第95話:生活に入った日
スマートフォンのアラーム音が、脳髄を直線的に貫いた。
寝起きの瞬間は、いつも意識が定まるまでに数秒かかる。その間に、掛け布団の中で右手を探るように曲げた。
薬指が、昨夜はめられたばかりの冷たい金属に触れた。指が動く。現実だ。同じ速さでアラーム音を止めた。
天井が見える。秋の薄明かりが、部屋全体を鈍色に染めていた。
指輪に触れた。もう慌てて外す必要はない。誰かに見つかることを恐れて目を覚ます朝は、昨日で終わった。
布団の中で指を握る。金属の感触がまだ少しだけ異物だった。けれど、それが妙に嬉しかった。
詩織はベッドから降り、フローリングの冷たさに小さく肩をすくめながらリビングへのドアを開けた。
「……おはようございます、湊くん」
キッチンからは、トースターが跳ね上がるチンという音と、コーヒーの苦い香りが漂う。テーブルにはハムエッグとサラダの皿が二つ、寸分の狂いもなく向かい合わせに並べられていた。
「ああ、おはよう」
湊は片手にマグカップを持ち、流し台の前でプラスチック容器のパッケージを剥がしていた。手際よく容器を水ですすぎ、可燃ゴミとプラスチック資源ゴミの袋へ迷いなく分別していく。ちらりと視線を向けただけで、すぐに手元の作業に戻る。
「今日は可燃ゴミの日だ。登校するついでに集積所へ持っていくから、各自の部屋のゴミ箱をまとめておけ」
「……はい」
湊は指輪の話題に一切触れない。特別な日の余韻など微塵も感じさせない。
彼の中では、昨日の出来事はすでに完了し、今日の徹底したルーティンへと移行している。
気付けば、朝からずっと上がっていた肩が落ちた。
劇的に変わったはずなのに、湊がいつも通りすぎて、結局いつもの朝になっていた。
*
登校時の電車も、駅から学校までの道のりも、驚くほど普段と変わらない。
教室に入り、自分の席にカバンを置いた途端、背中をバンッと叩かれた。
「詩織! 十八歳、おめでとー!」
春奈がフルスロットルのテンションで立っていた。片手にはコンビニの袋。
「これ、新作スイーツ! 昨日渡せなかったから朝イチで買ってきた」
春奈の視線が一瞬だけ右手の指輪に落ちた。それだけで十分だった。
「まあ、十八歳っていろいろあるんだろうな。とりあえず、食べなさいよ」
「奈々ちゃん……ありがとう」
「お、詩織ちゃん昨日誕生日だったのか。おめでとさん」
矢野が席から身を乗り出してきた。彼もまた、言葉の裏で一瞬だけ不思議そうな間を置く。
「俺は早生まれだからまだ十七だけどな。大人の階段を一歩先に登った気分はどうよ」
「あんたの無駄な張り合いは何なのよ」
始業のチャイムが鳴り、担任の矢島先生が教室に入ってきた。出席簿を教卓に叩きつけ、気怠そうに教室を見渡す。
「そういや、昨日誕生日だったやつがいたな。十八になったからって校則は変わらんぞ。進路だけは真面目に考えろ」
詩織は、前から回ってきた連絡プリントを受け取った。
春奈の賑やかなお祝いも、矢野の軽い声掛けも、矢島先生の言葉も、すべてが日常の延長線上にある。
朝から胸の奥に引っ掛かっていた何かが、ようやく重さを取り戻して落ちていった。
ただの誕生日を迎えただけ。その無関心なまでの軽さが、心地よい。
四時間目が終わり、昼休みのチャイムが鳴った。
詩織は机の上で、湊と二人で分担して詰めた弁当を開いた。
卵焼きの甘い香り。いつもと変わらない風景。
「詩織ちゃん、昨日誕生日でしょう?」
近くの席から、修学旅行で同じ班だった田中美咲が声をかけてきた。
「えっ、知ってたの?」
「友達のSNSで見かけたの。湊くん、詩織ちゃんに何かプレゼントしたの?」
美咲が笑いながら湊の方を見る。春奈も興味深そうに椅子をこちらに向けた。
教室のざわめきの中で、数人の視線がこちらに集まる。
「……別に、普通だよ」
湊は表情一つ変えず、淡々と箸を動かしている。彼にとっては、周囲の冷やかしも、生活のルーティンを乱す要因でしかない。
「普通って、湊らしいな」
矢野がわざとらしく肩をすくめる。「なあ、放課後どっか行かないのか? 誕生日くらい大盤振る舞いしろよ」
「金はない」
湊の即答に、教室のあちこちから笑いが漏れる。冷やかしの視線。少しだけ居心地の悪さを感じるはずなのに、なぜか詩織の指先は震えなかった。
「……すみません、今日は帰りに寄るところがあって。また今度」
詩織が控えめに言うと、春奈が「そっかー、残念!」と笑いながら、再び話題をテストの話へと切り替えた。
冷やかしは一瞬で終わり、教室は元の穏やかな日常へと戻っていく。
五時間目に苦手な数学の小テストがあり、放課後には日直の仕事が待つ。昼休みの教室は、穏やかな時間を消費し続けている。
*
放課後。
日直の仕事を終えて下駄箱へ向かうと、そこにはいつも通り、湊が壁に寄りかかって待っていた。
駅へ向かう帰り道。並んで歩く二人の間に、特別な会話はない。
「今日の数学の小テスト、範囲間違えてたみたいで……全然解けませんでした」
「お前の学習管理は俺がやっているはずだが。スケジュール表の文字が読めなかったのか」
「読めましたけど、前のページも出るかと思って……」
「無駄な推測をするな。帰ったら間違えた箇所を三回解き直せ」
湊は前を向いて歩きながら、詩織の右手を見ようともしない。指輪のことも、今日という日も、彼の中では当たり前に処理されている。
駅前の大型スーパーに立ち寄った時のこと。
自動ドアを抜けると、買い物客の喧騒と野菜売り場の冷たい空気が二人を包み込んだ。湊は迷うことなくカートを引き、特売品のポップが並ぶ通路を正確なルートで進んでいく。
「もやしが一袋三十八円。先週より十円高いな」
湊はもやしの袋を手に取り、値札とスマートフォンのメモ帳を交互に見比べていた。
「十円くらい、いいじゃないですか」
「塵も積もれば山となる。一ヶ月で三百円の損失だ。三百円あれば、英単語の小テスト用の赤シートが新調できる」
詩織は苦笑しながら、隣に並ぶ豚肉のパックに視線を移す。国産豚バラ肉、グラム百九十八円。その隣には、半額シールが貼られた外国産の細切れ肉。
ふと、詩織の足が止まった。
視線が、肉のパックから、スーパーの壁に貼られた「アルバイト募集・時給千百円」のポスターへと移る。
湊のアルバイト代が月にいくらなのか、詩織は正確には知らない。でも、彼が毎月提示する「家計管理表」には、つねに「赤字を出さない計算」が組み込まれている。その赤字ギリギリの生活が、もし自分が何か失敗したら、簡単に転覆するのではないか。
十八歳になった。なのに、自分の財布には千円札が一枚しか入っていない。指輪だけでは大人になれない。レジで金を払う側にならなければならない。
カートの取っ手を握る指先から、すっと血の気が引いた。周囲を行き交うキャスター音が遠のき、呼吸のリズムが崩れかける。
詩織が立ち止まったことに気づき、湊もまた足を止めた。湊は動かない。詩織から半歩だけ距離を空けた隣で、じっと豚肉のパックを見つめている。
スマートフォンの画面をトントンと指で叩く。
「半額で計算済みだ。ズレはない」
湊は事実だけを口にした。
「今月の食費枠の余剰は、現時点で千二百八十円だ。明日の朝食の卵も買える」
「……湊くん」
詩織はふと、スマートフォンの画面を覗き込んだ。
「その計算、消費税が含まれてなくないですか?」
湊の指先が、ピタリと止まった。
彼にしては珍しく、瞬きを二回繰り返す。画面を見つめ直し、微かに眉間を寄せた。
「……税込み計算への切り替えを忘れていた。修正する。現時点での余剰は千百十五円だ」
「百円ちょっと減っちゃいましたね」
不安の勢いが、「千百十五円」という数字で止まった。計算済み。すべて。彼は、もう計算している。
金額そのものより、その事実が詩織の呼吸をゆっくりと整える。肩に入っていた力がようやく抜けた。置いていかれているわけではない。それだけで十分だった。
「……そうですね。半額の方にしましょう」
詩織が少しだけ弾んだ声で言うと、湊は気まずそうに「ん」とだけ応え、半額シールの貼られたパックをカゴに入れた。
湊はそれ以上何も言わず、詩織の歩調に合わせて、ゆっくりと再びカートを押し始める。
*
アパートに帰り、夕食を終えた夜。
詩織はダイニングチェアに座ったまま、マグカップの温かいお茶を両手で包み込んでいた。テーブルの向かい側では、湊がノートパソコンを開き、スケジュール表のエクセルファイルに何かを打ち込んでいる。カタカタと響く一定のタイピング音。
「ねえ、湊くん」
声をかけると、湊の手が止まる。
「なんだ」
「昨日って、もう終わったんですよね」
詩織は、マグカップの水面に揺れる自分の顔を見つめた。
「ずっと、昨日が来るのを待ってたのに。迎えたら、あっという間に終わっちゃって。……でも、世界は何も変わってないみたいで」
湊はノートパソコンから視線を外し、詩織の顔を真っ直ぐに見た。部屋の蛍光灯の光が、彼の黒い瞳の奥で静かに反射している。
「イベントは、昨日で終わった」
抑揚のない声。
「終わり。次は生活だ」
詩織は、小さく息を飲んだ。湊はパソコンの画面に視線を戻す。
タイピング音が、再び部屋に響き始める。
湊はパソコンから視線を外さないまま、やや間を置いてから口を開いた。
「イベントは終わる。だが、生活は続く」
彼は画面に視線を戻す。
「明日は不燃ゴミの日だ」
詩織は少しだけ鼻で笑った。
詩織は立ち上がった。まだ、スーパーでの不安が足に残っていた。でも、机に着くと、その重さは薄れていく。
机の椅子に座る。分厚い英語の問題集を引き寄せる。
その間も、湊はパソコンの画面から目を離さない。タイピング音が規則的に鳴り続けている。
詩織は、シャープペンシルを握ろうとして、手を止めた。右手薬指のリング。
何度も触ったせいか、指輪の冷たさはもう消えていた。
部屋の天井の明かりが、カチリと消えた。湊が身を乗り出して、オフにしたのだ。
デスクライトだけの暗さ。詩織も自分のライトを点ける。
部屋の隅から冷蔵庫のモーター音が低く響く。それが不意に、すとんと止まった。
代わりに、湊のキーボードを叩く音だけが静かな部屋に残った。壁掛け時計の針が一秒を刻む。
明日もまた、同じ時間にアラームは鳴る。そして、その次の日も。




