異世界2日目、腹が減っては仕事もできない
ゴブリン3匹に殺されかけたことを考えると、どうにも割に合っていない気がする。
とはいえ、今のソーマにはそれでも貴重な全財産だった。
市場を抜けたあと、受付嬢に教えてもらった治療院へ向かう。
幸い、傷そのものは深くなかった。
森で転んだ時の擦り傷と、ゴブリンから逃げ回った時についた細かな傷がいくつか。治療師らしい女性に薬を塗ってもらい、簡単な処置を受けるだけで済んだ。
「銅貨15枚です」
「……はい」
革袋から硬貨を取り出しながら、ソーマは少しだけ遠い目をした。
残り37枚。
冒険者として初めて稼いだ金が、すでに三分の一近く消えた。
それでも傷を放置して悪化するよりはいい。そう自分に言い聞かせ、治療院を出る。
次に必要なのは食事と、今夜寝る場所だった。
市場へ戻り、銅貨3枚のパンと、温かいスープを銅貨4枚で買う。
豪華とは言えない夕食だったが、朝からまともなものを食べていなかった身体には十分だった。
「……うまい」
木の器を抱えたまま、思わず声が漏れる。
異世界に来て、冒険者になって、ゴブリンと戦って。
やっと落ち着いて食べたものがパンとスープというのは、少し地味な気もする。
だが、腹が満たされるだけでかなり気持ちは楽になった。
残りは銅貨30枚。
受付嬢に聞いていた安宿――銀鹿亭の宿代が、ちょうど銅貨30枚だった。
「一泊で」
「銅貨30枚だよ」
女将に言われ、最後の硬貨を渡す。
革袋の中は綺麗に空になった。
「……マジか」
初めて異世界で働いて稼いだ金は、その日のうちに全部消えた。
治療。
食事。
宿。
どれも必要なものではある。
だが、命がけで働いた結果が所持金ゼロだと思うと、何とも言えない気持ちになる。
案内された部屋は、ベッドと小さな机があるだけの簡素なものだった。
ソーマは硬いベッドへ身体を投げ出し、天井を見上げる。
「異世界でも、結局生活費かかるんだな……」
冒険者。
剣と魔法。
魔物。
もっと派手な生活を想像していた。
現実は、働かなければ飯も食えないし、寝る場所すらない。
そのあたりは日本と何も変わらなかった。
疲労も限界だったのか、考えているうちに意識はすぐに落ちていった。
◇
翌朝。
ソーマは腹の音で目を覚ました。
「……腹減った」
窓から差し込む朝日を見ながら、革袋を確認する。
当然、中身は空っぽだ。
銅貨0枚。
食事をしようにも、昨日市場で見たパンですら銅貨3枚する。
「朝飯食うために、まず働かないといけないのかよ……」
ベッドから起き上がり、軽く身体を伸ばす。
昨日の疲れは残っているが、動けないほどではない。
むしろ問題なのは金だった。
宿を出たソーマは、冒険者ギルドへ向かう前に、昨日この世界へ来た場所へ足を運んだ。
細い路地を抜け、記憶を頼りに角を曲がる。
「確か、この辺だったよな」
だが、そこに扉はなかった。
あるのは、どこにでもありそうな石造りの壁だけ。
触ってみても、押してみても何も起こらない。
「……消えてる」
昨日は確かにここに扉があった。
その向こうには、自分の部屋があったはずだ。
一度戻って確認したい気持ちはある。
大学のことも気になるし、スマートフォンも財布も向こうに置いたままだ。
だが、扉がない以上どうしようもない。
「帰り方までノーヒントかよ……」
ため息をつき、ソーマは路地を離れた。
帰れないなら、この世界で生きるしかない。
そして生きるには金がいる。
結局、やることは一つだった。
働く。
◇
朝の冒険者ギルドでは、すでに依頼板の前に人が集まっていた。
ソーマもFランク向けの依頼を順番に見ていく。
ゴブリン討伐。
薬草採取。
街道周辺の巡回。
そのあたりは自然に飛ばした。
昨日の今日で、もう一度ゴブリンと戦う気にはなれない。
そんな中、目に留まった依頼があった。
〖材木置き場での木材運搬〗
報酬、銅貨25枚。
街の中で完結する仕事。
魔物と戦う必要もない。
「これだな」
受付で依頼を受け、指定された材木置き場へ向かった。
街の外れにある作業場には、切り出された木材が大量に積まれていた。
そこで待っていたのは、日に焼けた肌に太い腕をした中年の男だった。
「ギルドから来たのはお前か?」
「はい。ソーマです」
「ガルドだ。そこにある木材を、向こうの倉庫まで運んでくれ」
ガルドが顎で示した先には、かなりの量の木材が積まれている。
一本持ち上げてみる。
「……重っ」
思っていたよりずっと重い。
それでも持ち方を変えた瞬間、身体が自然と楽な位置を探し始めた。
《運搬 Lv1》
現実世界で何度もやってきた仕事の感覚が、そのまま身体に染み込んでいる。
腰を落とす。
腕だけで持ち上げない。
身体の近くで支え、重心を安定させる。
木材そのものが軽くなるわけではない。
だが、無駄な力を使わずに済む。
何本か運んでいると、ガルドが感心したようにこちらを見た。
「新人にしちゃ慣れてるな」
「似たような仕事、結構やってたんで」
「冒険者になる前は荷運びか?」
「まあ……そんな感じです」
まさか別世界で単発バイトをしていたとは言えない。
ソーマは曖昧に笑って、次の木材を担いだ。
昼前には、指定された分をすべて運び終えた。
腕も背中も疲れている。
それでも昨日のゴブリン討伐に比べれば、精神的にはずっと楽だった。
「思ったより早かったな」
ガルドが完了証明を渡してくる。
そして、ソーマの腰回りを見て眉をひそめた。
「お前、武器持ってねえのか?」
「ないです」
「冒険者だろ?」
「昨日なったばっかりで」
「よくそれで仕事受けてんな」
「昨日はゴブリン3匹に追いかけられました」
「……よく生きてたな、お前」
ガルドは呆れたように笑うと、作業場の奥へ歩いていった。
しばらくして戻ってきた手には、一本の古いナイフが握られている。
柄には傷が多く、鞘もかなり使い込まれていた。
「捨てるつもりだったやつだ。刃はまだ使える」
「もらっていいんですか?」
「素手よりマシだろ。次は死ぬ前に使え」
ソーマはナイフを受け取った。
ずしりとした重さが手に伝わる。
立派な武器とは言えない。
それでも、何も持っていなかった昨日とは違う。
「ありがとうございます」
「礼なら次もちゃんと働け」
「報酬が良ければ」
一瞬の沈黙のあと、ガルドが豪快に笑った。
「お前、案外図太いな」
◇
ギルドへ戻り、報酬の銅貨25枚を受け取った。
まず向かったのは市場だった。
銅貨3枚のパン。
そして、昨日から気になっていた銅貨5枚の串焼き。
合計8枚。
残り17枚。
「……生き返る」
肉を噛みながら、ソーマは本気でそう思った。
朝から何も食べずに木材を運んだせいで、ただの串焼きが驚くほどうまい。
腹が満たされると、今度は現実的な問題が頭に浮かんだ。
今夜の宿代は銅貨30枚。
現在17枚。
13枚足りない。
「もう一件だな」
結局、午後も働くことになった。
ギルドへ戻り、今度は市場での荷下ろし依頼を受ける。
報酬は銅貨15枚。
仕事内容は、商人の荷車から商品を降ろし、それぞれの店へ運ぶことだった。
木箱。
麻袋。
樽。
荷物の種類はバラバラだったが、こういう作業には覚えがある。
《運搬》を使って荷物を運び、《仕分け》の感覚で店ごとに分けていく。
「その箱は向こう!」
「はい!」
「こっちは雑貨屋だ!」
「了解です!」
次々に飛んでくる指示へ対応しながら、ソーマは少し不思議な気分になっていた。
日本では、生活費を稼ぐために仕方なくやっていた仕事だ。
倉庫。
引越し。
イベント設営。
その時は、こんな経験が何かの役に立つなんて考えたこともなかった。
だが、この世界では違う。
重い物を運んだ経験も、荷物を仕分けた経験も、確かに自分を助けている。
魔法は使えない。
剣もまともに振れない。
それでも、何もできないわけではない。
夕方になる頃には、すべての荷下ろしが終わった。
報酬の銅貨15枚を受け取る。
手持ちは32枚。
銀鹿亭へ戻り、宿代として30枚を払った。
残った硬貨を革袋から取り出す。
銅貨2枚。
「……今日、一日働いたよな?」
木材を運んだ。
市場でも働いた。
朝からほとんど休まず動いた。
それなのに、手元に残ったのは銅貨2枚だけ。
市場のパンは3枚。
つまり明日の朝食すら買えない。
ソーマはベッドへ倒れ込み、机の上へ古いナイフを置いた。
「冒険者って、こんなに生活苦しいのか……」
昨日よりは少しだけ前進した。
所持金はゼロから2枚になった。
武器も一応手に入った。
だが、帰る方法はいまだにわからない。
明日も扉が現れなければ、また働かなければならない。
ソーマは硬いベッドの上で目を閉じた。
異世界生活、2日目。
冒険らしいことは一つもしていない。
それでも昨日とは違って、今日一日は自分の力だけで飯と寝床を確保した。
その事実だけは、ほんの少し悪くない気がした。
「……明日こそ、もう少し金残そう」
そんな小さな目標を立てながら、ソーマは眠りについた。
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