第96話:生活の定義
十月下旬。
網戸を通り抜ける風は日を追うごとに冷たさを増し、秋の深まりを肌に突きつけてくる。
登下校の道すがら、詩織の視界に入る街の景色は、いつの間にかオレンジと黒に染まりつつあった。
駅前の商店街に足を踏み入れれば、パン屋のショーウィンドウにはカボチャのシールが貼られ、ドラッグストアの天井からはプラスチック製のチープなコウモリが大量に吊るされている。
いつものスーパーの入り口には、オレンジ色のパッケージで包装されたお菓子の特設コーナーが組まれ、コンビニのレジ横には「期間限定・パンプキンキャラメルスイーツ」の派手なポップが並んでいた。
どこもかしこも、ハロウィンという得体の知れない熱気に包まれている。
教室の中も、例外ではない。
昼休みの喧騒の中、詩織の斜め前の席では、春菜を中心とした女子たちが数人集まり、スマートフォンの画面を覗き込みながら甲高い声を上げていた。
「ねえ、今年なに着る? 渋谷とか行くなら気合い入れないとだよね」
「うーん、やっぱ王道で魔女かなー。去年ドンキーで買ったやつあるし」
「えー、魔女は被るって。私、今年は血糊とか買ってゾンビメイクやろうかなって思ってんだけど」
「マジ? ガチじゃん。じゃあ放課後、コスメ見に行こうよ」
彼女たちの声は明るく、底抜けに平和だった。教室のどこか遠くで鳴っている音みたいだった。
詩織は、机の上に広げた英文法の参考書に静かに視線を落とす。
羨ましいわけではない。寂しいわけでもない。ただ、自分には関係のない世界だと思っていた。
ふと、詩織は視線を横に滑らせ、隣の席を見た。
そこには、いつもと寸分違わぬ姿勢で机に向かう湊がいた。
彼の机の上には、分厚い物理の参考書と、計算用紙として使っている裏紙の束がある。周囲の女子たちが「ゾンビメイク」だの「魔女」だのと騒いでいる声など、彼の鼓膜には一切届いていないかのように、一定のリズムでシャープペンシルを走らせていた。
彼は、完全に無関心だった。
世間の騒ぎなど、自分たちの生活には一ミリも介入させないという、徹底した無関心。
その横顔を見た瞬間、気付けば、肩に入っていた力が少し抜けていた。
このオレンジ色に染まった世界の中で、季節のイベントから切り離されているのは、自分だけではないのだ。
圧倒的な現実主義と合理主義で武装した彼が、こうして何事もなかったように問題集を解いている。世間がどれだけ浮かれ騒ごうとも、湊と詩織の二人が共有する「生活」の枠組みは、決して揺らぐことはない。
気付けば、握っていたシャープペンシルを持ち直していた。英文法の問題へ意識を戻す。
*
五時間目の後の短い休み時間。
湊は、学級委員としての仕事を淡々とこなしていた。教卓の前に立ち、進路希望調査のプリントを列ごとに数え、淀みない動作で前の席の生徒へと渡していく。その動きには一切の無駄がなく、まるで精密にプログラムされた機械のようだった。
「おっ、サンキュ」
一番前の席に座っていた矢野がプリントを受け取りながら、ひらりと手を上げた。そして、湊の顔を見上げて、からかうような笑みを浮かべる。
「なあ湊。お前ら、今年もハロウィンスルー?」
「当然だ」
湊は、プリントを数える手はおろか、視線すら矢野に向けずに即答した。
「即答すんな」
いつの間にか教卓の横にやってきていた春奈が、呆れたような声を出して湊の腕を小突いた。
「少しは考える素振りくらい見せなさいよ。今週末だよ?」
「思考するまでもない。受験生に不要なイベントだ」
湊の声は平坦で、そこには反論の余地を許さない絶対的な冷たさがあった。彼にとって、ハロウィンなど、ただ街が騒がしくなり、交通機関が乱れ、無駄な出費を誘発するだけの「害悪」でしかない。
だが、今日の春奈と矢野は、その程度の冷たい返答で引き下がるつもりはないようだった。ここから、二人の執拗な攻めが始まった。
「でもさ、普通の家ってやるじゃん。カボチャのスープ作ったりとか、ちょっとしたお菓子買ったりとかさ」
「普通は知らん。俺の管轄外だ」
春奈の言葉を冷徹に切り捨てた湊に対し、今度は矢野が身を乗り出して口を開いた。
「お前さ、いつも『生活、生活』って言う割にさ」
「何だ」
「イベント全部切ってるよな。ハロウィンも、多分クリスマスも、下手すりゃ正月も」
「不要だからだ。生活を維持するためのカロリー摂取と睡眠、そして学力の向上。それ以外に割くリソースはない」
湊は、残りのプリントの端を机でトントンと揃えながら、至極当然のことのように言い放った。
少しの間、沈黙が落ちた。周囲の声だけが妙に遠くなった。
矢野は、いつものおどけた態度をすっと消し、じっと湊の黒い瞳を見据えた。
「それさ」
「……」
「生活じゃなくて、ただ生きてるだけじゃね?」
誰もすぐには口を開かなかった。
気付けば、息を吐くタイミングを失っていた。やがて、プリントを揃えようとしていた手が、ぴたりと止まった。
春奈も不思議そうに小首を傾げながら続いた。
「普通の家ってさ、そういうのも込みで生活なんだよ」
彼女はそう言って、教卓から少し離れた席で参考書に向かっている詩織の方へと視線を流した。
「詩織ちゃんだって、嫌じゃないと思うけどな」
最後の一言が落ちた後も、湊から返事はなかった。
キーンコーンカーンコーン、と。
六時間目の始まりを告げる予鈴のチャイムが、教室に鳴り響いた。
「まあ、別にいいけど。お前らの勝手だしな」
矢野はそう言って肩をすくめ、自分の席へと向き直った。春奈も「じゃあね」と短く言い残し、自分の席へと戻っていく。
教卓の前に一人取り残された湊は、手に持ったプリントを見たまま動かなかった。
*
放課後。
駅前の大型スーパー。
自動ドアを抜けると、いつものように生鮮食品売り場の冷たい空気が二人を包み込んだ。
夕方の買い物客でごった返す店内。カートを押す湊の横顔は、いつもと変わらないように見える。
もやし。一袋三十八円。
特売の卵。ワンパック百九十八円。
木綿豆腐。二丁で九十円。
半額シールが貼られた外国産の豚肉。
いつもと同じ。湊は値札を確認し、スマートフォンに金額を打ち込み、カゴへと入れていく。その指は迷わない。
だが、詩織は気付いていた。今日の湊は、少しだけ口数が少ない。
いつもなら決定事項を口にするはずの彼が、今日は店に入ってからほとんど言葉を発していない。カートを押す速度も、普段よりわずかに遅い気がした。
やがて、スーパーのBGMに紛れるような、かすかな声で彼がぽつりと呟いた。
「……生きてるだけ、か」
詩織は、その言葉の意味が分からなかった。問い返すこともできなかった。
湊はゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出した。
エクセルの家計管理表を開くのだろうと詩織は思ったが、彼の指の動きは違った。ブラウザを開き、見慣れない検索画面を開く。
「……湊くん。何してるんですか?」
湊は画面から目を離さずに、短い声で答えた。
「調査だ」
「何のですか」
「生活の」
湊は、大真面目な顔でそう言い切った。
特売のモヤシの山の前で、モヤシの値札を見ているのか、スマホを見ているのか、自分でも分からなくなっているようだった。詩織は思わず口元が緩みそうになり、慌てて視線を逸らした。
*
帰宅後。
質素な夕食を終え、食器の片付けが終わった夜のアパート。
いつものように、ダイニングテーブルは二つの領域に分けられていた。向かって右側が詩織の勉強スペース、左側が湊の管理スペースだ。
湊は、ノートパソコンを開き、画面と睨み合っていた。
ディスプレイに表示されているのは、彼が自作したエクセルの「家計管理表」だ。
【食費】
【光熱費】
【教材費】
【通信費】
【交通費】
【予備費】
画面には、いつもの見慣れた項目が規則正しく並んでいる。
詩織は、英単語の暗記帳に目を落としながら、背中で湊のタイピング音を聞いていた。カタ、カタカタ、ターン。いつもなら、一定のリズムで数字が入力されていく音がするはずだ。
ふと。
そのタイピング音が、完全に止まった。
詩織が顔を上げると、パソコンの画面を前にした湊が、固まっていた。
湊の指先が、キーボードの上で迷っている。時折、人差し指がキーに触れようとするが、ためらうように再び空中で止まり、バックスペースキーを一度だけ叩いて、また深い沈黙に沈む。
詩織はシャープペンシルをそっと机に置いた。
「湊くん。何してるんですか?」
詩織の声に、湊は少しだけ肩を揺らし、しかし画面からは視線を外さずに答えた。
「……新規項目を追加している」
「新規項目?」
詩織は立ち上がり、ゆっくりと湊の背後へと回った。
湊の肩越しに、エクセルの画面を覗き込む。
【食費】
【光熱費】
【教材費】
【通信費】
【交通費】
【予備費】
そこまでは、いつも通りだった。
しかし、その一番下の行。ついさっきまで空白だったセルに、太字で新しい文字が打ち込まれていた。
【行事費】
詩織は、その三文字から目が離せなくなった。
「行事費……?」
「ああ」
「何ですか、それ」
湊は、キーボードから手を離し、少しだけ考えるように沈黙した。
そして、パソコンの画面を見つめたまま、淡々とした声で言った。
「生活に、必要らしい」
「……誰に聞いたんですか」
「春奈と矢野だ」
そこで、とうとう堪えきれなかった。
「ふっ、ふふっ……あはははっ!」
詩織は、口元を手で覆いながら、堪えきれずに吹き出した。
一度漏れた笑いは止まらなかった。唇を噛んでも、肩を押さえても、喉の奥から小さな笑い声がこぼれてしまう。
その笑い声が、ようやく小さくなった時。
「笑うな」
湊が、小さく呟いた。
「だって……っ」
湊は、小さくため息をつくと、再びキーボードに向かった。
【行事費】
カーソルが、その文字の横で静かに点滅していた。
詩織は、画面に並んだその無機質な文字列を見つめながら、そっと右手薬指のリングに触れた。
冷蔵庫のモーター音だけが部屋に響く。




