月を見上げた罰、なのですか?
マレットが新しい得物を手にした。鋭く尖った刃をウィルの眼球へと一気に近付けた。切っ先が睫毛に触れた。
その瞬間──────
目が眩む程の光がふたりを襲った。あまりの光量にウィルは瞼を強く閉ざした。
マレットはもろに食らったようで、そのまま後ろに仰け反り、腰が砕けた。
眩しい光の中から、コツ、コツと地を踏み締める音だけが響いた。




