第94話:十月十五日
遮光カーテンのわずかな隙間から、細い光の帯がフローリングの床に真っ直ぐに伸びていた。
秋特有の、少しだけ冷たくて澄み切った空気が部屋の中に満ちている。遠くの通りを走る車のエンジン音がかすかに聞こえるだけで、外の通りはまだ静まり返っている。
詩織は、掛け布団の中で目を開けた。
まばたきを数回繰り返し、まだぼんやりとする頭で枕元のスマートフォンを手探りで引き寄せる。ガラスの画面を指先でタップすると、眩しい光とともにデジタル時計の数字が暗闇に浮かび上がった。
『十月十五日 午前六時十五分』
涙が落ちたのは、息を吸おうとした瞬間だった。
喉の奥がひくついて、そこでようやく頬が濡れているのに気づいた。
何度もカレンダーで確認した数字。指折り数えて、時に祈るように、時に怯えながら待ち望んでいたその日。
今日から、十八歳。
世間では、ただの節目にすぎない。けれど詩織にとっては、ここから初めて「選べる側」に立てる境界線だった。
スマホの画面を見つめていると、不意に、あの底冷えする春先の夜の空気を思い出した。
電気も水道も止められた暗いアパートの部屋。父親が失踪し、最後に残された数千円の生活費も底をついた。
途方に暮れたまま彷徨い歩いた夜の繁華街で、極彩色のネオンサインの下、いかがわしい高収入バイトのチラシに手を伸ばそうとしたあの瞬間。明日どうやって生きていけばいいのか分からない絶望が、詩織の首を真綿で絞めつけていた。
でも、もう終わったのだ。
もう誰も、詩織の意志を無視して居場所を決めることはできない。もう逃げなくていい。もう、息を潜めて怯える必要もない。
頬を一筋の涙が伝い、シーツに吸い込まれていく。悲しいわけではない。嬉しいだけでもない。ただ、肩に入っていた力が抜けた、というより──入れ方を忘れたみたいに、身体の奥のどこかが静かになっていった。
「……終わったんだ」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。
ゆっくりと身体を起こし、リビングのソファの方へと視線を向ける。
そこには、薄い毛布を被り、規則正しい寝息を立てている湊の姿があった。
詩織は音を立てないように布団を抜け出し、素足でフローリングを踏みしめながら、そっと湊の傍らに近づいた。
彼の寝顔は、驚くほど無防備だった。
出会ったばかりの頃、湊は常に警戒心を剥き出しにしていた。少しの物音でもすぐに目を覚まし、眉間に深いシワを寄せて、周囲の安全を確認するまで決して体の力を抜かなかった。彼もまた、たった一人で世界と戦い続けていたからだ。
そんな彼が今、自分よりも先に、こんなにも穏やかな顔をして眠っている。
湊が安心して眠れるようになったのは、きっと、二人の間にあるこの退屈な「日常」が、彼から過剰な警戒心を奪い去ったからだ。
詩織は、湊の顔にかかっていた前髪を、そっと指先で払った。
彼は少しだけ寝返りを打ったが、目を覚ます気配はない。
「……おはよう、湊くん」
心の中でそっと呟き、詩織は小さく笑った。
昔の自分なら、こんな朝は想像もできなかった。誰かの寝顔を見て、愛おしいと思える日が来るなんて。
自分たちは、確かにここまで来たのだ。
洗濯物の匂いがして、誰かがまだ眠っているだけの朝へ。
*
午前八時。
キッチンから漂うトーストの焼ける香ばしい匂いと、コーヒーメーカーがコポコポと音を立てる低い響きで、湊は目を覚ました。
「あ、おはようございます。湊くん」
「……ああ、おはよう」
エプロン姿の詩織が、フライパンで目玉焼きを焼きながら振り返る。朝の静けさを、かすかな油の弾ける音が心地よく破っていた。
湊は少しだけ寝癖のついた頭を掻きながら、洗面所へと向かった。顔を洗い、タオルで水気を拭き取りながら鏡を見る。そこには、いつもの平坦な顔があった。
着替えてリビングに戻ると、すでにテーブルの上には朝食がセットされていた。
修学旅行から帰ってきた翌日の、代休の朝。何の変哲もない、いつもの休日の風景だ。
朝食を終えると、二人で手分けして溜まっていた洗濯物を干し、近くのスーパーへ買い出しに出かけた。
「白菜の価格が高騰している。もやしで代用できるなら許可する」
「もー、せっかくのお鍋なんだから少しは贅沢しましょうよ」
特売品の前でそんな他愛のない会話を交わし、夕飯の献立を相談しながら歩く。
夕方に差し掛かる店内は混雑し始めていた。すれ違う買い物客の波に押されそうになり、詩織は無意識に足がすくんで立ち止まってしまう。人混みに対する本能的な怯え。
すると、前を歩いていた湊が気配に気づき、無言でスッと詩織と人混みの間に立ち、わずかに距離を詰めてくれた。
言葉はない。ただそれだけで、強張った足が再び前に出た。
スーパーからの帰り道。背後から急に、乾いた自転車のベルが鳴らされた。
「ビクッ」と肩が跳ね、詩織は思わずレジ袋を強く握りしめて立ち止まってしまう。
心臓が一拍だけ遅れて、次の鼓動を探すみたいに空回った。かつての、居場所を失って彷徨っていた時の恐怖が、首筋を撫でる。
「……どうかしたか?」
数歩先を歩いていた湊が、足を止めて振り返る。ただの通りすがりの自転車だと頭では理解しても、呼吸が元に戻るまでに数秒かかった。
詩織は、ひきつりそうになる頬を必死に持ち上げて、なんとか笑顔を作った。
「あ、いえ。何でもないです」
「そうか。袋、持つか?」
「大丈夫です」
完全に恐怖が消えたわけではない。トラウマは、そう簡単には消え去ってくれない。それでも、前を歩く不器用な背中を見ていると、狂いかけた心臓の鼓動は自分の意志で制御できるくらいに静まっていった。
サプライズのパーティーも、豪華なプレゼントもない。小さなノイズはあっても、それ以上に平穏な一日。
「何もないって、すごく幸せですね」
詩織がぽつりと言った言葉に、湊は少しだけ眉を寄せたが、すぐに小さく息を吐いた。
「……お前の幸せの沸点は、相変わらず低すぎるな」
「いいじゃないですか。私は今、とっても幸せですから」
詩織は笑い、レジ袋を持つ湊の空いている方の袖を、そっと指先で掴んだ。湊はそれを振り払うことなく、ただ静かに歩幅を合わせて歩き続けた。
*
夕方。
夕食の支度をする前に、二人は少しだけ近所を散歩することにした。
西の空が深く鮮やかなオレンジ色に染まり、川面が無数の光を反射している。土手沿いに生い茂るススキの穂が、風に揺れてサラサラと音を立てていた。
「不思議ですね」
詩織が、夕日を見つめながら口を開いた。
「何が」
「今年の春は、こんな日が来るなんて想像もしてなかった」
詩織の言葉に、湊は黙って前を歩き続けた。
ほんの半年前のことだ。あの頃の詩織は、ただ「今日を生き延びること」だけで精一杯で、明日が来ることすら怖かった。
「それが今は……」
詩織は立ち止まり、川の向こうへと沈んでいく夕日を真っ直ぐに見つめた。
夕陽に照らされたその横顔には、もう怯えの色はない。
「今は、来年が楽しみです」
風が、ススキを大きく揺らす。
詩織は、少しだけ照れくさそうに、けれど真っ直ぐな瞳で湊を見た。
「来年の春には受験票を握ってて、その次の春には……たぶん、今とは違う部屋で目が覚めてると思うんです」
かつては想像することすらできなかった未来に、今は行きたい大学や住みたい部屋のことまで浮かんでくる。
湊は、詩織の少し先で立ち止まり、振り返った。
逆光になって表情はよく見えない。けれど、その声はいつものように理屈っぽく、そして、ひどく不器用だった。
「……なら、お前が将来の予定を組む時は、俺のスケジュールも組み込んでおけ」
「えっ?」
「受験もあるし、大学の学費や今後の生活費の問題もある。俺の予定表には、消える予定は最初から入ってない」
その遠回しすぎる言葉に、喉の奥が詰まり、返事をしようとしても声が出なかった。詩織はただ無言で、深く、深く頷いた。
「冷える前に帰るぞ。夕飯の準備がある」
「はいっ」
湊が背を向け、歩き出す。
詩織は小走りでその後を追いかけ、彼の隣に並んだ。
伸びた二つの影は途中で重なり、どちらがどちらのものか分からなくなっていた。
*
帰宅し、夕食を終えた後のことだった。
いつものように食器を洗い終え、リビングのソファで少し休もうとした詩織の前に、湊が小さな箱を二つ、無言でコトリと置いた。駅前の少しだけ高級な洋菓子店のロゴが入ったケーキの箱だった。
「昼間、何も用意していないようなことを言っていたからな。お前の沸点が低いとはいえ、さすがに誕生日を完全にスルーするのは、同居人としての管理能力が問われると判断した」
「ふふっ、言い訳が長いです」
相変わらずの理屈っぽい言い回しに、詩織は笑いながら箱を開けた。中には、美味しそうな苺のショートケーキが二つ。
二人で並んで、濃いめに淹れた紅茶と一緒にケーキを食べる。テレビのバラエティ番組の笑い声が、静かなリビングに流れている。
ケーキを食べ終え、空になった皿をシンクに片付けた後も、二人はソファに並んで座っていた。
マグカップの底に残った少し温い紅茶を啜りながら、ぼんやりとテレビの画面を眺める。時計の針は、午後十一時を回ろうとしていた。
何事も起きない、ただ静かで穏やかな誕生日だった。今日という一日が、このまま静かに終わろうとしている。
「……待て」
湊が、少しだけ硬い声で詩織を呼び止めた。
見ると、湊はソファに座ったまま、ひどく落ち着かない様子で視線を宙に泳がせていた。いつも冷静な彼が、珍しく貧乏ゆすりをしそうになるのを必死にこらえているように見える。
「湊くん? どうかしましたか?」
「いや……その」
湊は立ち上がり、詩織の前に立った。
彼は基本的に、合理性のない物に意味を持たせたがらない主義だ。「記念品など不要だ」と切り捨ててきた彼が、修学旅行中に受け取ったあの通知を思い出しながら、ズボンのポケットへと手を入れる。
そして、手のひらサイズの小さな黒い箱を取り出した。……一拍だけ、部屋の空気が薄くなる。
瞬間。
詩織の思考が、完全に停止した。ひゅっ、と喉の奥で息を飲む音が鳴る。
小さな、正方形の箱。
それが何を意味するのか。
「えっ」
「いや」
「違う、違いますよね?」
「その顔やめろ」
完全にプロポーズだと勘違いしてパニックになり、顔を真っ赤にして後ずさりする詩織を見て、湊が猛烈に焦り始めた。
「ばっ、お前、何を想像してる! 落ち着け!」
「だ、だって、その箱の形は……!」
「これは……その、なんだ」
湊は観念したように頭をガシガシと掻き乱し、深くため息をついた。
そして、少しだけ乱暴な手つきで、その小さな箱をパカッと開けた。
中に入っていたのは、細い銀色のリングだった。
大きな宝石がついているわけでも、有名ブランドの刻印があるわけでもない。高校生のバイト代でも手が届く価格帯のペアリング。
箱に入った状態でも、それは自分の指に合いそうに見えた。
「高いものじゃない。俺のバイト代の範囲内で買えるやつだ。だから、そんな重い意味はない。ただの……記念品だ」
湊は、視線をそっぽに向けたまま、早口でまくし立てた。耳の裏が、真っ赤に染まっている。
「……記念品」
「そうだ。十月十五日を無事に迎えられたことと、これからの……その」
湊は一度言葉を切り、ようやく詩織の目を真っ直ぐに見据えた。
「……これからも、よろしくっていう、象徴みたいなものだ」
静寂が、リビングに落ちた。テレビの音も何も聞こえなくなった。
詩織は呆然としながら、箱の中のリングを見つめた。
「あの……サイズ、どうして分かったんですか?」
「沖縄で土産物屋に寄った時、お前がアクセサリーコーナーでサンプルをはめて遊んでたのを覚えていたからな」
「あ……あの時、ずっとスマホいじってるふりして、見てたんですか」
詩織の言葉に、湊はさらに気まずそうに顔を背けた。
「……はい」
詩織は、震える声で答えた。
「よろしくお願いします。……大事にします」
「おい、だから重いって言ってるだろ」
「重くないです」
「いや、重い」
「重くないです。絶対に外しません」
詩織は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、それでも満面の笑みで言い返した。
湊は頭を抱え、「……勝手にしろ」と降参したようにもう一度ため息をついた。けれど、その口元は、隠しきれないほどに緩んでいた。
湊が箱から指輪を取り出し、不器用な手つきで詩織の右手を取る。
彼の少し硬い指先が、自分の指に触れる。その一瞬だけ、心臓が痛いほど大きく跳ねた。
指輪がゆっくりと薬指の関節を通り、根元で止まる。
少し冷たい銀色の感触。呼吸の仕方を、いったん忘れたみたいだった。
「……左は重すぎるからな」
湊がぼそりと言い訳のように付け加えた。
十分すぎるほど重いのに。そう思いながら、詩織は自分の手を見つめ、指輪の感触を確かめるように、そっと反対の手で包み込んだ。
指輪をはめてもらった後、何を話したのか、どうやって残りのケーキの皿を片付けたのか、実はあまり覚えていない。
ただ、新しく淹れ直した紅茶のカップを持とうとするたびに、どうしても右手薬指の銀色に視線が吸い寄せられてしまう。無意識に口元が緩むのを必死に堪えて紅茶を一口飲むと、不意に湊と目が合った。
湊もまた、どこか落ち着かない様子で自分のマグカップの縁を指でなぞっていた。バチリと視線が交差した瞬間、二人は弾かれたように同時にそっぽを向いた。
頭の中がふんわりと白くなって、指先の冷たい金属の感触だけが、ずっとそこにあった。
*
深夜。
自室のベッドに潜り込んだ詩織は、掛け布団の中で、右手に光る銀色のリングをじっと見つめていた。
ふと、あの繁華街の情景がフラッシュバックしかけた。あの日の底冷えする空気と、明日の見えない暗闇。けれど、薬指のひんやりとした金属の感触に意識を向けると、嫌な記憶はすっと遠のいていった。
今年の春。
あの日の自分は、絶望のどん底にいた。
今年の十月十五日。
自分は、未来を持っている。隣の部屋には、大好きな湊がいる。
安心して眠れる、帰る場所がある。明日がある。来年がある。
少なくとも今夜は、何も怖くなかった。
食器棚に向かう途中でも、ソファへ戻る途中でも、指輪をはめた右手ばかり見てしまった。
詩織は、そっと指輪に唇を寄せた。
金属の奥に、確かな湊の体温を感じるような気がした。
「……おやすみなさい、湊くん」
目を閉じると、夜風がカーテンを微かに揺らした。
部屋の隅から冷蔵庫のモーター音が低く響き、遠くの通りを深夜のトラックが走り去っていく音が聞こえる。
ただそれだけで、胸の奥が少し軽くなった。




