1.青天の霹靂
僕には幸せになってほしい人がいる。
幼い頃に見た花が綻ぶような笑顔を思い出す。僕はそれを遠くから見ているだけだったけれど、いつも彼女の笑顔に救われていた。
彼女が笑う。それだけで場は華やぎ、そこにいる僕までも素敵な人間になれたかのように錯覚出来る。だから、幼い頃の僕はいつも彼女を眺めていた。
話しかけることはしなかった。
家格差があるからというのもあるけれど、何より僕は兄上たちと違ってダメな人間だ。そんな人間が清廉な彼女に話しかけるなんて烏滸がましい。
彼女──セレネ様は僕にとって雲の上の人だった。
だから、学校に入ってセレネ様が婚約者である王子に冷たくあたられているのを知っていて何もしなかった。
僕は笑わなくなっていくセレネ様をただ苦しい思いで見ているだけしか出来ない最低な人間だ。
あの日、フェイスを食堂に連れて行ったのはたまたまだった。けれど、少しの期待があったことも否めない。もしかしたら、ぶち壊してくれるかもしれないというズルい気持ち。
まさか本当にそうするとは思わなかったし、それでフェイスがセレネ様と親しくなるなんてもっと思わなかったけれど。
セレネ様の目に僕が写った時、舞い上がると同時に酷い罪悪感に見舞われた。
フェイスのついでだけれど、声をかけてもらえて天にも昇る気持ちで、けれど、これが最初で最後だろうとホッとした。
フェイスにボンクラと言われたことだって、軽蔑されただろうと本当は安堵した。
セレネ様と関わることは、僕にとって過ぎたることだ。起こり得るはずがないことだ。
だから、お茶会で直接話したことは僕にとって衝撃的過ぎた。そして、セレネ様を摂取しすぎで可笑しくなった。
まさかエリックとフェイスにまで心配されるほど可笑しくなっているとは思わなかったけれど。
どうやら僕は腑抜けたダメ人間になっていたらしい。そこまでの自覚はなかった。折角、エリックのおかげでマシな人間になれていたというのに。
両親の言葉は正しい。何をやらせても平凡以下で僕はいつまで経っても成長しない。それをまた証明してしまったわけだ。
そのことで今度は凹んでいたのだけれど、そんな時にセレネ様に声をかけられた。
あの日の温室で、二人で向かい合う。
自分の心臓がバクバクと動いているのがわかった。指先は痺れていて、フェイスではないけれど、音を立てずにティーカップを持ち上げることが出来そうにない。
僕は目線を下げて紅茶の水面を見つめていた。
何の話をされるのか、きっと顔は真っ青だった。
「わたくし、跡取り娘ですの」
そんなセレネ様の第一声に顔を上げた。
それは当たり前の事実だった。
王子殿下と結婚するなら王家に嫁いだだろうけれど、あんなことが起きたのだから破談になるだろう。
そうなると、セレネ様は婿を取って家を継ぐ。貴族なら誰だって知っている。
「そして、あの馬鹿王子……失礼しました。王子殿下と婚約破棄をする予定ですわ」
セレネ様は笑顔を浮かべているけれど、目が笑っていない。
余程腹に据えかねていたようだった。それもそうだろう。
影でセレネ様の婚約者だった第二王子を馬鹿王子と呼んでいる人間は結構多い。そんな人間がセレネ様の相手だなんて例え王子であろうと許されない。破棄出来るなら本当に良かった。
そんなことを思いながらセレネ様を見る。セレネ様は紅茶を一口飲み、とても真面目な表情で僕を見た。鋭い視線ではないのに、射抜かれているかのように錯覚した。
「だから、わたくしは次の婚約者を選ばなくてはなりません」
確かにそうだと僕はセレネ様に頷き返した。すると、セレネ様は呆れたように息を吐き、扇子を広げ口元を隠した。
「家格が釣り合うマトモな人間があなた以外残っていないのは理解していますか」
そこまで言われて、僕はポカンと口を開けてしまう。
貴族としてあるまじきことであるのはわかっていたけれど、理解が追いつかない。
「察しが悪いのは性格?それともわたくしが絡んでいるからかしら?」
どうやらこれはお見合いのようなものだとセレネ様は言いたいらしい。
扇子を畳んだセレネ様の口元は弧を描いていた。
「それで、あなたしかいないのですけれど、わかりましたか?」
そう念を押されて、ふと思う。僕である必要はない、と。
セレネ様は家格と言うけれど、公爵家にとってそれは大した問題ではない。セレネ様の家は安泰で、だから子煩悩の陛下が王子殿下の相手に選んだのだ。
つまり、セレネ様は必ずしも家格が釣り合う相手を選ぶ必要はないし、選ぶべきは能力が高く、性格もいい相手の方がいい。
僕はセレネ様の相手がそういう人であってほしい。
「僕である必要は本当にありますか?セレネ様はどんな人でも選べる。例え爵位が低かろうが、それこそ平民であったとしても、婿にすることは容易いはずです」
「そうですわね。けれど、父はあなたの家に打診するつもりのようです。わたくしもそれを受けいれていますの。ですから、ジュリアン様も覚悟なさってくださいな」
真っ直ぐな目を向けられて頷かずにいられる人間がどれほどいるだろうか。僕は、どれだけ自分が相応しくないと思ってもセレネ様の言葉を否定出来なかった。
「謹んで承ります」
僕の答えを聞いたセレネ様は緩く笑んで満足そうに頷いた。
「これで心穏やかにいられますわね。ジュリアン様も結婚相手選びに困っていらしたのでは?」
そう言われて苦笑を浮かべる。
結婚だなんて僕の人生には今この時まで存在していなかった。
僕は三男だし、両親はマトモなところに俺を嫁がせようとはきっと思っていなかった。流石に放逐されることはないだろうから、適当な商家に売られるのが関の山だろうと。
「どうでしょうか。少なくとも両親からそんな話は聞いたことがありません。そもそも僕は選べる立場にいませんよ」
言っていて恥ずかしくなった。自分はダメな人間ですと自己紹介しているようで、上手く笑えない。
「可笑しいですわね。あなたを婿にほしいと言っている家はいくつかあったはずですけれど。こんなに優良物件滅多にないですのに。この言い方は少しはしたないかしら」
セレネ様は不思議そうに首を傾げている。
それはきっと誰かと間違えているのだろう。僕に婚約の打診がくるわけがないし、優良物件だという評価を受けるのも納得出来ない。
「はしたないなんてそんなこと。セレネ様の評価に恥ずかしくないように努めます」
僕の言葉にセレネ様は困ったように眉を下げた。
「それではまず、敬語をやめるところから始めましょうか」
「そんな……!恐れ多いです」
思わず俯いてしまう。けれど、セレネ様は僕の反応なんて気にせずに続ける。
「わたくしとジュリアン様の間には上も下もありませんのよ?わたくしは敬語が癖ですから、難しいですけれど、あなたは普段フェイスたちと話すように話せばいいだけですわ」
その言葉に首を振ると、セレネ様は片手を頬に当て悩ましげに息を吐いた。
「先が長そうですわね……。まあ、今は内々のお話ですし、今年中に敬語を外していただければいいですわ。そして、卒業までにはレーネと呼んでくださいね、ジュリ」
「ジュリ……」
「あら、ご不満?可愛らしい愛称だと思うのだけれど。それとも、他の呼び方がよろしいですか?言ってくだされば考慮いたしますわ」
セレネ様はニコニコと楽しそうだ。揶揄われているのだろうか。
本心を読むことが出来なくて、ドギマギしてしまう。セレネ様はそんな僕に悪戯っぽく笑いかける。
「イメージとは違うかもしれませんが仲良くしてくださいね、ジュリ」
「も、もちろんです!」
瞳が翳った気がして、慌てて返事をした。
イメージと違うなんてとんでもない、と思ったけれど、確かに最近のセレネ様とは印象が違うのかもしれない。
フェイスと一緒にいるところが衝撃的過ぎて忘れていたけれど、普段のセレネ様は笑わない。凛と真っ直ぐで、けれど、周りとは線を引いていたように思う。そんなセレネ様が今表情豊かに笑っている。
馬鹿王子との婚約がなくなったからこうなのだというならば、僕はフェイスに一生頭が上がらないだろう。昔のようにセレネ様が笑ってくれる。それだけで、僕は幸せだ。
そこまで、考えてようやく思考が追いついてきた。もしかして、僕はとんでもない席に座ってしまったのではないのだろうか。
喜びで舞い上がるよりも、セレネ様に迷惑をかけないか不安で頭は恐怖に染まった。
腑抜けている場合ではない。セレネ様の恥にならない人間にならなければ。
僕は一つ大きく息をした。これからのことを思うと身震いがする。けれど、気づかれないように薄く笑った。
覚悟を持って生きる。全て平凡以下の僕だけれど、それだけはまっとうしたいと思った。




