第98話:初めてのハロウィン
十月三十一日。
金曜日の夕暮れ。駅前の大型スーパーに立ち寄った湊は、いつも通りカートを押し、頭の中に描かれた見取り図に従って、指定されたルートを正確に移動していた。
野菜売り場で特売のキャベツの価格を確認し、精肉コーナーでグラム単価の最も安い豚肉のパックをカゴに入れる。ここまでは、日々のルーティンであり、何一つ変わらない日常の風景だった。
しかし、今日の湊のミッションはそれだけでは終わらない。
精肉コーナーを抜けた湊は、カートの進行方向を微調整し、普段なら絶対に足を踏み入れないエリアへと向かった。
視線の先にあるのは、オレンジ色と黒の極彩色で彩られた、ハロウィン特設コーナーである。
数日前の昼休み。春奈と矢野を交えて行われた「生活の調査」において、湊は一つの仮説を導き出していた。
『イベントは正解を当てるゲームではない。一緒にやるものだ』
『まずは、小さいのでいい。行事なんて、積み重ねだ』
彼らの言葉は、湊の中にあった考え方を少しだけ変えた。
今までの湊にとって、イベントとは必要性のない出費であり、時間と金の無駄だった。
しかし、詩織と一緒に暮らす生活では、それだけでは判断できないものなのかもしれない。
行事には、相手と同じ時間を過ごし、関係を深める意味がある。
ならば、一度試してみる価値はある。
湊はそう判断した。
湊は特設コーナーの前に立ち止まり、陳列された商品を無表情で見渡した。
紙製のガーランド、プラスチックのコウモリ、魔女の帽子、そして様々なサイズや顔つきのランタン。
春奈は「小さいのでいい」と言った。
湊の脳内で、その言葉が咀嚼され、彼特有の論理フィルターを通って変換される。
(小さい、とは物理的な体積を指すのか? いや、違う。「小規模な実施」という意味合いでの「小さい」だ。ならば、複数の装飾品を乱雑に配置するのではなく、対象を一つに絞り込むのが、最も効率的で、効果を判断しやすい。)
対象を一つに絞る。
湊はまず、手のひらサイズの可愛らしいプラスチック製ランタンを手に取った。悪くはないが、軽すぎて存在感が薄い。次に、壁に飾る紙製のガーランドを見る。テープで壁を汚すリスクがあり、設置と撤去の工数がかかるため却下。卓上の小さな魔女の置物も確認したが、視覚的なアピールが弱すぎる。
小規模かつ確実なインパクトを残し、ハロウィンという非日常の「象徴」として最も説得力のあるオブジェクトは何か。
湊の視線が、陳列棚の一番下、値札の数字が他よりも一段高い場所に固定された。
そこにあったのは、両手で抱えなければ持てないほど巨大な、本物のカボチャを模した陶器製のランタンだった。禍々しくも愛嬌のある顔が深く彫り込まれ、内部に光源を入れられるようになっている。
先ほど見た小型のランタンとは比べ物にならない質量と存在感。
(これならば、単体でハロウィンの象徴としての要件を完全に満たす。小規模な実施でありながら、確実なインパクト。費用対効果としては悪くない)
湊は迷うことなくしゃがみ込むと、その陶器の怪物に両腕を回した。
ずしり、と予想以上の重量が腕にのしかかる。高校生男子の腕力をもってしても、片手で軽々と扱えるような代物ではない。湊は小さく息を吐き、両腕でしっかりと抱え上げるようにして、それをカートの空きスペースへと慎重に載せた。
ゴトリ、と鈍い音が響き、カートの中の特売キャベツが端へと追いやられる。
生活と、行事。
キャベツと、巨大なオレンジ色の塊。
カートの中に生まれた奇妙な同居状態を見下ろし、湊は「これでいい」と小さく頷いた。あとは、春奈から指定された「普通のクッキー」を調達するだけだ。
湊は再びカートを押し、見慣れない色を乗せたまま、レジへと向かった。
*
午後六時半。
秋の日は釣瓶落としという言葉通り、外はすでに完全な夜の闇に包まれていた。
駅から少し離れた住宅街。冷たい風が吹き抜ける中、詩織は肩をすぼめながら歩を速めた。ポケットの中で、両手の指先が冷え切っている。
右手には、いつも通りの通学カバン。そして薬指には、冷たい外気の中でも確かな存在感を放つ、細い銀色のリング。
歩きながら、詩織は無意識のうちにそのリングを親指でそっと撫でた。
誕生日から半月。指輪の感触にはまだ少しだけ慣れないけれど、それが目に入るたびに、胸の奥に小さな灯りがともるような気がした。
やがて、詩織の視界に、見慣れたシルエットが浮かび上がった。
湊の両親が残した、少しだけ古いけれど、しっかりと手入れされた二人暮らしの一軒家。リビングの窓からは、温かな光が漏れ出ている。
詩織は少しだけ歩調を速め、玄関のドアの前に立った。
冷えた指先で鍵穴にキーを差し込み、カチャリと回す。
「ただいま、湊くん。今日はお鍋……」
靴を脱ぎ、リビングへのドアを開けた瞬間。
詩織の言葉は、そこで完全に停止した。
目に飛び込んできたのは、いつもの見慣れた、無駄なものが一切ない整然としたリビング。
……の、はずだった。
だが今、リビングの中央、ローテーブルの上に、それは鎮座していた。
オレンジ色に鈍く光る、巨大な陶器の怪物。
二人暮らしの空間にしては、その存在感はあまりにも暴力的で、部屋の調和を完全に破壊していた。
「……え?」
詩織は、カバンを持ったまま目を瞬かせた。思考が追いつかない。
その置物の向こう側、キッチンのカウンターに寄りかかるようにして、湊が腕を組んで立っていた。彼のエプロン姿と、禍々しいランタンのコントラストが、詩織の脳内の処理能力を著しく低下させる。
「……湊くん?」
「ハロウィンだ」
湊は、さも当然のことのように、自信満々な声で言い切った。
「いや、ハロウィンですけど……なんで、こんなに本格的なんですか?」
詩織は恐る恐るその塊に近づき、圧倒的な質量を確かめるように見下ろした。「これ、すごく重かったですよね……?」
「小型のものも確認したが、象徴性が不足していた」
湊は平然と答える。
「だから、ハロウィンの象徴としての質が最も高いと判断したものを選択した。一点突破の効率的な装飾だ」
「一点突破って……」
詩織は、ひきつりそうになる頬を必死に抑えた。
最初は困惑しかなかった。けれど、じわじわと込み上げてくるものがある。
あの、徹底的な合理主義者である湊が。一円単位で家計簿を管理し、無駄を何よりも嫌う彼が。
自転車の横で巨大なカボチャを抱え、真顔で運搬方法を検討している湊の姿が頭に浮かんだ。
想像しただけなのに肩が震えた。
息を吸おうとしても笑いが先に漏れた。
「ふふっ……あははっ!」
「……何がおかしい」
湊が怪訝な顔で眉を寄せるが、詩織の笑いは止まらなかった。
おかしいのではない。嬉しいのだ。
彼が自分のために、彼の最も苦手とする「論理で割り切れない行事」に、彼なりの全力で挑んでくれたことが。
「ごめんなさい、なんでもないです」
詩織は目尻の涙を拭い、陶器の丸みを撫でながら、もう一度柔らかく笑った。
「ありがとう、湊くん。これ……すごく嬉しいです。飾る場所、ここなら大丈夫そうですね」
「ああ。動線を妨げず、かつ視覚的インパクトを最大化できる位置だ」
湊は、その横顔をじっと見ていた。
巨大な置物を前にして、呆れるでも怒るでもなく、口元だけでなく、目尻まで緩ませて笑う彼女の表情。その見たことのない曲線を、湊は、その笑顔を記憶した。
ただの生活記録ではない。数字にも、効率にも置き換えられないものとして。
その時だった。
『ピンポーン』
リビングのインターホンが、間延びした電子音を響かせた。
「え、誰だろう。宅配便かな」
詩織が振り返る。
「時刻は午後七時二十分。来客の予定はないし、荷物の配達指定もしていないはずだ」
湊がいぶかしげに眉を寄せながら、壁のモニターに近づく。
画面に映っていたのは、見慣れた制服姿の二人組だった。
『おーい、湊ー。開けろー』
『トリック・オア・トリート!』
モニター越しに、矢野と春奈の呑気な声が響き渡った。
湊は、数秒間、状況の把握に努めた。エラーだ。完全に予定外の事態。
「……何の用だ」
湊が通話ボタンを押して低い声で問う。
『報告会だ。湊のハロウィン、成功したかどうか確認しに来た』
矢野が、モニター越しににやりと笑った。彼の頭には、百均で買ったと思われるチープな黒い猫耳のヘアバンドが乗せられている。
『それにさ、一人でやるには可哀想じゃん。詩織ちゃんも楽しみに待ってるだろうし』
春奈が、スーパーの袋を画面の前に突き出して、自然な笑顔で言った。
「おい、待て。許可――」
湊が拒絶の言葉を紡ごうとしたが、時すでに遅し。詩織が「奈々ちゃんたちだ!」とパタパタと走り、あっという間に玄関の鍵を開けてしまった。
「おじゃましまーす!」
「うっす。寒かったぜ」
外の冷たい空気と共に、春奈と矢野が当たり前のように玄関をまたいで上がり込んでくる。
二人とも、一軒家にお邪魔するという遠慮など微塵も感じさせない、図々しくも温かい足取りでリビングへと直行した。
「ちょ、えっ!?」
リビングに入った春奈の声が、一瞬にして止まった。
その視線が、ローテーブルの上の巨大な塊に釘付けになる。
「……なにこれ、デカすぎるんだけど!!」
「だから言ったじゃん! なんでこれにしたのよ! もっとこう、卓上サイズのアクリルスタンドとか、そういう可愛いのだってあったでしょ!?」
「小型のものも確認したが、象徴性が不足していた」
湊が大真面目に反論する。
「あー、湊だねえ。納得の暴走っぷりだわ」
矢野が腹を抱えて笑いながら、自分の持ってきた炭酸飲料のペットボトルを勝手にダイニングテーブルに置いた。
「ほら詩織ちゃん、コップ出してコップ。今日はパーティーだぞ」
「あっ、はい! 今出します!」
詩織が慌ててキッチンへ走り、戸棚からグラスを四つ取り出す。
湊は、その騒動の渦中で、一人立ち尽くしていた。
*
数分後。
オレンジ色のランタンが見下ろすテーブルの上には、湊が買ってきた「普通のクッキー」と、春奈たちが持ち込んだ色とりどりのスナック菓子、そしてプラスチックのコップに注がれたコーラが並んでいた。
「ちょっと矢野、あんたの手の届くところにポテチ置かないでよ。全部食う気?」
「いいだろ別に。湊、お前も食えよ。ほら、あーん」
「断る。塩分の過剰摂取だ」
「相変わらずノリが悪いなー」
矢野は勝手に立ち上がって冷蔵庫を開けようとし、春奈に「勝手に開けない!」と背中を叩かれている。
矢野はへらへら笑いながら、今度は自分の頭に乗せていた百均の猫耳を外した。
「おい詩織ちゃん、これつけろって。せっかく買ってきたんだから」
「ええっ、恥ずかしいですよそういうの!」
詩織が顔を赤くして躱すが、春菜もそれに乗っかる。
「いいじゃんいいじゃん! 写真撮ろうよ! 湊もなんか被る?」
「断る。視界が狭まり生活に支障が出る」
「お前は一生そのままのキャラでいろ!」
春奈がランタンの裏側に回り込んで「ひょっこり」顔を出すようなふざけた写真を撮り始め、詩織がそれを見て手を叩いて笑っている。
湊は、その喧騒から少しだけ離れたキッチンのカウンターに寄りかかり、腕を組んでその光景を眺めていた。
予定外の来客。予定外の出費。予定外のカロリー摂取。
すべてが彼の管理範疇を超えている。
(……非効率的だ)
湊の脳内の論理演算は、瞬時にそう結論付ける。
しかし。
湊の視界には、エクセルの数字では決して導き出せない光景が映っていた。
誰かが開けたコーラの泡が弾ける音と、春奈の笑い声が重なる。
窓の外は寒いはずなのに、上着を脱ぎたくなるくらい部屋の空気が軽かった。
騒がしい。予定通りではない。
だが。
湊の脈拍は、いつもより確かに速かった。
その速さが、彼に不安をもたらしていない。
むしろ。
彼は、ゆっくりと歩み寄り、ランタンの横の空いたスペースに腰を下ろした。
「あ、湊くん。これ、美味しいですよ」
詩織がこちらを向き、春奈が持ってきたチョコクッキーを一つ手渡してくる。
その笑顔は、あまりにも自然で無防備で、湊は一瞬だけ視線を逸らしたくなった。
「……そうか」
湊は短く応え、クッキーを口に運んだ。
甘かった。
ただの市販のクッキーのはずなのに、なぜか二枚目にも手が伸びそうになる。
*
夜も更け、時計の針が午後十時を回った頃。
嵐のように騒ぎ立てた春奈と矢野が、「じゃあな!」「またね、詩織ちゃん!」と帰っていった。
玄関のドアが閉まり、鍵をかけると、一軒家には再び元の静寂が戻ってきた。
しかし、リビングのテーブルの上には空になったお菓子の袋やグラスが散乱し、陶器の怪物が、どこか得意げな顔で部屋の中央を占拠している。
部屋の空気には、まだ彼らの笑い声の残響が漂っていた。
湊は、無言でテーブルの上の片付けを始めた。
詩織も隣に立ち、グラスを重ねてキッチンへと運ぶ。
二人の間に言葉はなかったが、手際よくゴミを分別していく動作のリズムは、心地よく同調していた。
食卓の片付けを終えると、湊はリビングの隅にある自分のデスクに向かい、ノートパソコンを開いた。
いつもの、エクセルの家計管理表の画面。
生活費、光熱費、教材費。規則正しく並んだ数字の列。
湊の視線は、昨日追加したばかりの、一番下の新しい項目へと下りていく。
【行事費】
彼はキーボードに手を置き、今日のハロウィンにかかった金額を入力していく。
巨大な置物代。予定外のクッキー代。
数字が打ち込まれ、合計金額が自動で再計算される。
無駄だ。
彼自身のルールに従えば、この数字は今すぐバックスペースキーで消去し、「反省点」として次月に繰り越すべきエラーデータである。
キーボードの上で、湊の指が数秒間、止まる。
削除キーを押せば、数字は消える。効率の悪い記録など、彼には不要だ。
カチャリ。
湊は、その数字を、そのままにして保存ボタンを押した。
画面が一度暗転し、新しいデータが上書き保存されたことを告げる。
湊はパソコンを閉じ、静かに椅子から立ち上がった。
リビングのソファに腰を下ろし、温かいお茶を飲んでいた詩織が、ふと顔を上げた。
「湊くんは、どうでしたか」
湊はしばらく黙っていた。
楽しかった。
そう結論づけることはできる。エクセルの数式には収まらない時間だったが、春菜や矢野が持ち込んだ騒がしさは、決して不快ではなかった。
しかし、その評価はどこか本質からズレている気がした。
今日という非日常を思い返したとき、真っ先に彼の脳裏に浮かぶのは、巨大な陶器のランタンでも、甘いクッキーの味でも、矢野たちの騒がしさでもない。
笑っていた、詩織の顔だった。
代わりの利かない、他のどんなデータよりも鮮明な記憶。
だから湊は、今日一日で最も確実だった事実をそのまま口にする。
「……お前が笑っていた」
詩織が瞬きをする。
「え?」
「春奈たちと話している時も。クッキーを食べている時も」
湊は視線を逸らした。
「……その回数が、想定より多かった」
詩織の肩が小さく震える。
笑いを堪えているのか、泣きそうなのか分からない。
「それで?」
静かな声で促される。
湊は数秒考えた。
そして。
「……悪くないと思った」
一度言葉を切る。
「いや」
修正する。
それはデータの誤差の修正ではない。
彼が初めて、自分自身の感情を認めるための修正だった。
「もう少し見たい」
静かなリビングに、その不器用な、だが確かな欲求が響いた。
詩織は何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。
代わりに小さく目を細めた。
*
寝室へ向かう途中。
湊の視線が、まだリビングのテーブルに残された巨大なランタンへ向く。
ハロウィン。
成功率は高かった。
だが、事前のサイズ選定のミスや、来客への対応など、改善点も多い。
来年度には、より効率的で満足度の高い運用が可能だろう。
そして。
十二月まで、あと二ヶ月。
湊は立ち止まり、静かに考える。
クリスマス。
未知のイベント。
調査が必要だ。かなり。
「……」
数秒後。
湊はポケットからスマートフォンを取り出した。
無表情のままブラウザを開き、検索窓に文字を入力する。
『クリスマス 必要なもの』
迷うことなく、エンターキーを押す。
その真剣すぎる横顔を見ていた詩織が、堪えきれずに小さく吹き出した。
湊が振り返り、怪訝そうに眉を寄せるが、詩織は「なんでもないです」と首を振りながら、またクスクスと笑い続けた。




