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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第97話:生活の調査

 昼休み。

 教室の空気が、四時間目の微かな緊張感から解放され、弁当箱を開ける音や椅子の引かれる音で一気に緩んでいく。


 窓際の席では、矢野が購買で買ってきた焼きそばパンの袋を乱暴に破り、向かいの席に座った春奈が手作りの弁当箱の蓋を開けていた。

 中身は卵焼きとプチトマト、それから少し形の崩れたおかずが並んでいる。彩りだけは妙に整っていた。

 いつもの軽口、いつもの風景。どこにでもある高校の、ありふれた昼の時間。


「でさ、今年の数学の範囲、絶対おかしいって」

「あんたが授業中寝てるからでしょ。ノート見せてあげないよ」

「頼む、神様仏様春奈様」


 そんな生産性のない会話の途中に、彼が現れた。

 湊だった。

 手に無地のノートとシャープペンシルを持ち、表情を一切崩さないまま、春奈と矢野の机のすぐ傍に立っていた。

 その直立不動の姿勢と、全く読めない黒い瞳。

 春奈は箸を止め、矢野は焼きそばパンを口に運んだまま動きを止めた。二人とも、嫌な予感しかしていなかった。普段、湊が用もないのに他人のテリトリーに足を踏み入れることはない。


「少し時間をくれ」


 湊が、淡々とした声で言った。

 矢野は、口の中のパンを咀嚼して飲み込む。警戒するような眼差しのまま。


「……お前、その前置きで碌な話だったことねえぞ」

「相談がある」


 ピタリ、と。

 春奈と矢野の動きが、完全にフリーズした。周囲の喧騒は続いているのに、この半径一メートルの空間だけが切り取られたように静まり返る。


「……相談?」


 春奈が、聞き間違いかというように首を傾げる。


「お前が?」


 矢野が、信じられないものを見るような目で湊を指差した。


「ああ」


 湊は、当然のことのように短く頷いた。

 二人が顔を見合わせる。本当に、珍しい。いや、珍しいという言葉では足りない。彼が他人に「相談」という行為を持ちかけるなど、太陽が西から昇るよりも確率が低い事象のはずだった。


「……とりあえず、座れば?」


 春奈が隣の空き椅子を指差す。湊は礼を言うこともなく、静かにその椅子を引き、背筋を伸ばして座った。そして、手に持っていたノートを机の上に広げる。白紙のページ。


 湊はシャープペンシルを構え、二人を真っ直ぐに見据えた。

 完全に、本気の目だった。


「ハロウィンについて教えろ」


 沈黙。

 矢野が、自分の耳を疑うように顔をしかめる。


「は?」

「え?」

 春奈も間抜けな声を漏らした。


「調査中だ」

「何を」

「生活を」


 意味が分からない。

 生活の調査、という単語と、ハロウィンという単語が、春奈たちの頭の中で全く結びつかない。

 春奈は、弁当の卵焼きを箸でつつきながら、探るように尋ねた。


「いや、待って。湊、昨日まで『受験生に不要なイベントだ』って全否定してたじゃん」

「今も理解はしていない」


 湊は即答した。迷いはない。


「だから、調査している。知らないものを排除するのは非合理的だ。有用性があるのなら、運用ルールを再構築する必要がある」


 春奈と矢野は、揃って頭を抱えた。

 こいつは、ハロウィンを何だと思っているのだろうか。


 *


「いいか、まずは基本概念から確認する」

 湊がシャープペンシルの芯をカチリと出し、ノートに向かった。

「お前たちは、ハロウィンを何のために行う」


 まるで、新薬の臨床試験の目的を問うような真剣なトーンだった。

 矢野が、呆れたように焼きそばパンの残りを口に放り込む。


「楽しいから」

「曖昧だ」

 湊のペンが止まる。

「春奈。楽しいとは、なんだ」


「楽しいは、楽しいでしょ。みんなで集まって、美味しいもの食べて、わちゃわちゃする感じ」

「定義しろ」


「……は?」

「『わちゃわちゃする感じ』では、数値化できない。ドーパミンの分泌によるストレス値の低下か? それによる翌日以降の学習効率の向上が目的か?」


「無理」

 春奈が即座に白旗を上げた。

 横で矢野が腹を抱えて爆笑している。


 湊は、笑われている理由が分からず、真面目な顔でノートに文字を書き込んでいく。

『・楽しい → 定義不能』

『・わちゃわちゃ → 数値化困難』


「やめなさい、ノートに書くのやめなさい」

 春奈が慌てて湊のノートを隠そうとするが、湊はそれを躱して次の質問に移った。


「では、空間の構築について聞く。飾り付けは必要か」

「いる」

「理由は」

「雰囲気」

「定義しろ」

「だから無理なの!」


 完全に堂々巡りだった。

 湊にとって、「雰囲気」という言葉はエクセルの関数に組み込めないノイズだ。しかし春奈たちにとって、イベントの本質はその「雰囲気」そのものだった。


「お前さ」

 笑い疲れた矢野が、涙目を拭いながら口を開く。

「何でそんな小難しく考えるんだよ。適当にカボチャの置物でも買ってきて、お菓子食ってりゃそれでハロウィンなんだよ」


「適当、という概念が俺の運用ルールにはない。カボチャの置物は、生活の生存確率を上げるか?」

「上げるわけねえだろ」

「なら、なぜ買う」

「だから、楽しいからだって」

「ループしているぞ、矢野」


 湊は、少しだけ苛立ったようにペン回しを始めた。彼の中で、論理が全く組み上がらないことへのストレスが溜まっているのがわかる。


 *


 会話の途中。

 春奈がふと、箸を完全に置いて湊の顔をじっと見つめた。

 その視線の鋭さに、湊のペン回しが止まる。


「ちょっと待って」

 春奈の声のトーンが、少しだけ変わった。茶化すような響きが消え、静かな問いかけになる。

「湊。なんでそんなに、知りたいの?」


 湊が黙った。

 周囲の喧騒だけが、三人の間を通り抜けていく。

 湊の視線が、春奈から外れ、ノートの白紙の余白へと落ちた。数秒。彼の中で、様々な思考のプロセスが回っているのがわかった。

 やがて、湊は顔を上げ、平坦な声で答えた。


「……詩織のためだ」


 沈黙。

 春奈は、口を少し開けたまま固まり、矢野は焼きそばパンの袋を握り潰したまま動かなくなった。


「何だ」

 湊が、怪訝そうに眉を寄せる。


「いや」

 春奈が、何とか声を出した。

「思ったより重症だった」

 矢野が、深いため息をつきながら天を仰いだ。


「意味が分からん」

 湊は不満そうに言った。

「こっちの台詞だ」

 矢野が即座に打ち返した。


 湊には理解できていない。自分がどれだけ決定的な一言を口にしたのか。

 彼はただ「事実」を述べたに過ぎない。自分一人の生活なら、行事費など永遠に不要だった。しかし、詩織が共有する生活には、それが必要らしいという仮説が立った。だから調査している。

 だが、その「他人のために自分の定義を曲げる」という行動そのものが、湊という人間の根幹をどれほど揺るがしているか、春奈と矢野には痛いほど伝わっていた。


 *


 春奈は、小さく息を吐き出し、姿勢を正した。


「じゃあさ。湊」

「なんだ」

「詩織ちゃんって、何が好きなの?」


 湊は、一瞬だけ怪訝な顔をした。それがハロウィンと何の関係があるのか、と言いたげだった。しかし、調査のためだと割り切り、脳内のデータフォルダを検索する。


「英語」

「違う」

 春奈が即座に却下した。

「……参考書」

「違う」

「……睡眠」

「違う」


 湊は少し考え込み、最も確実な数値を弾き出した。

「……模試」

「ぶっ!」


 矢野が、たまらず吹き出した。

「お前、それ彼女のプロフィールじゃなくて成績表だろ!」


「そうじゃなくて」

 春奈が、呆れながらも少しだけ身を乗り出す。

「お菓子とか。色とか。季節とか。思い出とか」


 湊の思考が、ピタリと停止した。

 お菓子。色。季節。思い出。


 湊は、答えられなかった。


 彼が知っているのは、詩織を生き延びさせるためのデータだけだ。

 起床時間、就寝時間、学習効率。健康を維持するためのカロリー摂取量。

 すべての数字は記憶されている。

 すべての計画は完璧だ。


 だが。

 好きなもの。

 嬉しいこと。

 楽しみなこと。


 知らない。


 湊は初めて、自分の中に「知らない」という領域があることを認識した。


「……知らないんだな」

 矢野が、先ほどまでの笑いを消し、静かな声で言った。


「……そうだな」

 湊は静かに認めた。


 自分は詩織の生活を知っていた。

 だが、詩織自身のことは知らなかった。

 詩織が何を見て笑うのか。何を楽しいと思うのか。

 その部分だけが、ぽっかり抜け落ちていた。


 *


 バンッ、と。

 春奈が両手で机を叩いた。


「よし」

 宣言するように言った。

「まず、詩織ちゃんを調査しよう。何が好きか、どんな雰囲気が嬉しいか」


「なるほど」

 湊は顔を上げ、真面目な顔でノートに『詩織の嗜好調査』と書き込もうとした。


「待て待て待て」

 矢野が、慌てて湊のペンを押さえる。

「対象は彼女じゃねえ」

「……?」

 湊が、理解できないというように矢野を見る。

「お前だ」

「俺?」


 春奈が、深く頷く。

「じゃあ聞くけど」

 彼女は少しだけ考えてから、言葉を選んで言った。

「湊は、何がしたいの? 詩織ちゃんと」


 湊は、一瞬だけ怪訝な顔をした。

 自分が何をしたいか。イベントにおける自身の欲求。

 そんな変数は、彼の計算式には最初から存在しなかった。


「……分からない」


「だよね。イベントってね、湊」

 もどかしそうに声を上げる。

「正解を当てるゲームじゃないの。一緒にやるものなの」


 湊の眉間が、さらに深く寄った。

 彼にとって、生活のタスクは「詩織の満足度」を最大化するためのものだ。


「だから!」

「詩織ちゃんが何を好きか、も大事だけど! 湊が何したいかも大事なの!」


 湊は、完全にフリーズした。

 自分が、どう楽しみたいか。

 親を失い、家計簿とエクセルに向かい続けてきた彼にとって、それは最も遠い概念だった。


「……こりゃ重症だな」

 矢野が、頭を掻きながら静かに言った。


 湊は、ただ黙ってノートを見つめていた。白紙のページには、「楽しい=定義不能」「わちゃわちゃ=数値化困難」という、不器用な文字列だけが残されていた。


 予鈴のチャイムが鳴り、昼休みが終わる。


 *


 その後、授業が終わり——


 放課後。

 日直の仕事を終えた湊は、春奈と矢野と共に、駅へと向かう道を歩いていた。

 少し冷たくなった秋の風が、三人の間を吹き抜けていく。


「ちなみに」

 春奈が、前を向いたまま湊に釘を刺す。

「絶対、変なアンケートとか取らないでよ」

「なぜだ」

 湊が即座に反応した。

「詩織ちゃんの好きなもの調査票、みたいなの作って渡すとかさ」

「効率的だが」

「やめろ」

「やめろ」


 春奈と矢野に同時に遮られ、湊は不満そうに口を閉ざした。


「とりあえず」

 春奈が話を戻す。

「今年は、大掛かりなの禁止ね」

「なぜだ」

 湊が再び不満そうに返す。「やるからには、費用対効果を最大化する完璧な──」

「絶対暴走するからな」

 矢野が即座に遮った。

「しない」

「する」

「する」

 二人に即答され、湊は押し黙った。


「では、何をすればいい」

 湊の問いに、春奈は少し歩調を緩めた。

「まずは、小さいのでいいの」

「慣れてないんだから」と矢野が続く。

「普通の家だって、最初から完璧じゃないし」

「行事なんて、積み重ねだよ」


 積み重ね。

 その言葉に、湊の足がわずかに遅れた。

 積み重ね。それは、毎日の学習計画や、家計簿の記録、そして受験勉強と同じ概念だった。一発で完璧な数値を出す必要はない。修正を前提とした反復練習。

 その解釈なら、湊の論理体系にも組み込むことができる。


「……なるほど」

 湊は、小さく呟いた。

「初回はテストケースとし、データを収集。来年度以降の精度向上に繋げるということか」

「まあ、言い方は可愛くないけど、そういうこと」

 春奈が苦笑いした。


 *


 駅前のロータリー。

 ここで、三人はそれぞれの方向へと別れる。


「じゃあね。まあ、頑張りなさい」

 春奈が手を振る。

「分からなかったらまた聞け」

 矢野も、カバンを肩に担ぎ直しながら言った。


 湊は、少しの間、黙って二人を見ていた。

 そして。


「……助かった」


 静かな、だが確かな声で言った。

 春奈の手が止まり、矢野の動きもピタリと止まる。二人が、信じられないものを見たというように固まった。

 自然な感謝だった。計算でも、義務でもない。本当に有益な情報を手に入れたことへの、素直な言葉。


 湊は二人の反応に気付くこともなく、短く会釈をして背を向け、歩き出した。

 その真っ直ぐな不器用な背中を見送りながら、矢野がぽつりと言った。


「なあ」

「……うん」

「俺たち今、すげえもの見た気がする」


 春奈が、小さく笑った。

「うん。見たね」


 夕暮れの空が、商店街をオレンジ色に染め始めている。

 少しの間があって、矢野が真面目な声で言った。


「でも、意外だったな」

「何が?」

「湊。あいつ、生活を広げようとしてる」


 これまで、すべてを削ぎ落として生きてきた男が。

 春奈は、夕風に髪を揺らしながら、少しだけ柔らかく笑って首を横に振った。


「広げてるんじゃない」

「え?」

「取り戻してるんだよ。今から一個ずつ」


 夕暮れの商店街。街灯の下で、オレンジ色のハロウィン飾りが風に揺れていた。


「普通の家なら、もっと前に覚えてたことをね」


 そしてその頃。

 静かな一軒家で、詩織は英単語帳をめくりながら、ふと窓の外に目を向けた。


 夕暮れの風に揺れる街路樹の葉と、遠くに見える商店街の灯り。

 そういえば、もうすぐハロウィンか。


 詩織は一瞬だけそう思い、すぐに英単語帳へ視線を戻した。

 自分の知らないところで、誰かが自分のために真剣に悩み、初めての「行事」を計画しているとも知らずに。


 時計の針が、また一つ進んだ。

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