第一章 ある男の中学生時代-5
この物語は、
僕が「日本を変えたい」と思ったところから始まっています。
介護の現場で、うつと闘いながら、
何度も「もう無理だ」と思った日々。
でも、そこで諦めきれなかったのは、
僕と同じように苦しんでいる人が、
まだまだたくさんいると思ったから。
だからこそ、
僕はボランティアのつもりで筆を取っています。
広告も入れず、書籍化されるまでは、
すべて無料で公開します。
金銭的な見返りを求めているわけじゃない。
ただ、
この物語が、
誰かの心に小さな光を灯せたら。
「俺も、少しだけ頑張ってみよう」と思えるきっかけになれたら。
それが、
僕の「日本を変える」ための、
小さな一歩です。
無料で読める分、
どうか、
この言葉を、
心の奥で受け取ってほしい。
日比谷幸助
2026年1月某日
中学校は、もちろん部活動だけでなく、勉強もしっかり行う必要がある。いわゆる「文武両道」だ。貴也の通う中学校は、田舎の公立中学校で、私立中学校とは違い、いい意味で、自由であった。だから貴也は、クラスの中で、いつしか自然に「優等生」のポジションに収まった。なぜならば、中学校初めての中間テストで、予期せず全体で「三位」という好成績を収めたからだ。親もそれなりに厳しく、勉強をするように意識づけられていた。そこからは、学年で「一位」を狙おうと、虎視眈々と機会をうかがっていた記憶がある。
部活を初めてから一カ月もすると、すでに部活動は、「生きがい」になっていた。授業後に、部活をするのを心待ちにするようになり、授業が終わると、いの一番に食堂に向かった。卓球の練習場は、「食堂」であった。昔は「体育館」を使用していた時期もあったようだが、バレー部やバスケ部等との体育館の争奪戦に負け、やむなく、「食堂」を使わざるを得なくなったらしい。それでも、場所が確保されている方がましだった。練習前には、まずは食堂のテーブルを片付ける。そうすれば、体育館の半分の広さ程度は充分に確保できる。広さとしては充分だった。ただし、卓球台の数には限りがある。男子卓球部は約10確保していた。それでも、基本的には卓球は二人一組で一台を使用するため、部員が多いと必然的に卓球台の奪い合いが始まってまうのだ。貴也が入部した時には、一年生から三年生まで合計で三十人はいた。
だから、卓球台を十分に使えるようになるには、三年生が部活を引退した頃だ。それでも、少しずつではあるが、卓球台を皆で順番に使用できるようになっていた。ただ、自由にラリーをするには、まだまだ技術が足りないことは明白であった。壁打ちで、ボールコントロールはある程度はついていたのだが、実際に、卓球台を使用すると話が違ってくる。そして、基礎練習と呼ばれる、フォア、バックの打ち合いをひたすら繰り返すようになった。フォアと言うのは、右利きの選手の場合、自分の右手側、バックと言うのは左手側である。左利きの選手の場合は逆となる。
壁打ちや、基礎練習が、それなりに出来るようになってくると、自然にラリーが続くようになり、上達を感じられた。日々上達していくのが、この頃はただただ楽しかった。




