第101話:象徴とケーキ
十二月二十四日。日本中が赤と緑の装飾に彩られ、商業的な狂騒がピークに達するこの日。
湊は早朝から、極めて論理的かつ厳格な「作戦行動」を展開していた。
午前中のうちにスーパーの開店と同時に突入し、予約しておいた丸鶏を回収。ついでに不足していた香草類と根菜を的確にカゴへ放り込む。
レジの混雑を鮮やかに回避し、帰宅後は直ちに丸鶏の下処理を開始した。
塩とハーブを正確なグラム数で擦り込み、冷蔵庫で寝かせる。ここまでは、完璧なタイムマネジメントに基づいたルーティンワークだ。
だが、湊の今日のメインミッションは調理そのものではない。
「イベントの象徴性」の確立である。
十月末のハロウィンにおいて、湊はイベントというものが単なるリソースの浪費ではなく、生活を円滑に進めるための「情操的投資」であることを学んだ。
クリスマスという最大級のイベントを運用するにあたり、最も重要なのは環境構築である。雰囲気を決定づけるための明確なシンボルが必要不可欠だ。
(プラスチック製の安価な卓上ツリーでは、視覚的な情報量が不足する。イベントの重大性を定義づけるには、空間の占有率と実体感が求められる)
数日間の検討の結果、湊が導き出した結論は極めてシンプルだった。「本物」であり、かつ「可能な限り巨大」であること。
午後一時。湊は隣町の大型ホームセンターの園芸コーナーにトラックで乗り付け、事前に手配しておいた「それ」を引き取った。
そして午後三時。一軒家のリビングで、湊はメジャーを片手に一人で格闘していた。
「……計算通りだ」
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、湊は眼前にそびえ立つ自らの成果物を見上げた。
高さ、およそ二メートル三十センチ。
リビングの天井高が二メートル四十センチであることを考慮すれば、まさに限界ギリギリのサイズ。本物のモミの木である。生木特有の青い匂いが漂っていた。
枝の隅々にまで緻密な計算に基づいてLEDライトを這わせ、赤と金のオーナメントを等間隔で配置する。
部屋の主照明を落として電源を入れると、薄暗い空間の中に、圧倒的な質量を持った光の巨木が浮かび上がった。
湊はツリーを見上げたまま、満足げにうなずいた。
そしてキッチンへと戻り、チキンの調理を再開する。
*
午後五時半。玄関が開き、冷気が流れ込む。
「ただいまー」という、寒さで少しだけ上ずった詩織の明るい声が響いた。
「おかえり。手洗いうがいを済ませろ。チキンの焼き上がりまであと二十二分だ」
キッチンから湊が声をかける。
「はい! 今すぐ……えっ」
リビングに足を踏み入れた詩織の動きが、完全に停止した。
彼女の視線は、部屋の奥に鎮座する天井に届きそうなほどの巨大な光の塊に釘付けになっている。点滅するライトが、詩織の頬を赤や青に染めていた。
数秒の硬直の後、詩織は持っていた小さな紙袋を胸にギュッと抱き直しながら、振り返ってキッチンを指差した。
「み、湊くん! なんですかこれ!?」
「見ての通り、クリスマスツリーだ。モミの木の生木を手配した。天井までのクリアランスは十センチ。空間効率を最大限に活かしたサイズ選定だ」
「空間効率じゃなくて、ただの空間占有です! っていうか、デカすぎます! ハロウィンの特大カボチャから何も学んでないじゃないですか!」
詩織がツリーの根本まで駆け寄り、巨木を見上げた。
「カボチャは有機的な腐敗のリスクがあったが、モミの木は乾燥にさえ気をつければ長期間の運用が可能だ。象徴性として申し分ない」
「そういう問題じゃなくて! 床にめちゃくちゃ葉っぱ落ちてるし!」
「……掃除機の稼働頻度を上げることで対応する」
「対応策が力技!」
詩織は呆れたように大きなため息をつき、それから、光の波を描くLEDライトを見上げて、ふっ、と小さく吹き出した。
「もう……湊くんって、時々すごく極端ですよね」
「最適解を追求した結果だ」
「はいはい。でも……綺麗ですね。本物のツリーなんて、初めて見ました」
詩織はそっとモミの木の枝に触れ、くすぐったそうに、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
その横顔に、湊は短く息を吐く。
彼女の「笑顔の初動データ」は、明確にポジティブな数値を叩き出している。
*
午後六時。巨大なツリーの光が照らすローテーブルに、豪華な夕食が並べられた。
二人だけの食卓には十分すぎるほどのボリュームだった。
「いただきます!」
詩織が手を合わせ、早速ナイフを入れる。立ち上る湯気と共に、閉じ込められていた熱い肉汁とガーリックの香りが弾けた。チキンの切り身を口に運んだ瞬間、彼女の顔がぱぁっと明るくなる。
「すっごく美味しいです! 皮はパリパリで、中はジューシーで……お店のみたい!」
「当然だ。肉の重量に対する塩分濃度は一・二パーセントに厳密に調整し、オーブンの温度変化も三段階でコントロールした」
「理屈はよく分かりませんけど、とにかく天才です! 湊くんのご飯、毎日食べてるのに全然飽きません」
詩織が嬉しそうに頬張る姿を見ながら、湊も静かに食事を進めた。
テレビはついていない。カチャリ、と食器が触れる。ストーブだけが静かに燃えていた。
話題は次から次へと変わった。料理の味付けの話になったかと思えば、冬休みの課題の愚痴になり、気づけばまたチキンの話に戻っている。
やがて、食事が終わりを迎えようとしていた時。湊はふと思い出したように、箸を置いて詩織を見た。
「ところで、一つ確認事項がある」
「はい? なんですか?」
「今日、お前が作成すると言っていた『グラタン』だが。俺の調理工程においてオーブンは一時間前に解放しているが、一向にマカロニを茹でる気配がない。食材の調達を忘れたのか?」
詩織はゴクリと息を呑み、テーブルの下でギュッと両手を握りしめた。
「あの……そのことなんですけど。グラタンは、嘘です」
湊はわずかに眉を動かす。知っていたことだが、あえて説明を待つ。
「実は、湊くんに秘密で作っていたものがあって。……ちょっと待っててください!」
詩織は立ち上がり、冷蔵庫へと小走りで向かった。パタパタというスリッパの音が響き、やがて彼女は、両手で大切そうに「白い箱」を抱えて戻ってくる。
テーブルの上に置かれた箱の蓋が開けられると、冷たい空気と共に、生クリームの甘い匂いがふわりと広がった。
中から現れたのは、真っ白なクリームに覆われたホールケーキだった。
側面に塗られたクリームはナイフの跡がくっきりと残り、ところどころ波打っていて均等ではない。イチゴの配置にも偏りがある。
プレートのチョコペンの文字も少し震えており、プロのパティシエが作ったような完璧な造形とは到底言い難い。
「……ケーキ、ですか」
想定外の事態に処理が追いつかず、湊の口から思わず丁寧語が漏れる。
「はい」
詩織はモジモジとエプロンの裾を握りながら、湊の顔色を窺った。
「いつもご飯を作ってくれる湊くんに、私からも何かお返しがしたくて。でも、高いもの買っても『費用対効果が悪い』って怒るじゃないですか」
「事実だ」
「だから……材料だけ買って、自分で作れば、原価しかかからないから文句言われないかなって。昨日から、こっそりスポンジを焼いて、さっきクリームを塗りました」
詩織は少し不安そうに、はにかむように笑った。
「形、ちょっと崩れちゃいましたけど……初めて作ったにしては、まあまあかなって」
湊は、テーブルの中央に置かれた不格好なケーキを見つめた。
小麦粉、砂糖、卵、生クリーム、イチゴ。使用された食材の市場価格を合算すれば、千五百円にも満たないだろう。
ふと、ここ数日の詩織の様子が頭をよぎった。
ソファで必死に動画を見ていた姿。スーパーの製菓コーナーで、薄力粉のパッケージを真剣に見つめていた姿。オーブンの使用権を勝ち取るために、泳ぐ視線で慣れない嘘をついた夜。
あの夜の自分を思い出した。
(彼女は……俺に、自分の時間を差し出したのか)
湊は小さく息を吐き、静かにナイフを手に取った。慎重に切り分け、自分の皿に乗せる。
フォークでスポンジとクリーム、そしてイチゴを切り取り、口へと運ぶ。不器用な甘さが舌の上に広がった。市販品のような滑らかさには欠けるし、スポンジも少しパサついている。
――だが。
湊はフォークを下ろし、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「グラタンにしては、随分と甘いな」
詩織がきょとんとした後、ふふっと吹き出した。
「でも」
湊はケーキを見下ろす。
もう理屈を並べる気にはなれなかった。
「美味い。……今まで食べたどのケーキよりも、価値がある」
詩織の口元がぱっと緩んだ。
「よかった……! ありがとうございます、湊くん!」
巨大なツリーのLEDライトが明滅する中、甘い匂いとストーブの熱が部屋を満たしている。
クリームを頬張る無防備な姿を見つめながら、湊は静かに居住まいを正した。
(次は、俺の番だ)
「詩織」
「はい?」
クリームを口の端につけたまま、詩織が首を傾げる。
「少し、待っていろ。俺からも、お前に渡すものがある」
「え?」
湊は静かに立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
彼の机の、一番上の引き出しの中。
彼自身の答えと、これからの未来が記された、あの濃紺のノートを取り出すために。




