10時間やってないんだけど
10月19日、月曜日。
昨夜、異世界から日本へ戻ったのは23時を過ぎてからだった。数時間前までエステルと依頼を回っていた感覚が残っているのに、朝になれば普通に1限から大学が始まる。
悠真は教室の後ろの席で頬杖をつきながら、ぼんやりと黒板を眺めていた。
「眠そうだな」
隣から声をかけられて顔を向けると、いつもの友人が笑っていた。
「ちょっと寝不足」
「またバイト?」
「まあ、そんな感じ」
嘘ではない。
昨日も働いていた。
場所が異世界だっただけだ。
友人は「相変わらずだな」と呆れたように言ったあと、何となく悠真の肩や腕のあたりへ視線を向けた。
「ていうか、お前ちょっとガッチリした?」
「そう?」
「前より肩とか厚くなってない? 筋トレでも始めた?」
言われてみれば、最近は身体を使う時間がかなり増えている。
日本では引越しや倉庫の仕事。異世界では荷物を運び、森を歩き、レオンから剣を教わり、魔物とも戦っている。意識して鍛えているわけではないが、以前より身体を動かしているのは間違いなかった。
「最近、身体使う仕事多いからじゃない?」
「引越しとか?」
「まあ、そんな感じ」
友人は納得したように頷いたあと、今度は顔を覗き込んでくる。
「でも顔は疲れてるけどな」
「結局どっちだよ」
「身体は健康そうなのに生活は不健康そう」
「それ悪口だろ」
小声で笑っていると、前方にいた教授がこちらを見る。
2人は何事もなかったように前を向いた。
◇
昼休み。
学食で昼飯を食べていると、友人がまた悠真を見ながら首を傾げた。
「最近、なんか楽しそうだよな」
「俺が?」
「うん。前もずっとバイトしてたけど、最近ちょっと違う感じする」
「何それ」
「女でもできた?」
思わず箸が止まった。
一瞬だけ、エステルの顔が浮かぶ。
仕事量には引かれた。
それでも毎回ついてきて、次に会った時も一緒に依頼を受ける約束までした。
ただ、それは同じEランクとしてDランクを目指しているからだ。
少なくとも悠真は、そう思っている。
「なんでそうなるんだよ」
「今、ちょっと間あったじゃん」
「気のせい」
「怪しいな」
「違うって」
これ以上話を広げられる前に、悠真は残っていた昼飯を食べきった。
次に異世界へ行けば、またエステルと依頼を回すことになるだろう。
そんなことを自然に考えている自分には気づいたが、深く考えるのはやめた。
◇
3限が終わると、悠真はそのまま大学を出た。
この日の単発バイトは、飲食店のセントラルキッチンでの仕込み作業だった。
野菜を切り、肉を下処理し、翌日の営業で使う食材を準備していく。普段なら時給と勤務時間を見て選ぶ仕事だが、今回は包丁を使う作業という点にも少し興味があった。
異世界では短剣とナイフを使うようになった。
直接戦闘に繋がるかはわからないが、刃物を長時間扱う経験なら何かしら意味があるかもしれない。
そんな軽い期待で始めたものの、実際にやってみると簡単ではなかった。
「それ、ちょっと力入りすぎ」
隣で作業していた年上のスタッフに言われ、悠真は包丁を止めた。
「力ですか?」
「押して切ろうとしてる。もっと刃を滑らせる感じでやってみ」
言われた通りに動かしてみる。
包丁を食材へ押しつけるのではなく、刃先から自然に通していく。すると、さっきまでよりずっと軽い力で切れた。
「お」
「そうそう。包丁は力任せに押すより、ちゃんと刃を通した方が切れるから」
悠真はもう一度試す。
今度は角度も少し意識した。
食材へ刃が入る位置。
手首。
刃先。
同じ厚さに切るには、ただ速く動かすだけでは駄目らしい。
そこでふと、レオンから教わった剣の扱い方を思い出した。
力任せに振らない。
刃を当てる角度を意識する。
目的は違っても、刃物を扱うという点では似ている部分がある。
「……ちょっと剣と似てるな」
「何?」
「あ、何でもないです」
異世界で剣を習っているとは言えない。
悠真はそのまま作業へ戻り、その日は4時間ほど包丁を使い続けた。
◇
その後も、大学とバイトの日々は続いた。
火曜日は2限から4限まで授業を受けたあと別の単発バイトへ入り、水曜日と木曜日には再び仕込み系の仕事を入れた。
ただし、包丁を使った時間だけを数えると合計で8時間ほど。
悠真は木曜の夜、スマホに記録していた勤務時間を確認してから、少しだけ残念そうに画面を閉じた。
「10時間まではいってないな」
これまでの経験では、同じ種類の仕事を10時間ほど続けると、異世界で新しいスキルが現れていた。
引越し。
清掃。
倉庫。
家庭教師。
完全に証明されたルールではないが、かなり可能性は高い。
今回の仕込み仕事は8時間ほどしかない。
なら、今週は新しいスキルは出ないだろう。
それでも、包丁の扱い方そのものは以前よりわかるようになった。
スキルにならなくても、ナイフを使う時に少しでも役に立てば十分だ。
その程度に考えていた。
◇
10月23日、金曜日。
大学は2限で終わり、夕方までの用事を済ませて自宅へ戻った。
夜になると、いつものように部屋の壁へ扉が現れる。
何度見ても普通ではない光景だが、最近では驚くより先に「今週も来たか」と思うようになっていた。
悠真は取っ手へ手をかけ、扉を開く。
向こう側から、日本とは違う朝の空気が流れ込んできた。
そのまま境界を越えると、景色は見慣れた石造りの街へ変わり、腰には短剣とガルドのナイフ、身体には前回買った革鎧が戻っていた。
装備を確認したあと、いつものようにスキルへ意識を向ける。
《運搬》。
《仕分け》。
《警戒》。
《重量軽減》。
《浄化》。
《軽歩》。
《追跡》。
《危険察知》。
《収納》。
《学習》。
ここまでは前回と同じ。
ただ、その下に見慣れない表示が増えていた。
《刃物扱い Lv1》
悠真はしばらく黙ったまま、その文字を見つめた。
内容を確認すると、包丁やナイフなどの刃物を扱う際、刃の角度や力加減を補助するスキルらしい。
予想していた方向ではある。
短剣やナイフにも応用できそうだった。
問題は、そこではない。
「……待てよ」
今週の勤務時間を思い返す。
月曜日に4時間ほど。
水曜と木曜にも仕込みの仕事へ入ったが、全部合わせても8時間程度だった。
スマホに記録までしている。
数え間違いではないはずだ。
以前に同じ種類の仕事を長時間やった記憶もない。
飲食店のホール経験はあるが、包丁を使い続けるような仕込みとは明らかに違う。
それなのに。
スキルは出ている。
「異世界でナイフ使った分も入った?」
デッドマイナーとの戦闘。
レオンから教わった短剣。
ガルドのナイフ。
考えれば、こちらで刃物を扱った経験はいくつかある。
もしかすると、日本の仕事だけで決まっているわけではないのかもしれない。
他にも何か条件がある?
まだわからない。
悠真はもう一度《刃物扱い Lv1》を確認してから、小さく呟いた。
「……俺、10時間やってないんだけど」
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