Fランク卒業の日
ギルドを出たソーマは、1人で北側の森へ向かっていた。
腰には自分で買った短剣。その反対側には、ガルドからもらった古いナイフ。
今日の目的は、FランクからEランクへ上がるための昇級査定だった。
条件は単純。
森でゴブリンを3匹、1人で討伐する。
単純だからこそ、逃げ道がない。
「……3匹か」
何度口にしても、最初にこの世界へ来た日のことを思い出す。
あの時も相手は3匹だった。
短剣持ち。
棍棒持ち。
欠けた刃物を持ったゴブリン。
丸腰だったソーマは逃げ回ることしかできず、最後には脇腹へ棍棒を叩き込まれた。
レオンとリナが来なければ、あそこで終わっていたかもしれない。
だが、今は違う。
《警戒 Lv2》がある。
《軽歩 Lv1》もある。
短剣の使い方も、最低限ではあるがレオンから教わった。
ホーンラビットなら、すでに自分1人で仕留めている。
「前とは違う」
自分に言い聞かせるように呟き、森へ続く道を歩いていく。
やがて森の入口が見えてきたところで、前方から1人の冒険者が歩いてきた。
ソーマは何となく目を向け――少しだけ驚いた。
女性だった。
年齢は自分とそれほど変わらないように見える。
だが、まず目に入るのは装備の方だった。
銀色を基調とした胸当て。
肩を覆う大きな装甲。
金属製の籠手に、脚までしっかり守る防具。
腰には剣。
背中には盾まで背負っている。
どう見ても、かなり重装備だ。
しかも、ガルドの店へ何度か行ったソーマにもわかる。
「……高そう」
思わず小さく声が漏れた。
安物には見えない。
ソーマが短剣1本を買うために、ほとんど有り金を使ったことを考えれば、装備だけでどれほどするのか想像もつかなかった。
しかし。
本人を見ると、さらに違和感がある。
淡い金色の長い髪は、重い鎧とは不釣り合いなくらい綺麗に手入れされていた。
肌は白く、顔立ちも整っている。
普通の服を着て街を歩いていれば、騎士というより令嬢に見えそうなくらいだ。
綺麗な髪と顔。
そこに、ごつい金属鎧。
妙に目立つ。
向こうもソーマに気づいたらしい。
一瞬だけ目が合った。
「……」
「……」
どちらから話しかけることもなく、互いに軽く頭を下げる。
それだけだった。
女性はそのまま街の方へ歩いていく。
ソーマは数歩進んでから、一度だけ振り返った。
1人。
森から出てきた。
時間帯も、自分とほぼ同じ。
「……あの人も昇級査定だったりするのかな」
十分あり得る。
もしそうなら。
あの装備で、自分と同じFランクということになる。
「同じFでも格差すごいな……」
自分は短剣を買っただけで財布が瀕死になったというのに。
世の中は不公平だ。
そんなことを考えながら、ソーマは森へ入った。
◇
森へ入ると、先ほどまでの雑念はすぐに消えた。
今日は1人だ。
レオンもいない。
リナもいない。
《警戒》が反応したところで、代わりに敵を倒してくれる人はいない。
自分で見つけて、自分で避けて、自分で仕留めなければならない。
ソーマはいつも以上に周囲へ注意を向けながら進んだ。
「できれば……木の枝持ちとか来てくれないかな」
以前相手をした、一番弱そうなゴブリンを思い出す。
まともな武器ではなく、太い木の枝を振り回していた個体。
査定の最初くらい。
あれでいい。
いや。
できれば3匹ともあれでいい。
そんな都合のいいことを考えた、その時だった。
ぞわり。
首筋から背中にかけて、冷たい感覚が走る。
《警戒》。
ソーマの足が止まった。
「……来た」
左前方。
少し先。
以前よりも方向がはっきりわかる。
ソーマは短剣を抜いた。
茂みが揺れる。
がさり。
姿を現したのは――ゴブリン。
1匹。
そこまではいい。
問題は。
その手に持っている武器だった。
「……いやいやいや」
大きい。
ゴブリンの身体には明らかに不釣り合いな大剣。
錆びている。
刃も何ヶ所か欠けている。
それでも、重量だけならソーマの短剣とは比べものにならない。
ゴブリンは大剣の先端を地面へ引きずりながら、こちらを睨んでいた。
「枝持ち来いって言っただろ……」
もちろん通じるわけがない。
「ギャァッ!」
ゴブリンが大剣を持ち上げる。
《警戒》が反応した。
正面。
来る。
「うわっ!」
ソーマは《軽歩》で横へ動いた。
直後。
大剣が地面へ叩きつけられる。
土が大きく跳ねた。
「当たったら終わるだろ、これ……!」
木の枝とは訳が違う。
短剣で受ける気にもならない。
まともに食らえば、骨の1本や2本では済まなそうだった。
ゴブリンが大剣を持ち上げる。
再び《警戒》。
ソーマは早めに横へ移動した。
大剣が空を切る。
また避ける。
怖い。
だが。
2度目の攻撃を避けたところで、ソーマは違和感を覚えた。
「……遅い?」
正確には、大剣そのものが遅いわけではない。
振り下ろされた瞬間の速度は十分に速い。
問題は、その前後だった。
大剣を持ち上げる。
身体全体を使って構える。
振る。
外す。
そして再び持ち上げる。
動きが大きすぎる。
ゴブリンが3度目の大剣を振り上げた。
《警戒》。
来る方向はわかる。
《軽歩》で避ける。
大剣が地面へ食い込んだ。
その瞬間。
今までのソーマなら、さらに距離を取っていただろう。
だが。
今日は違った。
「今……!」
一歩。
前へ出る。
大剣を地面から抜こうとしているゴブリンへ近づく。
短剣の間合い。
レオンから教わった通り、大振りはしない。
短く。
狙って。
突く。
「ギャッ!」
短剣がゴブリンの身体へ入った。
すぐ引く。
ソーマも距離を取った。
ゴブリンがよろめく。
それでも、大剣を持ち上げようとする。
ソーマは呼吸を整えながら、その動きを見た。
ここで、もう1つ気づく。
自分も同じだ。
《警戒》を意識して。
《軽歩》を使うことを考えて。
短剣の構えを思い出して。
最初は、それぞれのスキルを使うことばかり考えていた。
そのせいで。
相手を見る余裕がなくなっていた。
「スキル使うことばっか考えてると……俺も隙だらけなのか」
大剣が持ち上がる。
今度は《警戒》が反応するより前に、肩と腰の動きが見えた。
来る。
その直後。
《警戒》が反応する。
確認。
《軽歩》。
回避。
大剣が地面へ落ちる。
踏み込む。
短剣。
今度は迷わなかった。
ゴブリンの身体が崩れる。
数秒。
動かない。
ソーマはしばらく短剣を構えたまま待った。
「……1匹」
大きく息を吐いた。
手は少し震えている。
心臓も速い。
でも。
倒した。
1人で。
しかも、木の枝どころか大剣持ちだった。
「……最初よりは強くなってるよな」
当然。
誰も答えてくれない。
それでも。
少しくらい自分で認めてもいい気がした。
◇
2匹目を見つけるまでには、少し時間がかかった。
森の中を歩きながら、地面の痕跡にも目を向ける。
ホーンラビットほど正確にはわからないが、以前何度か見たゴブリンの足跡と似たものなら、《仕分け》で他の痕跡と分けられる。
完全な追跡ではない。
それでも、闇雲に森を歩くよりはずっといい。
2匹目は棍棒持ちだった。
大剣に比べれば、かなり小さい。
「……いや、普通ならこっちも十分怖いんだけどな」
最初に脇腹を殴られたのも棍棒だ。
油断はしない。
ゴブリンが走ってくる。
ぞわり。
《警戒》。
右。
《軽歩》で避ける。
だがすぐには攻撃しない。
肩。
腰。
足。
相手の体勢を見る。
棍棒を振り切ったあと、腕が大きく流れる。
そこ。
踏み込む。
短剣。
戻る。
最初の大剣持ちより、ずっとスムーズだった。
3匹目は錆びた短剣を持っていた。
武器が短い分、間合いが近い。
そこは少し怖かった。
だが。
相手も短剣。
自分も短剣。
レオンから散々教えられた距離だった。
近づきすぎない。
相手が入ってくる。
《警戒》。
半歩下がる。
短剣が空を切る。
《軽歩》で横へ。
身体が開いたところへ、自分の短剣を入れる。
数分後。
3匹目も地面に倒れた。
ソーマはしばらく周囲を確認する。
《警戒》は反応しない。
静かだ。
「……終わった?」
自分で言ってから、少し笑う。
3匹。
条件達成。
討伐証明を回収する。
正確な時刻はわからない。
こちらにはスマホを持ち込めないからだ。
ただ。
街を出てからの感覚では。
「2時間半くらいか……?」
想像より早かった。
朝、ギルドを出た時には。
ゴブリン3匹。
1人。
それだけで半日以上かかるような気がしていた。
実際は。
怖かった。
何度も緊張した。
それでも。
できた。
帰り道の足取りは、来た時より少し軽かった。
《軽歩》のせいだけではない気がした。
◇
ギルドへ戻ると、エレナがすぐにソーマへ気づいた。
少し驚いた顔になる。
「ソーマさん?」
「戻りました」
「……早くないですか?」
「俺もそう思います」
カウンターへ依頼書と討伐証明を出す。
エレナが1つずつ確認する。
1体。
2体。
3体。
間違いない。
書類へ何かを書き込み、顔を上げた。
「ゴブリン3体。確認しました」
ソーマも少しだけ姿勢を正す。
「昇級査定、達成です」
一瞬。
言葉が頭に入ってこなかった。
「……ということは?」
エレナが微笑む。
「おめでとうございます。正式な処理が完了すれば、ソーマさんはEランクです」
「……よし」
小さく拳を握った。
Fランク。
登録したばかりの新人。
ずっと自分についていた文字が、ようやく1つ変わる。
「本当に早かったですね」
「多分、2時間半くらいでした」
「初めての昇級査定としては、十分早いですよ」
「最初にゴブリン3匹と会った時は死にかけたんですけどね」
「本当にそうですよ」
返事が早い。
まだ覚えているらしい。
「それと、査定対象でも討伐報酬は支払われます」
「あるんですか?」
「もちろんです。ゴブリンは1体につき銅貨10枚」
3匹。
銅貨30枚。
「ちょうど宿1泊分……」
思わず呟く。
エレナが呆れた顔をする。
「Eランク昇級直後の感想が宿代ですか?」
「生活かかってるんで」
「ソーマさんらしいですけど……」
エレナが苦笑した。
正式なランク更新には少し時間がかかるらしい。
それを聞いて。
ソーマは依頼板の前へ向かった。
まだ昼を過ぎた程度だ。
「……もう1個いけるな」
言ってから。
昨日リナに言われたことを思い出す。
金が出るなら働き続ける人。
「……まあ、時間あるし」
誰に対する言い訳なのかわからない。
依頼板を眺めていると。
「お、戻ってる」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返る。
レオンだ。
「レオン」
「査定どうだった?」
「終わった」
「もう?」
エレナと同じ反応だった。
「ゴブリン3匹、倒してきた」
レオンが少し驚く。
それから笑った。
「やるじゃん」
「正式処理終わったらEランクだって」
「おめでとう」
肩を軽く叩かれる。
素直に嬉しい。
「ありがとう」
そこで。
ソーマは今朝、森の入口ですれ違った女性を思い出した。
「そういえばさ」
「ん?」
「森の近くで、女の人見たんだけど」
「女?」
「俺と同じくらいの年かな。淡い金髪で、すげえごつい鎧着てた」
レオンが少し考える。
「……ああ」
心当たりがありそうだ。
「知ってる?」
「たぶんエステルだな」
「エステル?」
「最近このギルドにいるFランク。騎士志望だったはず」
「Fランク?」
思わず聞き返した。
あの装備で。
自分と同じだったのか。
「じゃあ、あの人も昇級査定だったのかな」
「時期的にはあり得る」
ソーマは少し考える。
「でも装備、めちゃくちゃ高そうだったぞ」
レオンが笑った。
「そこ気になるのかよ」
「気になるだろ。俺なんて短剣買ったらほぼ全財産だったんだぞ」
「事情があるんじゃないか?」
レオンも詳しくは知らないらしい。
エステル。
騎士志望。
ソーマと同じくらいの年齢。
重装備。
そして。
妙に綺麗な髪と顔。
「……綺麗な人だったな」
ぽつりと漏れた。
レオンがニヤッとする。
「へえ?」
「何、その顔」
「別に?」
「絶対なんか思ってるだろ」
「この前までデートする暇ないって落ち込んでた奴がなあ」
「そういうんじゃないって」
「俺、何も言ってないぞ」
完全に遊ばれている。
ソーマは依頼板へ視線を戻した。
「もういい。仕事探す」
「仕事?」
レオンが覗き込む。
「朝からゴブリン3匹倒してきたんだろ?」
「まだ昼じゃん」
「昇級した日に働くのかよ」
ソーマは依頼板を探す。
今すぐもう1度森へ入る気はない。
できれば平和な仕事。
そして。
目に入った。
【家具・家財運搬補助】
市内。
午後のみ。
Fランク可。
報酬、銅貨35枚。
「……これだ」
依頼書を取る。
レオンが内容を見る。
数秒。
「お前さ」
「何?」
「Eランクに上がる日に、また荷物運ぶの?」
「まだ正式処理終わってないからFだろ」
「そういう問題じゃない」
レオンが吹き出した。
「朝にゴブリン3匹倒して、午後は引越しかよ」
「朝から戦ったんだから、午後くらい平和に働かせてくれ」
「普通は休むんだよ」
「銅貨35枚」
「金かよ!」
レオンの笑い声がギルドに響いた。
ソーマは気にせず、依頼書を受付へ持っていこうとする。
その背中へ、レオンが声をかけた。
「ソーマ」
「何?」
「夜、空けとけよ」
「何かあるの?」
「ある」
「何?」
「夜になればわかる」
嫌な言い方だ。
「変なところ連れてくなよ」
「大丈夫だって」
レオンは笑ったままギルドを出ていった。
ソーマはその背中を見送り。
もう一度、手元の依頼書を見る。
「……まあ、夜までには終わるか」
そのまま受付へ向かった。
◇
午後の仕事は、驚くほど平和だった。
依頼主は街中に住む商人一家。
別の家へ移るため、家具や家財を運ぶ手伝いをしてほしいという依頼だった。
大きな木箱。
椅子。
机。
衣類の詰まった箱。
分解された寝台。
今のソーマには、完全に得意分野だ。
《運搬》で持つ位置と重心を整える。
《重量軽減》で負担を少し減らす。
森の中でゴブリンの大剣を避けていた数時間後とは思えないほど平和だった。
「兄ちゃん、本当に冒険者か?」
一緒に作業していた男が、木箱を運ぶソーマを見て聞いてきた。
「一応」
「荷運び専門じゃないのか?」
「最近それ、よく言われます」
否定もしづらい。
朝。
ゴブリン3匹の単独討伐。
午後。
家具の運搬。
冒険者とは何なのだろう。
自分でも少しわからなくなってきた。
それでも作業は順調に進み、予定より早く終了した。
報酬。
銅貨35枚。
朝のゴブリン討伐報酬が30枚。
今日だけで65枚。
「……昇級した日の収入、半分以上引越しじゃん」
何となく複雑だった。
◇
夕方。
一度銀鹿亭へ戻って荷物を置き、ソーマは約束通りギルドへ向かった。
入口の前には、レオンとリナが待っている。
「遅い」
リナが言った。
「時間通りだろ」
「私たちが早かったの」
「じゃあ俺悪くないじゃん」
レオンが笑いながら歩き出す。
「行くぞ」
「どこに?」
「飲み」
やっぱり。
3人は以前にも入った酒場へ向かった。
店内は、すでに冒険者たちの声で賑わっている。
席へ着くなり、レオンが料理を注文していった。
肉。
パン。
煮込み。
酒。
明らかに普段より量が多い。
ソーマはテーブルを見ながら首を傾げた。
「頼みすぎじゃない?」
「今日はいいだろ」
「何で?」
レオンとリナが同時にこちらを見る。
「……何?」
数秒。
そこで。
ソーマの頭に以前の会話が蘇った。
『次、ソーマがランク上がった時はお前が奢れよ』
「……あ」
リナが笑う。
「思い出した?」
ソーマの顔が引きつった。
革袋の中身を頭の中で計算する。
今日の報酬65枚。
それまでの残金。
宿代。
食事。
そして目の前の大量の料理。
「……俺が奢るんだっけ?」
レオンが真顔で頷いた。
「約束だからな」
「いや、でも」
追加の皿が届く。
「これ全部?」
「昇級祝いだぞ」
「俺の祝いなのに俺が払うの?」
「そういう約束だっただろ」
ソーマは頭を抱えた。
「……午後、もっと働けばよかった」
一瞬。
レオンが吹き出した。
リナも耐えられず笑い始める。
「冗談だよ」
「は?」
「今日は俺たちが出す」
ソーマが顔を上げる。
「……え?」
「Fランク卒業祝いなんだから」
リナも笑った。
「本当に払わせたら、また明日の宿代心配し始めるでしょ」
「ある程度はあるよ!」
「ある程度でこれ全部払うつもりだったの?」
言葉に詰まる。
完全に遊ばれた。
「だったら最初から言ってくれよ……」
「その顔見たかった」
「性格悪いな!」
酒場に3人の笑い声が混ざった。
◇
それからは。
本当にどうでもいい話ばかりだった。
レオンがCランク昇級査定で試験官に言われたこと。
リナがDランク査定の前日、緊張してほとんど眠れなかったこと。
「ちょっと! それ言わないで!」
「緊張してないって言ってたのにな」
ソーマが笑う。
「うるさい!」
今度はソーマの話になる。
「で、お前は?」
レオンが聞いた。
「何が?」
「昇級査定終わったあと何してた?」
「引越し」
数秒。
「……は?」
リナが聞き返す。
「家具運んでた」
「本当に?」
「銅貨35枚」
レオンが額へ手を当てた。
「お前、普通昇級した日はもうちょい余韻とかないの?」
「余韻で宿代払えないだろ」
「またそれ」
リナが笑う。
酒が進む。
料理も減っていく。
仕事。
スキル。
依頼。
普段はそんなことばかり考えている。
でも。
今だけは。
特に意味のない馬鹿話をして。
笑って。
飲んで。
そんな時間も悪くなかった。
◇
酒場を出た頃には、すっかり夜になっていた。
「じゃあな、Eランク」
レオンが笑う。
「まだ正式処理終わってないけどな」
「ほぼ同じだろ」
リナも手を振る。
「明日から受けられる依頼、増えるわね」
「また働かせようとしてない?」
「どうせ働くでしょ」
否定できなかった。
2人と別れ。
ソーマは1人で街を歩く。
向かう先は決まっていた。
例の路地。
今回も。
この世界へ来てから3日目。
ソーマの感覚では、日本へ帰れば日曜の夜になるはずの日だ。
前回も。
その前も。
3日目には扉が現れた。
だから。
どこかで当然のように思っていた。
今日も帰れる。
角を曲がる。
薄暗い路地。
見覚えのある壁。
「……あれ?」
ソーマは足を止めた。
何もない。
いつも扉が現れる場所には。
ただ石の壁があるだけだった。
「……まだ早い?」
空を見る。
もう完全に夜だ。
前回なら。
とっくに扉があってもおかしくない。
場所を間違えたのかと思い、周囲を確認する。
古い木箱。
石畳。
向かいの建物。
間違いない。
ここだ。
でも。
扉だけがない。
ソーマは壁へ近づいた。
触る。
冷たい石。
何も起きない。
「……嘘だろ」
少し待った。
5分。
10分。
それでも。
何も変わらない。
「なんで……?」
酒が一気に抜けたような感覚がした。
今まで。
3日目になれば帰れる。
いつの間にか、そう思い込んでいた。
誰かから教わったわけではない。
扉に説明が書かれていたわけでもない。
ただ。
2回続けてそうだった。
それだけ。
「……まずいな」
日本には大学がある。
明日は月曜日。
1限から授業。
バイトだってある。
それよりも。
もし。
今日出ないなら。
次はいつ出る?
明日?
1週間後?
それとも。
もっと先?
あるいは。
もう出ない?
最後の可能性だけは考えたくなかった。
「いや……それはないだろ」
誰に言うでもなく呟く。
でも。
根拠はない。
しばらく路地で待った。
何度も壁を見る。
何度触っても。
ただの壁だった。
◇
結局。
ソーマは銀鹿亭へ戻った。
歩きながら何度も振り返る。
もしかしたら今頃。
扉が出ているかもしれない。
そんなことまで考えてしまう。
銀鹿亭へ入ると、マルタがこちらを見る。
「あんた、今日は帰ってこないんじゃなかったのかい?」
「……ちょっと予定変わって」
「変な顔してるね」
「そう?」
「酒飲みすぎた?」
ソーマは少し笑った。
「それならよかったんだけど」
マルタが首を傾げる。
だが、それ以上は聞かなかった。
宿代。
銅貨30枚。
いつもなら高いと思う。
今日は。
ほとんど気にならなかった。
部屋へ入り。
固いベッドへ仰向けになる。
薄い壁。
窓から入る隙間風。
もう慣れてきた銀鹿亭の部屋。
「……なんで出なかったんだ」
目を閉じる。
最初に扉が現れたのは金曜日。
3日目に帰れた。
次も。
金曜日に来て。
3日目に帰れた。
今回も同じ。
そう思っていた。
でも。
違った。
何が条件なんだ。
異世界側で過ごした日数?
日本側の時間?
場所?
何かをしなければいけない?
それとも。
単純に扉が出る時刻が違うだけ?
考えても答えは出ない。
初めてこの世界へ来た夜とは違う。
今は。
レオンがいる。
リナがいる。
ガルド。
エレナ。
マルタ。
金も。
武器も。
最初よりはずっとある。
この世界で今夜を過ごすこと自体は、もう怖くない。
でも。
日本には。
大学がある。
自分の部屋がある。
生活がある。
帰れなくていいわけではない。
「……明日の朝、もう1回見に行こう」
朝なら。
出ているかもしれない。
根拠はない。
それでも。
そう思わないと落ち着かなかった。
ソーマは寝返りを打つ。
なかなか眠れない。
扉。
日本。
月曜日。
そんなことばかりが頭の中を回る。
やがて。
朝からゴブリン3匹を倒し。
午後に荷物を運び。
夜まで酒を飲んでいた疲れが勝った。
意識が少しずつ遠のいていく。
眠りに落ちる直前。
最後に浮かんだのは。
Eランクへ上がれた喜びでも。
森で見かけた綺麗な女騎士でもなかった。
――ちゃんと、日本に帰れるよな。
その不安だけだった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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