4.幸せへの一歩
後日、僕は家に帰っていた。父親を説得しなければいけない。
僕は父親がいる執務室を訪れていた。
「お話よろしいですか」
「なんだ」
父親はこちらを見なかった。ただ感情のない声で続きを促す。聞く気がないと言われているように錯覚した。
「この間の婚約の打診の話です。兄様ではなく僕に婚約させてください」
その言葉を聞いて、父親はようやくこちらを見た。そして、大きく溜息を吐いた。
それは、僕を叱る時と同じ行動で、ビクッと体が震える。けれど、そんなものに負けるわけにはいかない。
僕はさらに言葉を続けた。
「僕はセレネ様と親しくさせていただいていますから、僕の方がセレネ様に安心してもらえると思います。決してこの家の不利益になるようにはしませんから、どうか僕に婚約させてください」
お願いします、と頭を下げた。
否定されることは覚悟していた。きっと調子に乗るなと罵られるだろうと。それでも引き下がることは出来ない。セレネ様のそばにいたい。
「ミシェルにも、自分ではなくお前にしろと言われたよ」
そう言われて顔を上げた。父親は冷たい顔をしていた。
あの日、父親の後を追いかけていったミシェルはどうやら説得しにいってくれたようだった。
「私はお前である必要性を全く感じないが、先方はお前でもいいと言ってくださっている」
父親は理解し難いと言いたげな表情をしている。
出来損ないの僕が選ばれるのは納得いかないのだろう。けれど、セレネ様は僕を選んでくれた。それだけが今の僕の心の支えだ。
「不良債権のお前を引き取ってくれるというのだから、まあいいだろう。ミシェルの相手ならいくらでもいるからな」
父親はそこまで言って手元に目を落とした。けれど、すぐに顔を上げて僕を見た。
「ああ、一つ覚えておけ。面倒をかけたくなければ、正しくなくてもいいが決して間違えるな。出来損ないでもそれくらいは出来るだろう」
今度こそ本当に父親は僕に興味をなくしたようで仕事に戻っていった。僕はもう一度頭を下げてから、静かにその場を後にした。
思った以上にスムーズにことが進んでホッとしていた。
今度ミシェルにお礼を言わなければ。そう思いながら、寮に戻ろうと荷物をまとめているとミシェルが帰ってきていた。自立したいと一人で暮らしているのに珍しい。
「兄様」
僕が声をかけると、ミシェルは柔らかく笑ってくれた。
僕はいつも優しいミシェルが好きだ。とても尊敬している。幼い頃はニコラスではなくミシェルについて回っていた。
「おかえり、ジュリ」
「兄様こそおかえりなさい」
「久しぶりにおかえりなんて言われると照れるね」
ミシェルはそんなことを言いながら部屋に招いてくれる。
ミシェルの部屋には大量の本が犇めいていた。
「兄様が帰ってくるなんて珍しいですね」
「今受け持っている患者の症状について書かれた本がここにあって取りに来たんだ」
ミシェルはどこまでも穏やかだった。
決して情熱があるようには見えないのに、真っ直ぐとした芯があるのがわかるのが不思議だといつも思う。
「兄様、ありがとうございます」
「お礼なんていらないよ。元々ジュリに来た縁談なんだから。それにね、僕は恋愛結婚が夢なんだ。秘密だよ?」
ミシェルは悪戯っぽく笑っている。その姿に僕も笑顔が漏れた。
「兄様にそんな夢があるなんて知りませんでした」
「誰にも言ったことないからね。だから、ジュリが羨ましいんだよ?」
僕はミシェルの言葉に驚いてしまう。と同時に、好きな人と結婚出来るということの稀有さが身に沁みた。
「ふふ。もし、いい子がいたら紹介してね?」
冗談めかしてミシェルは笑っている。そして、おめでとうと嬉しそうに呟いた。
「こんな風に言ってくれるのはミシェル兄様だけですね」
「そうでもないよ。きっとニコも喜んでくれるよ」
そういわれて、思わず眉を寄せる。
ニコラスはミシェルと違って絶対に面白がる。わかりきった事実だ。
「あれでもジュリのこと心配してるんだ。ちゃんと教えてあげなよ。面倒だから」
最後の一言がミシェルの本心だと思うのだけれど、それを感じさせない綺麗な笑みを浮かべている。
ミシェルもニコラスのことを面倒だと思っているのは驚きだった。
「教えても面倒だと思うのですが……」
「あー、それはそうかも。けど、味方につけておいたほうがいいと思うよ。じゃないと、死ぬまでネタにされるんじゃないかな。あの時ジュリは教えてくれなかったって」
ミシェルの言葉に、未来を想像して顔が引き攣る。
ニコラスが拗ねたようにずっと文句を言う姿が脳裏に浮かんだ。そうなると大変厄介だ。
ニコラスは長男の癖に一番子供っぽいところがある。
「……今度手紙書いておきます」
直接話すとウザ絡みされるのが目に見えているので、僕はそう答えたのだった。
荷物をまとめて今度こそ寮に戻れると思ったタイミングでニコラスが帰ってきた。そして、早々に見つかった。
「おっ!ジュリー。なんでいんの?」
「父様に相談があって」
ニコラス相手なのでついつい苦い顔になってしまう。
早く寮に戻りたい。けれど、ニコラスに捕まってしまったのでもう無理だ。
「へぇ、相談ねぇ。兄様も一緒に考えてやろう!ほら言ってみ?」
「いえ、もう解決しましたので」
「はあ?仲間はずれかよ!解決したとかどうでもいいからはよ話せ!」
横暴にも程がある。ニコラスに捕まったのが運の尽きだ。僕は大きく息を吐き出した。
ニコラスはそれを同意ととったのか、僕を引っ張って自室に連れ込んだ。
ニコラスの部屋は物が多くてごちゃごちゃしている。ミシェルの部屋が片付いているだけにより乱雑な部屋であるように感じた。それでも、本人は物の場所を把握しているようで、勝手に触られるのを嫌がるのだ。
「ほら、思春期のジュリちゃんは何に困ってるんですかあ?」
ニコラスは目の前でニヤニヤ笑っている。これだから、ニコラスのことが苦手なのだ。
昔から困った顔をしている僕を揶揄うのが生き甲斐のような顔をしている人だった。これで天才と名高かったのだから、世の中は不公平だ。
「この間の婚約の話です。僕が婚約することになりました」
極力揶揄われないようにと視線を逸らさずに言った。
すると、ニコラスはポカンとしてから爆笑し始めた。
「あはははは!じゃあなんでそんな辛気臭い顔してんだよ!」
背中をバシバシと叩かれて思わず咽せる。
どうしてそんなに笑われるのか納得がいかない。それに、辛気臭い顔をしているならどう考えてもニコラスの所為だった。
「しっかし、そうか。ジュリが婚約なあ。相手はえーっと、セレネちゃんだっけ?」
ニヤニヤと言われてイラッとした。
黙っている方が賢いのに、思わず言い返してしまった。
「セレネ様は公爵家の方です!そんなふざけた呼び方をするなんて!」
「ジュリちゃんは堅いなあ。お前のお嫁さんってことはつまり俺の義妹になるってことだろ?」
「なりません!」
もちろんそう称するのが正しいとはわかっている。けれど、それを認めるのがどうしても嫌だった。
セレネ様がニコラスの義妹だなんて、そんな失礼な話があってたまるか。
「嫉妬深い男は嫌われるぞ〜」
ニコラスはおもちゃを見るような目で僕を見て、それからわしゃわしゃと髪を掻きまわした。
どうにか押しのけようとしたけれど、ニコラスの方がガタイもよく力も強い。僕はニコラスが飽きるまで大人しくしているほかなかった。
少しして解放された僕は、ニコラスを睨んでいた。
今にも威嚇しそうな僕の姿にニコラスはお腹を抱えて笑っている。腹立たしいことこの上ない。
「いやあ、ジュリは猫みたいで可愛いなあ」
馬鹿にされているとしか思えない言葉に、嫌気がさす。
「もう行ってもいいですか」
ニコラスの相手はもう十分だ。早く戻りたい。
「ええー。ジュリちゃんはつれないなあ。もっと兄様に構ってくれてもいいと思うんだけど?いーっつもミーシャにばっか懐いてさ」
ニコラスは口を尖らせている。
もし懐かれたいと言うのならば、まず自分の行いを振り返ってみろと言いたい。揶揄ってくる相手にどうして懐けるというのだ。
「ミーシャはミーシャで仕事が忙しいって帰ってこないし」
ぶーぶーと文句を垂れている姿は到底次期当主の長男には見えない。
こういう姿はげんなりするけれど、こういう姿があるから嫌いになれないというのもわかっている。これがなければただの鼻につく天才になってしまう。
僕は仕方なくニコラスの機嫌をとることにした。
「ミシェル兄様だけじゃなく、ニコラス兄様も頼りにしていますよ。僕、兄様が一番かっこいいと思ってるんです」
真偽は置いておいて、この言葉は昔から鉄板の言葉だ。こう言っておけば、ニコラスは大抵のことを許してくれる。流石にもうこの言葉を十全に信じてはいないだろうけれど、兄心をくすぐる言葉らしかった。
今もニコラスは小さく溜息を吐いて、呆れたように笑っている。
「仕方ないなー。寮に戻るんだろ。行っていいぞ」
ニコラスは手を振って、僕を解放した。僕は軽く頭を下げてから、部屋を後にした。
寮に戻る馬車の中で、僕はぎゅっと目を閉じた。安堵で湧いてくる涙を止めるためだったのだけれど、あまり意味をなさず、結構泣いてしまっていた。
怖かった。
父親があんなに簡単に許可してくれるとは思わなかったし、ミシェルが背中を押してくれているとも思わなかった。ニコラスはまあ予想通りだけれど、それでももっとデリカシーのない切りつけるような言葉を言われるかもしれないと思っていた。
けれど、実際は強く否定されることはなかった。もし何かを言われても徹底抗戦するつもりだったけれど、それでも父親に意見するのは僕にとってハードルが高いことだ。行きの馬車では頭の中には嫌な想像ばかりが詰まっていたくらいだから。
それが杞憂に終わった。
本当に僕がセレネ様の婚約者になれる。まだ夢を見ているようだけれど、それでも無事に了承を得られた。
僕は馬車が寮につくまで泣き止めなかった。そして、次の日、泣きすぎて真っ赤になった目のまま登校することになったのだった。




