第100話:それぞれの十二月
十二月上旬。
カレンダーの最後のページがめくられると同時に、街の空気は一変した。駅前のロータリーには青と白のイルミネーションが点灯し、スーパーのBGMは気の早いクリスマスソングへと切り替わっている。
息を吐けば白く濁る、本格的な冬の到来。
しかし、湊の脳内は気温とは裏腹に、ある一つの命題の処理によって熱を帯びていた。
(時間を、どうやって贈るか)
詩織が求めているものは、高価な物品ではない。誰かと共有する「時間」そのものだ。
だが、時間は購入も包装もできない。実体を持たない概念を、どうやって特定の日にプレゼントとして提示すればいいのか。
過去はすでに過ぎ去り、現在は今この瞬間に消費されている。ならば、彼が物理的な形として提示できる「時間」は、ただ一つしかない。
(……未来の可視化。今後の予定の共有だ)
湊の手が、ふと止まった。
予定。記録。共有。
そのキーワードが揃った時、彼の脳裏に一つの具体的なオブジェクトが浮かび上がった。
翌日の放課後。
湊は真っ直ぐ帰宅せず、駅前の大型文房具店へと足を運んだ。
色とりどりのクリスマスカードやギフトコーナーには目もくれず、実用性を重視した事務用品のコーナーへ向かう。
棚にずらりと並ぶノートを、湊は鋭い目で吟味していく。紙の厚さ、綴じの強度。
やがて彼の手は、棚の一角に置かれた一冊のノートの前で止まった。
濃紺の表紙を持つ、飾り気のないシンプルなノート。
それは、現在湊が一軒家のリビングで「家計簿」として運用しているものと、全く同じシリーズの色違いだった。
気付けば、その背表紙を見つめたまま数秒が過ぎていた。
ただの事務用品だ。だが、それを手に取る自分の指先が、ほんのわずかに熱を持っていることに、彼は無自覚ではいられなかった。
湊は無表情のまま、しかし確かな力強さでそのノートを握りしめ、レジへと向かった。
*
同時期。昼休みの渡り廊下。
冷たい風を避けるように日向に集まった詩織、春菜、矢野の三人は、お弁当箱を広げながら密談を交わしていた。
「……というわけで、私もクリスマス、湊くんに何かお返しがしたくて」
詩織が、少しだけ声を潜めて切り出した。
ハロウィンの夜、不器用ながらも自分を喜ばせようと巨大なカボチャを抱えて帰ってきた湊の姿。あの時の嬉しさは、今でも詩織の胸の奥を温かくしている。
「貰う」ばかりではなく、自分からも何かを贈りたい。それは自然な欲求だった。
「なるほどねえ。いよいよ詩織ちゃんも反撃開始ってわけだ」
矢野が卵焼きを放り込みながら笑う。
「でもさあ、相手があの湊でしょ?」
春奈が箸を止め、露骨に嫌そうな顔をした。
「例えば詩織ちゃんが、一万円くらいの上等なマフラーを買ってプレゼントしたとするじゃん?」
「はい。マフラー、定番ですよね」
「あの男は絶対こう言うね。『費用対効果が悪い。防寒機能なら、ウニクロのヒートテックと千円のネックウォーマーで十二分だ。返品してこい』って」
「うわあ……言いそう。絶対言いそう」
矢野が爆笑し、詩織も思わず苦笑いを浮かべた。
誇張ではなく、湊の論理フィルターを通せば、世の中の定番プレゼントの大半は「非合理的な散財」として処理されてしまう。
「あいつの壁を突破できるプレゼントか……」
矢野が首を振る中、詩織も小さくため息をついた。
「そうなんです。だから、お金をかけたものは逆効果になる気がして」
その時、春奈がポンと手を打った。
「だったらさ、手作りケーキにしなよ」
「ケーキ、ですか?」
「そう。クリスマスケーキってお手製でもなきゃイベント価格でやたら高いじゃん? あいつ絶対『小麦粉と砂糖の塊に数千円は原価率が狂ってる』とか言い出すに決まってる」
「言うな、絶対言う」と矢野が頷く。
「でもさ」春奈はにやりと笑った。「詩織ちゃんが時間かけて作ったケーキなら、あいつも文句言えないでしょ」
詩織の目が、ぱちりと見開かれた。
費用対効果ではない。原価率でもない。
湊が普段、最も切り捨てている「手間」や「時間」。それをあえて真正面からぶつける。
「……それです!」
詩織の顔がパッと明るくなる。
「ケーキなら、二人で一緒に食べられますし。私、今までお菓子作りなんて家庭科の授業くらいでしかやったことないですけど……練習すれば、きっと」
「よし決まり! 分からないことがあったら聞きなよ。食べる専門だけど!」
「俺も試食ならいつでも付き合うぜ」
「奈々ちゃん、矢野くん、ありがとうございます!」
その日の帰り道。
詩織はスーパーの製菓コーナーで、生クリームや薄力粉のパッケージを真剣な目で見つめていた。
去年の今頃、自分がクリスマスケーキを誰かと食べる予定など、どこにもなかった。冷え切った古いアパートで、一人分の小さなショートケーキを買うかどうか、ただそれだけを悩んでいたのだ。
なのに今年は違う。
上手く膨らまなかったらどうしよう。そんな不安はある。
けれど、不思議とやめようとは思わなかった。
不格好なケーキになったとしても、彼は文句を言いながら、結局は食べてくれると分かっているから。
詩織もまた、相手のための時間を費やすという、静かな覚悟を決めていた。
*
十二月も半ばに差し掛かった、ある夜。
一軒家のリビングでは、ストーブが微かな燃焼音を立てていた。
ローテーブルの向かい合わせに座る湊と詩織。お互いが相手に内緒で「サプライズ」の準備を進めているため、日常の会話の中に、見えない腹の探り合いが発生していた。
湊が、手元の家計簿から顔を上げ、宣言するように言った。
「十二月二十四日の夕食だが、俺が担当する。ローストチキンの原価計算とカロリー設計はすでに済んでいる」
その言葉に、詩織の肩がビクッと跳ねた。
湊が夕食を作ってくれるのはありがたい。しかし、それでは致命的な問題が発生する。ケーキを焼くための時間とスペースが確保できない。
「えっ! あ、あの、でも私、その日は少しキッチンを使いたくて……!」
詩織が慌てて声を上げる。
湊は怪訝な顔で眉を寄せた。
「キッチン? 俺の調理工程とバッティングする。使用範囲はコンロか、それともオーブンか」
「オ、オーブン……です」
「オーブン」
湊の目が、スッと細められた。
「予定外の電力消費だ。一体、何を焼く気だ」
鋭い追及。詩織の背筋に冷や汗が流れる。
ここで「ケーキです」と言ってしまえばサプライズが水泡に帰す。しかし、料理のレパートリーが少ない詩織の口から、とっさに気の利いた嘘など出るはずもない。
「……グ、グラタンです!」
「グラタン」
「は、はい。たまにはオーブンで焼いた、熱々のグラタンが食べたいなー、なんて……思いまして」
嘘だ。バレバレの嘘だった。
声は上ずり、視線は泳いでいる。
湊の論理演算能力をもってすれば、今の詩織の態度の不自然さを指摘し、計画の再提出を要求することは容易かった。
数秒の沈黙。
湊は、泳ぐ詩織の目をじっと見つめ……やがて、ふと視線を落とした。
「……グラタン。俺のメニューと炭水化物が一部重複するが」
「あ……」
「特別な日だ。許可しよう。後で、俺の調理スケジュールとすり合わせを行う」
詩織は、パッと顔を輝かせた。
「ほ、本当ですか! ありがとうございます、湊くん!」
湊は「あぁ」とだけ短く応え、再び家計簿に目を落とした。
相手にも、隠したい事情がある。彼女の不器用な嘘を、あえて暴かずに飲み込む。
二人の生活のルールは、確実に変容していた。
*
十二月二十三日。クリスマスイブの前夜。
日付が変わろうとする深夜の自室で、湊は一人、机に向かっていた。
目の前には、先日購入した濃紺のまっさらなノートが置かれている。
彼は表紙を開き、最初のページに定規を当てた。黒のボールペンを握り、ゆっくりと、一切のブレのない真っ直ぐな線を引く。
湊は特有の整った文字で、見出しとなる項目を一つ一つ書き込んでいく。
【行事費】
【誕生日】
【クリスマス】
【旅行】
来年、再来年。これから訪れるであろう予定を書き込むための余白。
湊はそこで、ピタリとペンを止めた。
ここから先は、家計簿の領域ではない。書くべきではないのではないか。論理的な思考がそう警告する。
だが、何度考えても、彼が思い描く未来の運用計画には、その欄だけがどうしても必要だった。
深い静寂の中。湊は一番下の行に、ゆっくりと新たな項目を書き足した。
【二人でやりたいこと】
予算管理ではない。生活の維持にも必要ない。
それでも、この欄だけは必要だった。
(……物品の贈呈という観点では、価値は低い。金銭的換算もできない。所有権も発生しない。だが、共同生活を継続する上で、共有する予定や希望を記録することには合理的な意味がある。ならば、この項目は必要だ。)
高校生が渡すクリスマスプレゼントとしては、過剰な内容かもしれない。
まだ見ぬ未来の予定まで提示することが、詩織にとって本当に喜ばしいことなのか。
湊は一度、思考を止めた。
しかし。
湊は、消しゴムを手に取ることはなかった。
彼は静かにノートを閉じると、机の一番上の引き出しにそっとしまった。
*
自室を出てリビングに向かうと、ソファで詩織がスマートフォンを横向きに持ち、画面を食い入るように見つめていた。
湊の気配に気付いた瞬間、詩織はビクッと肩を震わせ、慌ててスマホをクッションの下に隠す。
「な、なんでもないです! 明日の、グラタンのホワイトソースの作り方を見てただけです!」
声が裏返っている。
湊は、クッションの隙間から漏れる光を横目で見ながら、無表情で応じた。
「……そうか。明日のオーブンの予熱は、俺がやっておく」
「あ……ありがとうございます」
詩織が、少しだけホッとしたように息をつき、ふんわりと笑う。
数分後。
自室に戻った湊は、自分の机に広げたままになっていた「本物の家計簿」の端に、黒いペンで小さくメモを書き加えた。
『十二月二十四日:グラタン(オーブン使用時間要調整)』
静かな冬の夜。
ストーブの微かな燃焼音だけが響く一軒家で。
二人は不器用な秘密を抱えたまま、それぞれの想いを胸に、同じ明日を待っていた。




