第99話:解けない問題
十一月上旬。
校庭に立つ銀杏の木々が鮮やかな黄色に染まり始め、吹き抜ける風にはっきりと冬の気配が混じるようになってきた。
放課後の図書室は、特有の静寂と古い紙の匂いに包まれている。西日が窓枠を切り取り、空中に舞う細かな埃を黄金色に照らし出していた。
窓際の席に陣取った湊は、机の上に分厚い数学の参考書を広げ、右手でシャープペンシルを握っていた。一見すれば、難関大学の二次試験に向けた高度な数式と格闘しているように見える。姿勢は正しく、視線は真剣そのものだ。
だが、彼が実際に見つめているのは、参考書の脇に置かれたスマートフォンの液晶画面だった。
無表情のまま、湊は親指を滑らせ、検索エンジンの結果を次々とスクロールしていく。
『クリスマス 必要なもの』
『高校生 クリスマス プレゼント 相場』
『クリスマス ケーキ 必須か』
『プレゼント 男女 成功率』
次々と表示される情報は、互いに矛盾していた。
『高校生カップルのクリスマスプレゼント、予算は五千円程度が妥当』
なるほど。明確な数値だ。
しかし別のサイトには、全く異なる見解が記されていた。
『一万円以上が定番。ここでケチる男は選ばれません』
(……データの整合性が全く取れない)
湊はシャープペンシルの芯をカチリと鳴らし、参考書の隣に置かれた無地のノートに目を落とした。
ページの最上部には、定規で引いたように真っ直ぐな文字で、こう記されている。
【クリスマス運用計画】
ハロウィンという一つの経験を経て、湊はイベントが単なるリソースの浪費ではないことを理解した。
それは共同生活者との関係性を良好に保ち、何より「彼女の笑顔を見る」ための有効な手段となり得る。
ならば、次なる巨大イベントであるクリスマスは、より高い精度で運用されなければならない。
しかし、入力すべきパラメータがあまりにも矛盾だらけだった。
平均値は算出できても、一般的な傾向は確認できる。
しかし、個人差が大きすぎて、詩織に適用できる保証がない。予算、嗜好、季節性、雰囲気、相手の期待値。変数が多すぎて、どの解を選択すれば成功率が最大化されるのか、その関数が全く見えてこない。
ノートの白紙部分を見つめ、湊が静かに思考の沼に沈んでいたその時。
「凑くん」
不意に、すぐ横から声が降ってきた。
湊の肩が、微かに跳ねる。視線を上げると、カーディガンを羽織った詩織が、数冊の文庫本を抱えて立っていた。足音に全く気付かなかった。
「何を書いてるんですか?」
詩織が首を傾げ、机の上のノートを覗き込もうとする。
パタンッ。
湊は即座に、目にも留まらぬ速さでノートを閉じた。そして、その上に数学の参考書をスライドさせ、物理的に隠蔽する。
その一連の動作があまりにも機械的で、かつ過剰に素早かったため、詩織はきょとんとした顔で固まった。
「……生活の調査だ」
湊は一切の表情を崩さず、正面を向いたまま淡々と告げた。
「生活、ですか?」
「ああ。今後の運用ルールを最適化するための基礎資料を作成している。お前にはまだ開示できない」
詩織は、怪しいものを見るような、それでいて少し呆れたような目で数秒間彼を見つめた。
やがて、小さくため息をつきながらも、口元をわずかに綻ばせる。
「そうですか。……あんまり、無理しないでくださいね」
彼女はそれ以上は追及せず、静かな足取りで図書室の出口へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、湊は小さく息を吐く。
完全に怪しまれている。
だが、まだ話すわけにはいかなかった。
*
翌日の昼休み。
湊は春奈と矢野を呼び出し、校舎の屋上へと足を運んでいた。
重い鉄扉を開けると、冷たい秋の突風が吹き抜け、湊の短い髪を激しく揺らした。空は高く澄み切っているが、日差しに暖かさはない。
弁当のパンを齧りながらついてきた矢野と、寒そうに腕をさする春菜は、屋上のコンクリートの柵のそばで不審げに湊を見た。
「で? ハロウィンの特大カボチャ事件以来の相談って、なによ。こんなクソ寒いところで」
彼女が腕組みをして尋ねる。
湊は返答を待たず、制服の内ポケットから例のノートを取り出した。表紙をめくり、昨日の図書室で書き込んだページを開く。
「質問がある」
「珍しいな、お前が自分から質問なんて」
矢野が焼きそばパンを咀嚼しながら応じる。
湊はノートを胸元に構え、二人を射抜くような眼差しで見据えた。
「クリスマスの成功条件を教えろ」
一瞬の静寂。
風の音だけが屋上を通り抜ける。
「……は?」
矢野が間の抜けた声を出し、春奈が湊の手元にあるノートを覗き込んだ。そこに書かれた太文字の見出しを見て、春菜の顔が引きつる。
「【クリスマス運用計画】……なにそのタイトル。国家プロジェクトか何か?」
「失敗は避けたい」
「ネット上のデータは矛盾に満ちている。これでは最適解が導き出せない。お前たちの経験則に基づくデータを共有してほしい」
矢野が、急に吹き出した。
最初は堪えようとしていたが、やがて腹を抱え、コンクリートの柵に突っ伏して爆笑し始めた。
「あはははは! 運用計画って! お前さ、いい加減イベントをシステムみたいに言うのやめろって! ロマンの欠片もねえな!」
「笑うな。これは重大な懸案事項だ」
湊が不満げに眉を寄せる。
「俺には時間が限られている。十二月二十四日までに、詩織が最も満足するクリスマスの構成要素を特定し、手配を完了しなければならない」
矢野は涙目を拭いながら、大きく息を吐き出した。
「だからさあ、正解探しても意味ないぞ、湊」
「なぜだ」
「相手によるからだよ。ネットの平均予算とか、定番のプレゼントとか、そんなもん詩織ちゃんに関係ねえだろ」
春奈も深く頷き、呆れたように湊を指差した。
「矢野の言う通り。プレゼントの相場とか、ケーキの種類とか、そういう形式的なことばっかり気にしてどうするの。大事なのは、詩織ちゃんが何をしたら喜ぶか、でしょ」
詩織が喜ぶかどうか。
湊は、その言葉を反芻した。
それは、ハロウィンの時に春菜たちが言ったことと同じだ。「正解を当てるゲームじゃない」「詩織ちゃんが何を好きか」。
湊は無言のままノートを引き寄せ、シャープペンシルを取り出した。
『プレゼントの相場:不要』
『ケーキの形式:二次的要素』
『最重要課題:詩織の喜ぶ反応を予測すること』
「いや、メモ取るな! そこでノート書くのやめなさい!」
春奈が叫んでノートを取り上げようとするが、湊はヒラリと躱す。
「……なるほど」
数秒間の思考の後、湊は顔を上げ、確信に満ちた声で言った。
「理解した。つまり、詩織という個別の対象に対して、汎用的なルールではなく、彼女固有の法則を導き出せということか」
「「いや、それもやめろ!」」
屋上に、春奈と矢野の絶叫が綺麗にハモって木霊した。
「全然違う! なんでもかんでも数式に落とし込むな!」
「お前の頭はどうなってんだよ本当に……」
二人の嘆きをよそに、湊は『彼女固有の法則を導き出す』という項目に力強くアンダーラインを引いた。
やるべきタスクは明確になった。
*
その日から、湊の行動は傍目にも明らかに不審なものへと進化した。
彼は「詩織」という対象を、生態を記録する学者のような視点で観察し、その「反応」をデータとして収集し始めたのだ。
夜の七時。
二人でキッチンに並び、夕食の準備をしている時。湊が軽量カップで醤油をミリリットル単位まで正確に量ろうとし、それを見た詩織がくすくすと笑う。
(事象:共同での調理作業。結果:機嫌良好、会話量の増加。明確な笑顔)
休日の午後。
スーパーの帰り道。特売のチョコレートを見つけた詩織が、「今日はちょっと贅沢ですね」と笑う。
(事象:共同での買い出し。結果:機嫌良好)
夕食後。
テレビを見ながらの雑談中。話題が偶然、詩織が春先まで一人で暮らしていた古いアパートのことになった。
「あの頃は、本当に寒くて……」
詩織が言葉を濁す。湊は無表情のままノートを開く。
(事象:共同生活開始以前の話題。結果:口数の減少。表情が曇る)
数日間続いたそんな異常な観察態勢に、ついに詩織が耐えきれなくなった。
木曜日の夜。食器を片付けている最中、詩織は手を止め、真っ直ぐに湊を見た。
「……湊くん」
「なんだ」
「最近、なんだかずっと見られてません? 視線を感じるというか、何かの観察対象にされてる気がしてすごく落ち着かないんですけど……」
湊の手が止まる。
誤魔化すこともできた。しかし、嘘をつくことは彼の基本理念に反する。
「正直に言う。観察している」
「やっぱりそうじゃないですか!」
詩織は半歩後ずさった。
ドン引きしたような顔で身震いし、そそくさと自分の寝室へと避難していく。
パタン、とドアが閉まる音を聞きながら、湊は手元のノートにペンを走らせた。
『過剰な観察は警戒心を生む』
*
それから数日後。休日の昼下がり。
湊は、遠回しな観察に限界を感じ、あえて直球の質問を投げかけてみることにした。昼食を食べ終えたタイミングを見計らい、真正面から切り出す。
「……詩織」
「はい?」
「今の生活において、お前に不足しているものはあるか。物質的な面で」
詩織は少し考え、キッチンの棚を見上げたり、自分の着ている服を見下ろしたりして、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、特にないです。湊くんが家計をしっかり管理してくれていますし、必要なものは揃っていますから」
「本当にか。何か欲しいものはないのか」
湊が食い下がる。
「服でも、装飾品でも、何でもいい。現在、最も所有したいと願うものを一つ挙げろ」
詩織は、湊の真剣すぎる眼差しに少しだけ戸惑ったように瞬きをした。
そして、ふわりと柔らかく、何の衒いもない自然な笑顔を浮かべた。
「本当に、ありませんよ。今は、こうして安心してご飯が食べられて、帰る場所がある。それだけで、十分すぎるくらい幸せですから」
湊は黙り込んだ。
彼女の目には、遠慮も、嘘も、裏の意図も微塵も感じられなかった。
その「何もない」という言葉が、今の彼女の全人格的な本音であることを、湊の論理は痛いほど正確に弾き出していた。
欲しいものが無い。
その事実だけが、湊を沈黙させた。
湊は初めて、解の存在しない問題に直面していた。
*
十一月も中旬に差し掛かった夜。
詩織がバスルームに入り、静寂が降りた一軒家のリビングに、湊は一人残された。
ストーブの微かな燃焼音だけが部屋に響く中、彼はローテーブルの上で無地のノートを開く。
ピタリ、と。
湊の視線が止まる。
何度も見返した記録だった。だが、その夜初めて気付いた。
笑顔の最大値を記録した項目に、共通して存在するものがある。
ランタンを抱えて帰った夜。
春奈たちが押しかけてきた夜。
キッチンで並んだ夕食の支度。
買い物帰りの他愛ない雑談。
なぜ分からない。なぜ解けない。
その焦燥の果てに、湊の思考が劇的に組み変わっていく。
高スコアを記録している事象の中に、高価なブランド品は一つもない。流行のアクセサリーも、高級レストランのディナーも存在しない。
(……違う)
欲しい物ではなかった。
彼女が笑っていたのは、何かを手に入れた時ではない。
誰かと時間を共有している時だった。
そこまでは分かった。
だが、それをどうクリスマスの形にすればいいのかは分からない。
時間は購入できない。
包装もできない。
レシートも発行されない。
それをどうやって贈ればいい。
数式のない、解法すら存在しない問題を前に、湊の思考は深い静寂へと沈んでいった。
*
バスルームのドアが開き、脱衣所から詩織がリビングに顔を出した。
「湊くん、まだ勉強してるんですか?」
タオルで拭いたばかりの濡れた髪が、ふわりとシャンプーの甘い香りを室内に運んでくる。
湊は、ノートをパタンと閉じた。
「……調査中だ」
詩織は、彼がまたあの「生活の調査」とやらで一人で難しい顔をしていることを察し、少しだけ困ったように、それでも心底楽しそうに目を細めた。
「大変ですね。受験勉強と、その『生活の調査』の両立」
湊は、その言葉を聞きながら、閉じたノートの表紙を見つめた。
本当に大変だろうか。
クリスマスまで、あと一ヶ月半。
まだ答えは出ていない。
それでも湊は、不思議と焦っていなかった。
数学の問題なら、答えは一つだ。
だが、この問題には答えがあるのかすら分からない。
それでも。
なぜか投げ出したいとは思わなかった。
解けない問題を考え続けること自体が、少しだけ嫌いではなくなっていたからだ。
静かな夜。
ストーブの微かな音が響くリビングで。
湊は閉じたノートに、静かに手を置いた。
まだ答えは見つからない。
けれど彼はまだ気付いていなかった。
自分が探している答えを、今まさに過ごしていることに。




